其ノ拾壱 ~紅蓮ノ獄鏖鬼~
真っ赤に染まった視界の中で、蓮はその少年の姿を捉え続けていた。
湧き上がる殺戮衝動に突き動かされ、謎の声に言われるがままに襲い掛かった。だがつい数分前に殺した柄の悪い集団とは打って変わり、今殺そうとしている少年は素早く機敏で、幾度か繰り出した攻撃を回避し、未だに逃げ続けていた。
さっきの奴らは、今の自分の姿を見ただけでも身がすくんでいたのに……大した奴だ。逃走する彼の背中を見つめ、蓮は思った。
《どうした、何を遊んでいる?》
声の主が語り掛けてくる。
急かしているわけではなく、ただ成り行きを傍観しているような雰囲気だった。
「うっせえよ」
何にせよ、逃がす気はなかった。
声の主を受け入れ、赤黒い霧にその身を覆い包んだ蓮。彼にとっては全ての人間が敵であり、標的だった。
目の前にいる少年が攻撃を回避し続けていたのは、彼が何か格闘技でも学んでいたか、それともただの偶然なのかは定かではない。しかし、もう終わらせるつもりだった。
少年の逃げる先へと跳躍して回り込み、だじろぐ彼の首を掴み上げる。
そのまま殺しても良かったのだが、あのクズ集団の仲間(蓮はそう判断していた)だ、他の連中と同様かそれ以上に惨たらしく殺してやるのがお似合いだと思った。
逃走を防ぐために、まずは動けなくなる程度に痛めつけることにした。蓮は少年を、手近にあったコンクリートの壁に向けて投げ飛ばした。
壁に背中から打ちつけられて、狙い通り身動きできなくなった彼に向かって歩み寄る。
《さあ、やっちまえ》
言われなくともそうするつもりだった。気づけば、もう人を殺すという行為に対して、蓮は躊躇も罪悪感も感じなくなっていたのだ。
――もちろん、蓮は今殺そうとしているその少年が誰なのかなど、考えもしなかった。
◎ ◎ ◎
鬼は刻一刻と迫ってくる。
逃げなければ、殺されるのみ。しかし背中のみならず腹部にまで走る痛みのせいで、一月はその場から立ち上がることすらできなかった。
これまでか、一月がそう思ったのと同時に、鬼が刃と化した腕を振り上げる。
「っ!」
固く目を閉じる、その次の瞬間だった。
一月の腹部に何かが当たり、その身を横へと突き飛ばしたのだ。お陰で一月は攻撃を回避し、彼を狙ったはずの鬼の刃はコンクリートの壁に突き刺さる。
何が起きた?
困惑した一月の瞳に、見覚えのある白い和服が映った。
「あっ……!?」
一月は言葉を失う。
鬼との間に割って入り、間一髪のところで彼を救ったのは、幼い女の子だった。
新雪のように真っ白な和服にその身を包み、さらさらで艶のある黒髪を腰まで伸ばした少女。その面持ちは凛としていながらもどこか垢抜けておらず、そして美しかった。
千芹。
名前は聞かなくても分かった。一月にとって彼女は、すでに見知った存在なのだ。
一月が身を起こすと、千芹と視線が重なった。
「いつき……」
可憐な声で、彼女が名を呼んでくる。
また会えたことに、感慨深い気持ちを抱いてくれているのかも知れなかった。
予期せずして訪れた、二度目の再会。しかし今は、それを喜んでいられるような状況ではなかった。
突如、瓦礫が崩れ落ちるような音が辺りに響く。
「はっ!」
黒髪を空に泳がせながら、彼女が振り返る。その先には鬼の姿があった。
コンクリートの壁に突き刺さった自らの腕を引き抜き、再び一月へと迫ってきていた。
千芹が立ち上がり、一月のすぐ前に立つ。彼女の様子は鬼に立ちはだかるようにも、一月を庇っているようにも見えた。
「紅蓮の霧、それにこの殺気……やっぱり間違いない、獄鏖鬼……!」
背中を見せながら、千芹はそう言った。彼女の口から発せられた聞き慣れない単語を、一月は聞き逃さなかった。
「獄鏖鬼……?」
意味を問い返したかったが、その猶予は与えられなかった。
千芹を邪魔だと感じたのか、それとも他に理由があったのかは定かではない。その鬼――千芹いわく『獄鏖鬼』はどうやら、標的を一月から千芹に変更したようだった。
全身を覆う赤黒い霧を禍々しく瞬かせつつ、獄鏖鬼はその二つの球形の目で千芹を捉えていた。
千芹は和服の袂から小刀を取り出し、構えた。
「下がってていつき、もしわたしが危なくなったら、構わないですぐに逃げて……!」
一月の返答を待たず、彼女はその和服や黒髪を激しく靡かせつつ獄鏖鬼に向かって突進していった。
獄鏖鬼が彼女を捕えようと、その赤黒い霧に覆われた腕を振る。しかし千芹はそれを巧みに避け、凄まじい速度で走り、距離を詰め、一気に小刀のリーチにまで踏み入る。
攻撃のチャンスだ、一月同様に、千芹もそう感じたようだ。小刀を振り上げた瞬間、千芹は口を開いた。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽!」
数年前の怪異の時にも聞いた真言だったが、千芹のそれはこれまで以上に早口で、唱えるのに要した時間は僅か二秒足らず。幾度か聞いた経験のある一月でさえ、ほぼ聞き取れないほどだった。
それでも、一字一句正確に詠唱されていた。彼女の手に握られた小刀が、青い光を纏う。淡く美しい清浄な雰囲気を醸すそれは、鬼を跳ね除ける力そのものだった。
これまでそうだったように、あの小刀の攻撃は鬼には効果が抜群だろう。倒せはしなくとも、手傷は負うはず、千芹と獄鏖鬼の戦闘を見守っていた一月はそう思った。
千芹が、獄鏖鬼に向けて小刀を振り抜いた。
青い光の刃が、空に残光を残しながら命中する。その瞬間にバチッという火花が飛ぶような音とともに、青い光が飛散した。
しかし、
「っ、そんな……!?」
千芹のその声が、一月の耳にも届いた。
次の瞬間、振りかざされた赤黒い腕が、千芹へと襲い掛かる。
「ぐっ!」
小刀を握りしめたまま、千芹は後方へ飛び退いた。彼女が立っていた場所に獄鏖鬼の反撃が直撃し、舗装された道路を抉り取る。
轟音と同時に砂埃が舞い上がり、その中から赤黒い影が姿を現した。
《今……何かしたのか?》
発せられたその声に、千芹が今一度身構えた。
さっきの彼女の攻撃は、間違いなく命中していた。あんな至近距離で繰り出したのだから、外そうにも外しようがないのだ。
「攻撃が……」
戦いを見守っていた一月が呟くと、それに続けるように千芹が言った。
「効いていない……?」