其ノ九 ~鬼ノ予兆~
足元の大きな池に映るその姿を見て、少女は息を呑んだ。
赤黒い霧が寄せ集まり、人の姿を形作ったような化け物。それが暴れ狂い、次々と人を惨殺する様子が、水面に映し出されていたのだ。その化け物に狙われれば、逃れる術などない。ある者は切り裂かれ、またある者は踏み潰され、人の命がゴミのように奪い去られていく。
まばたきもせず、少女はそれを見つめていた。その小さな体が、恐怖に震えていた。
(そんな、あの鬼は……!)
心中で呟いた次の瞬間、彼女はあることに気づき、池に向かってその手をかざした。
すると化け物の姿が消え、代わりにある少年の姿が映し出された。彼は夜道の中自転車に乗り、危機感に駆られた面持ちを浮かべてどこかへ向かっていた。
その少年が誰なのか、そして彼がどこへ向かおうとしているのか……少女はすぐに察した。そして恐ろしい予感に、息を呑む。
(だめいつき、殺されちゃう!)
黙って見ていることは、もうできなかった。
その長い黒髪や、新雪のような純白の和服を空に泳がせながら、少女は駆け出した。
◎ ◎ ◎
高校の時以来に、一月はそれを感じた。
悪寒とともに迫る殺気、僅かでも身動きしようものならば、すぐさま取り殺される――そう錯覚するほどの威圧感。
忘れもしない、鬼の気配だ。一月がこれを感じるということは、彼の身近のどこかに鬼が出現したということ。四年前、当時高校一年生だった頃に初めて怪異に巻き込まれ、鬼を目の当たりにした時を境に、一月には鬼の気配を感じる力が備わったのだ。
しかも、今回は何かが違う気がした。
これまで以上に邪悪で禍々しく、危険な気配がする……一月にはそう感じられた。
(思い過ごしであってくれ、頼む……!)
一縷の望みを抱きながら、一月は自転車をこぎ続ける。
もしも予感が正しくて、本当に鬼がまた出現したのだとすれば、それは悪夢と惨劇の再来を意味していた。彼は既に、鬼による怪異を二度経験している。くれぐれも、三度目はあってくれるなと思っていた。
自転車をこぎ続け、十数分が経過した。気配は次第に強まっていく、それは一月が鬼に近づきつつあることの証明だった。
頭痛と耳鳴りを覚え、視界にノイズのようなものが走り始める。
今なら、まだ引き返せる。そう思いはしたが、一月は即座にその考えを振り払った。今この瞬間にも、誰かが鬼に襲われているかもしれない。誰かが、鬼の餌食になっているのかもしれないのだ。
一月以外に鬼を知る人間、怪異に立ち向かった経験のある者がいないわけではなかった。しかし、助けを呼んでいる暇はない。
(この辺りか……?)
自転車を止めた時、一月は道路の下のトンネルの側にいた。
鬼の気配が段違いに強くなるのが分かる、近くにいると悟り、自転車を降りる。頭痛や耳鳴りに耐えながら、徒歩で進み始めた。
ナトリウムランプに照らされたトンネル内部に、何かが転がっているのが見えた。
(何だ、あれは……?)
怪訝に思いつつ、一月は歩み寄ってみる。
最初はゴミか何かが転がっているのかと思った、しかし近づいていくうちに、その正体が鮮明になっていく。
――人間の死体だった。
「ひっ……!」
上げそうになった悲鳴を、一月は反射的に両手で口を押さえて押し殺した。
きっと近くに鬼がいる、大きな声を出せば自分の存在を知らせることになる。と、彼の防衛本能が告げたのだ。
騒ぐな、騒いだらまずい……自分自身にそう言い聞かせ、一月は懸命に気持ちを落ち着かせようとする。
高校一年生の時、廃屋で惨殺死体を目にした時はその惨状に耐え切れずに嘔吐してしまった。だが、今回はどうにか気持ちを押し留めることに成功した。四年の月日を経て耐性を得たのか、あるいは一度死体を目の当たりにしているが故、慣れていたのかもしれなかった。
それでも、完全に平気かと問われれば、そんなはずはなかった。
一月は口を押えたまま、死体を見てみる。
年齢は十代後半から二十代前半くらいだろうか、髪を金色に染めていて幾つものアクセサリーを身に着けた男だ。
鋭利な刃物で腹部を串刺しにされたらしく、その表情には苦悶の色が刻み込まれている。その体から流れ出た血液で、辺り一面が血の海だ。
いかにも柄が悪そうな男だが、こんな惨たらしく殺されていては気の毒だと一月は感じた。
さらに、近くにはもうひとり、命を失った人間がいた。
外傷は見当たらないが、首が変な方向に捻じれたまま死んでいる男の死体だ。とても直視できずに、一月は意図的に視線を逸らし、観察を断念する。
(鬼だ、ここに鬼が現れたんだ……!)
気配、それにこの惨状……これが鬼の仕業だと、一月は確信した。
だが、どうすればいいのか分からない。鬼の出現を見過ごすことはできないという一心でここに来てしまったが、一月だけでは鬼に対しては無力だ。携帯電話を持ってはいるものの、警察に通報したところで何の意味もなさないし、むしろ犠牲者が増えるだけだった。
逡巡した末に、一月は一旦この場から離れることを決めた。ここは危険だと思ったし、トンネル内に放置された遺体を視界に入れていると気分が悪くなりそうだったのだ。
身の危険を感じてはいた。しかし逃げる猶予すら与えられないとは、この時は思っていなかった。
◎ ◎ ◎
その場にいた全員、誰も逃がしはしなかった。
怪物と化した蓮はその気の向くままに、柄の悪い男女達を惨殺したのだ。今、刃と化した蓮の腕に胸を貫かれ、持ち上げられている女が最後のひとりだった。彼女の体内から流れ出た血液が、その足を伝って靴の先からポタリポタリと滴り落ちていた。
《満足したか?》
その声に、蓮は答えはしなかった。
ただゴミを捨てるかのごとく、死体と化した女を無造作に放り投げた。
《まだのようだな》
その時だった。何者かの気配を感じ、蓮は振り返った。
街灯に薄明るく照らされたそこに、トンネルがあった。姿は見えないが、どうやらあの中にまだ誰かがいるようだった。
このクズ野郎達の仲間か? そう思った時、また声が語り掛けてきた。
《気の済むまで殺し尽くせばいい。今のお前にとっては全ての人間が敵、そうだろう?》
やはり蓮は、何も言わなかった。
ただ、その体中を覆う赤黒い霧が、燃え盛る炎のように不規則に揺らめいた。




