其ノ拾 ~遭遇~
一旦、この場から離れること。
それを現時点での最重要事項と定めた一月が、トンネルを抜けたその瞬間だった。彼の眼前を何かが横切り、直後にグシャリという鈍い音が響き渡ったのだ。
「っ!」
風圧で一月の髪が泳ぎ、駆け出そうとしたその足が止まる。止められる。
鈍い音がした方向に視線を動かし、一月は再び息を飲んだ。
コンクリートでできた壁の下に、全身血だらけの男の死体が横たわっていたのだ。さっきまでは無かったはず……今一月の目の前を横切った物の正体は、この死体だったのだ。
死体が動くわけがない、ましてやあんな速さで……一月は、弾かれるように逆方向を向いた。
「うっ……!」
その姿を視界に捉えた瞬間、悲鳴が喉の奥で押し潰される。
いつからそこにいたのか、一月目掛けて男の死体を投擲した存在が、街灯の明かりを背に立っていた。
赤黒い霧が人の姿を形作ったような化け物――外見といい雰囲気といい、一月には紛れもなく、それが鬼であると分かった。
(鬼……いやでも、違う……!)
目の前にいる化け物は、一月が遭遇してきた鬼とは著しく乖離する点があったのだ。
これまで一月は、二度鬼と遭遇したことがある。一度目は今から四年前の秋――廃屋に踏み入った彼を待ち受けていた、鬼と化した一月の想い人の秋崎琴音。二度目はそれから数か月後、運命に翻弄されて鬼と化してしまった悲運の少女、由浅木瑠唯だ。
琴音と瑠唯、鬼となった両者に共通して見受けられた特徴は、人間の体に黒霧が瞬くような外見をしていること、そしていかにも邪悪で禍々しく、恐ろしい雰囲気を放っていることだった。
しかし、今一月の目の前にいる鬼には、おおよそ人間としての特徴が見受けられなかった。全身が赤黒い霧に覆い包まれているせいで、その実体の掴みようがないのだ。
邪悪で禍々しい雰囲気も、鬼と化した琴音や瑠唯以上に強いように感じられた。その姿を視界に入れているだけで、自分がズタズタに切り裂かれる様子をイメージさせられるほどだった。
その鬼の威圧感に身動きできなくなりながら、一月は思案する。
(何なんだこいつは、一体……!)
しかし、考えている暇はなかった。
そいつが発した意思が、一月に伝わってきたのだ。
《殺す》
我に返った一月は、ビクンと身を震わせた。
考えている暇などなかった、目の前にいる化け物がこれから何をするかなど明白だった。
鬼の顔に当たる部分、そこには二つの球形の物体が見受けられた。恐らくあれが目なのだろう。その目が自分を見たと思った瞬間、一月は飲まれんばかりの殺気を感じ取った。
(逃げなければ!)
一月が行動を決した次の瞬間、鬼はその身の赤黒い霧を揺らがせながら襲い掛かってきた。
即座に踵を返し、一月は今潜ってきたトンネルへ引き返す。
後ろから、鬼が発したであろう咆哮が轟いた。狂気の雄叫びとも悲鳴とも聞こえるそれに耳を塞ぎたくなったが、そんなことをしている余裕はなかった。
逃げなければ、殺される! 一月の第六感が、そう警告を発していたのだ。
しかし、どこへ逃げれば……危機感に駆られながら思案しつつ、一月はトンネルを抜けた。
その先には見通しのいい道路が広がっており――幾つもの死体が転がっていた。
(これは……!)
視認できない場所には、まだあるのかも知れない。だがざっと見渡しただけでも少なくとも三名、その全員が一瞥しただけでも絶命していると分かる有様だった。
首が折れた男、腹部を切り裂かれて内臓が溢れ出している女、さらには胴体を切断されている男……共通しているのは三人とも若く、柄の悪そうな見た目をしているということだった。生温い風に混ざって、血と内臓の臭気が辺りに漂っていた。
あの鬼がやったとしか、考えらなかった。トンネルの中の死体と、さっき一月に向けて投げつけられた男の死体。あの鬼が殺した人間は、他にもいたのだ。
惨すぎる……一月がそう思った時だった。
「はっ!?」
気配を感じて振り返った瞬間、鬼はすぐ近くにまで迫っていた。街灯の明かりを受け、その身が発する赤黒い霧が爛々と光を放っていた。
その右手の霧が刃を形作っていく、一月はほんの数秒前に見た、胴体を切断された死体を思い出した。このままでは自分も同じ姿にされる、鬼が刃を振り上げたのは、そう思った直後のことだった。
「くっ、そおおおおっ!」
無意識にそんな声を発しつつ、一月は無我夢中で後方へ飛び退いた。
間一髪で刃のリーチから脱することができ、真っ二つに両断されることは免れた。代わりに周囲の木が切り倒される、そこらの刃物など比較にならない切れ味だった。あんな攻撃を受ければどうなるかなど、考える必要もない。
安心する間もなく、一月は立ち上がって駆け出した。
(どうすればいい、このままじゃ殺される……!)
いつまでも逃げてはいられない、だが、捕まるのは死と同義だ。
薄暗い夜道を必死に走りながら、一月はこの状況下における自身の行動について、頭の中で選択肢を思い浮かべた。
(逃げる、どこへ? 隠れる、ここに身を潜められる場所などない。なら戦う? そんなのもってのほか……!)
取るべき行動が分からない、ふと後ろに視線を向けた時だった。
(いない……!?)
そこにいたはずのあの鬼の姿が、見当たらなかったのだ。
次の瞬間だった、一月のほんの数メートル前方に、何かが落下してきたのだ。
「うっ!」
コンクリートの地面を踏み砕きながら現れたのは、姿を消したと思ったあの赤黒い霧を纏う鬼だった。跳躍して、一月の進む方へと回り込んだのだろう。機動力も、これまでの鬼以上に高いものを備えているようだった。
すぐさま踵を返そうとしたが、一月にその猶予は与えられなかった。
伸びてきた鬼の腕が、一月の首を掴み上げた。
「ぐあっ!」
続けざまに、鬼は一月を投げ飛ばした。
軽々と放られた一月の身は、吸い込まれるようにコンクリートの壁へと向かっていき、ドンという音を立てて激突した。その音は、一月自身の耳にも届いた。
「がはっ……!」
背中から感じた痛みが腹部にまで達し、気を失いそうになる。口の中に、鉄のような血の味が充満した。
地面に崩れ落ちた一月は、揺らぐ視界の中でこちらに迫りくる鬼の姿を捉えた。その右手が再び、刃を形作っていた。行動不能にさせた所に、止めを刺す気なのだ。
立ち上がろうとしたが、痛みで叶わなかった。
(くそ、このままでは……!)
殺されるのが目に見えている、しかし逃げられない。
万事休すだった。




