其ノ零 ~狂気ノ少年~
人が死を迎ふる時、その肉体は土へと帰るが、生前にその者が抱きたりし想ひは現世に残る。
怒りや恨み、憎しみ、嫉み。現世に残されし死人達の負の想ひは連なり、寄り添い、やがて『鬼』となりて形を成す。
鬼となりし負の感情の塊は、行き場のなき想ひを鎮める生贄を求めて生者を襲い、死の世界へと誘ふ。
死の世界へと誘はれし生者の魂は鬼の負の思念に取り込まれ、思ひ出も記憶も、理性も全て失ひ、鬼の一部となる。
――鵲村の古い言い伝えより。
ガンッ……ガンッ……ガンッ……ガンッ……。
煙たく、汚く、薄暗くてカビの臭いが充満した独房の中。コンクリートで作られた灰色の冷たい壁に、少年は額を打ちつけている。何度も、何度も、何度も、何度も……。
衝撃が頭の中を巡る。脳が揺れる感覚に吐き気を覚え、流れ落ちた血液が彼の頬や首を伝い、汗と混ざり合って囚人服に吸収されていく。
なぜ、こんなことをしている? 答えは明確だった。
止めれば自分は飲みこまれてしまう、喰われてしまう。『そいつ』の声を振り払うには、自傷行為を続けるしかないのだ。
「糞ッ……!」
憎しみに満ち満ちた言葉が、狭い独房内に発せられる。少年の瞳は刃のように鋭く、化け物と呼ぶに相応しい……いや、そうとしか言いようのない威圧感を帯びていた。
ギリッと奥歯を噛み締めた後、一層の強さを込めて彼はコンクリートの壁に頭を打ちつける。痛みは既に限界を超えていた、だが、やめるという選択肢は存在しなかった。
少年が頭を打ちつける音を誰かが聞きつけたのか、独房の扉の向こうから足音が聞こえてくる。
「四百八十三番、何をしている!」
そんな声が聞こえたような気がして、直後に独房の扉の鍵を外す音、続いて扉が開かれる重々しい音。それらが鼓膜を揺らしても、少年は全く反応を示さない。
「やめろ!」
腕を掴まれたその瞬間、少年は初めて振り返る。悪魔の瞳が中年の看守の顔を映したその瞬間――少年の攻撃の対象が、変更された。
「うがああああああぁぁぁぁぁああああああ――ッ!!!!!」
凄まじい怒り、そして狂気を内包する咆哮が、狭い独房内を反響する。
次の瞬間、反応する猶予すら与えない速度で少年の拳が看守の顔面にめり込み、大柄な看守の体が、埃を舞わせながら独房の床に崩れ落ちる。
「ぐおっ、ごほっ……!」
殴りつけられた看守が、呻き声を発する。戦意を喪失させるには十分な一撃だったが、それは始まりに過ぎなかった。
少年は口を抑えて苦しむ看守の胸ぐらを掴み上げると、再び顔面に拳を突き入れる。まず初めに、鼻。グギッという骨が軋むような音と共に、看守の鼻が折れ、血液が飛散した。次に、左目。彼がそこに一撃を叩き込んだ瞬間、看守の左目が押し潰れて代わりに右目が眼窩から飛び出す。
その後も、少年は憎しみをぶつけるかのように、手当たり次第に看守の顔面を殴り続けた。三発、四発、五発、六発……やがて看守は悲鳴すら上げなくなり、飛び散った返り血が独房内を、そして少年の顔や灰色の囚人服を赤く染めていく。
哀れみも、躊躇も、良心の呵責もなかった。そうすることが自分の存在理由であるかのように、彼は拳を突き入れ続ける。
看守を『破壊』している間、少年の口からはずっとあの咆哮が発せられていた。
「おい!」
騒ぎを聞きつけたのだろう。慌ただしい物音とともにさらに数人の看守が現れ、少年を押さえつける。
しかし、少年は僅かも降伏する意思を見せない。自分よりも大柄で屈強な看守達を相手に、彼は凄絶に暴れ続け、一人の看守が歯を折られ、別の看守が腹部に強烈な一撃を喰らい、白目を剥いて倒れ伏す。
そしてまた別の看守が駆けつけ、ようやく少年は拘束具で身動きを封じられる。少年たった一人を鎮圧するために要した人数、計七人。そのおよそ半数が、大怪我を負わされた。
蛾が集っている蛍光灯が、ぼんやりとその様子を照らしていた。
◎ ◎ ◎
「まさか、拘束具から力づくで逃れるとは……」
「全く手に負えませんね……警備の厳重な刑務所に移す予定、早めるべきではないでしょうか」
天気は大雨。雨粒が屋根を叩く音が、周囲を支配していた。
薄暗い事務室にて、二人の刑務官(一人は看守部長で、もう一人は一般職員である)が神妙な面持ちで話をしている。
話題に上がっているのは、今日の騒ぎを起こした一人の受刑者のこと。何人もの刑務官が病院に搬送される被害に、事態を重く見ざるをえなかった。
「部長、そもそもあいつは少年法がなければ死刑間違いなしの凶悪犯ですよ」
若い刑務官は、憤慨した声色で言う。
看守部長は腕を組み、机の上に置かれた書類に視線を落としながら応じた。
「その通りだな御藤。両親、そして妹の殺害。しかも放火……仮に成人していれば、極刑は免れなかっただろう」
若い刑務官は頷いて、
「それもただ殺したんじゃありません。何度も何度も包丁で刺したり、斬りつけたり……妹の子なんて、殺された末に両目を潰されるだなんてことを……」
実の兄に残酷極まる方法で殺された少女の苦しみを、絶命間際に彼女を襲ったであろう痛みを想像しながら、若い刑務官は言った。そして、視線を看守部長と同じ場所に向ける。
怒りの感情を隠そうともせず、彼は再び口を開いた。
「こんな残酷で惨たらしいことができるなんて……あいつは人間じゃない、『鬼』ですよ」
看守部長は何も言わなかった。しかし、確かに小さく頷いた。
机の上には、囚人番号四百八十三番――あの少年の情報を記載した書類がある。生年月日や出身地や血液型、更には罪状などの個人情報が記され、顔写真もプリントされていた。
本名の欄には、こう記載されていた。
――『出間蓮』。
窓の奥で雷鳴が轟き、事務室内を一瞬だけ眩しく照らす。それはまるで悪魔の誕生を、そして悪夢の到来を告げる鐘のようだった。