転校か、彼女の退学か
窓の外では桜の代わりに小雨が散り始めている。しかし、体や室内が冷えているのは雨のせいなどではない。
「クラスの子から聞いたよ。その……何というか。今まで気づけなくて……遅くなってしまったけど、対処をと思ってね」
「先生、違います。あれはそういうのじゃありません」
数日前の件が教員達に伝わっている。
クラスの女子生徒達が報告してくれたのもあるだろうが、何より、砂漠蔵の変態的な発言に仰天するあまり、大声で叫んで校舎中を逃げ回ってしまった。
学校側がこの事態に反応しないはずがない。自分の行いを振り返り、唐梅は唇を噛む。
「唐梅くん、正直に話してくれていいんだよ。話しづらいとは思うけど……。転校もまだ決まったわけじゃない。その前にまず……順を追って聞かせてもらってもいいかな。いつから砂漠蔵さんと、こういうことが?」
「一年の頃はむしろ仲がよかったよね。何かあったか?」
校長の話にクラス担任が割って入る。昨年、今年と唐梅のクラスを担当している。あまりしっかりと生徒の関係を見ていたわけではないのか、明後日なフォローを入れてきた。
「仲がよかったわけでは……。一度、壁に落書きしているところを見つけて注意したんです。それからよく突っかかってくるようになって……僕も最初は反論というか、対抗していました」
「ああ、それで。どうりでじゃれ合ってるだけのように見えたよ。それが一年の頃の話で、でも今は……」
「疲れて抵抗するのをやめちゃったってことかな。辛かったね」
「いえ……違います。僕が抵抗しなくなったのは……」
口をつぐむ。何かあったか、と言われれば確かにあった。が、その理由を話してしまっていいものか判断に迷う。
校長室に重たい沈黙が流れた。唐梅の態度に、教員二人が決心した表情で頷く。机の脇の書類をとると、唐梅の前に並べ始めた。
「すぐに手続きをしよう。君と砂漠蔵さんを早く引き離さないと。施設の方には、私達が連絡しておくから。安心して。君はこの通りしっかりしてるし、転校先の高校できっとうまく――」
「待って下さい!」
話を進めようとする二人を慌てて遮る。校長室に唐梅の声が響き、二人が書類を並べていた手を止めた。
「言いたいことはわかるよ、唐梅くん。何で自分が……って思うだろうね。でも……砂漠蔵さんの方はちょっと転校が難しくて」
「そうじゃありません! 僕の方は……今の施設や高校を移動すること自体は、何でもありません。でも、それでは解決しないんです! 砂漠蔵はターゲットを変えるだけです。だから……対処と言うなら、砂漠蔵の抱えている問題の方に対処してもらえませんか」
血相を変えて説得を始めた唐梅に、二人が顔を見合わせる。
「ひょっとして……砂漠蔵さんから、何か聞いたのかな。ご家庭のこと」
「……いいえ。砂漠蔵は……そういうことは言いません。ただ……」
学校側は、砂漠蔵の家のことをどこまで把握しているのだろう。
砂漠蔵の了解を得ず、自分は勝手に話していいのだろうか。砂漠蔵が事実を隠したがっていたらどうする。考えたあげく、再び口ごもってしまう。
「……何度か家庭訪問してはいるんだよ。でも……ご家族は何も問題はないって言うもんで……」
「嘘です!!」
思わず立ち上がった唐梅を、二人が見上げる。
怒りに全身が震えだす。あふれ出ようとする感情を必死に抑える。抑え切れずに、言葉が口をついて出た。
「――僕は……見たんです! 砂漠蔵は家族に……ぎ……虐待されています! そこが変わらない限り、砂漠蔵はストレスのはけ口を他に求め続ける……誰かに相手をしてほしいだけなんですよ! やり方はおかしいですが……だから、僕の転校じゃ何も解決しないんです!」
言葉を選び、自分が見たものをわずかながらでも伝えようとした。
唐梅の証言に動揺しつつも、教員二人は懸命に頷いてくれている。二人の誠実な反応に期待を抱く。ずっと自分一人で抱えていたことだが、学校の協力を仰ぐのが砂漠蔵にとって一番いい方法なのではないか。
一度は自分で対処しようとしたことを、勇気を出して目の前の行政に訴えかける。
「先生、何とかして下さい……! 先生ですよね。砂漠蔵の問題を、何とか……」
「ああ、わかったよ。唐梅くん。後は私達に任せて。砂漠蔵さんのことは、学校が責任を持って解決する。だから安心して君は新しい生活を始めなさい」
校長のしっかりとした言葉に、安堵する。
同時に、怒りにほてった体が急速に冷えていく。ほっとしているはずなのに、何故かひどく冷めている。そんな自分に動揺する。
冷たい感情の理由がわからないまま、唐梅は校長室を後にした。
「――……砂漠蔵」
身支度して校舎を出ると、雨が止むのを待っているのか、階段の隅に座った砂漠蔵が携帯端末でテレビを見ているところに遭遇した。
最新の電子空間の被験者を募集する、という旨の音声が、強まる雨の音にまぎれて小さく流れる。クラスでもそのCMの話題で持ちきりだったことを思い出す。
「……すごい時代になったなあ。電子空間、だって。ゲームの世界? を再現してるらしいよ。まあ、僕はゲーム持ってないからそういうの詳しくないんだけど……君は?」
問いには答えず、砂漠蔵が立ち上がる。無言で端末を鞄にしまうと、入り口の脇にあるゴミ箱を掴んで、唐梅の頭上でひっくり返した。ガラガラと派手な音を立て、ゴミが唐梅に引っかかっては落ちていく。
「……あんた、今の施設出るの困るでしょ」
砂漠蔵の方からその話題をふってきたことに少し驚く。
この話をするのにゴミを被せる必要はないだろう、とは思いつつも、こちらを心配しているともとれる砂漠蔵の発言に落ち着いて返す。
「僕のことはいい。それより君の……」
「大丈夫。私、消えるから」
言葉をのみ込むのに、時間を要する。雨が響く。本降りだというのに、いやに静かに感じられる。
「……消える、って。どういう意味だ、砂漠蔵」
砂漠蔵が鞄に再び手を入れる。何かをとり出す。それが何なのか瞬時に理解できず、ぼんやりと見つめた。
カチリ。
違和感があるほど、軽い調子で明かりがつく。この雨の中では、あたたかみさえ覚える小さな火。砂漠蔵の手の上で揺らめいている。戦慄する。
「……砂漠蔵。よせ」
じゃり、と雨水に滑る足で後ずさる。
「……大丈夫。あんたについてるゴミに……ちょっと点けるだけ」
「それで君は少年院へ消えるって?」
砂漠蔵は答えない。暗い瞳を火に揺らし、無言で立っている。二人でライターの明かりを真ん中に挟み、見つめ合う。
「……別に、そんなこと考えてないよ。ただ……最後に……覚えててほしいだけ。あんたに……火をつけようとした女がいたこと」
否定の返答に、真意を探ろうとする。
あの日、白い砂漠の夜の中で、泣くでもなく憤るでもなく、寒さを耐えしのんでいた少女の姿が思い起こされた。その時と何ら変わっていない冷たい瞳で、砂漠蔵がにじり寄る。
「……君は本気じゃない。相手を選ぶし、行動も選ぶ。君が僕にしか突っかかってこないのは、僕が君と近い……孤独な身だからだろう」
後ろに引かず、話し続ける。ライターを持った手をこちらに向けて、砂漠蔵は動かない。
唐梅には確信がある。砂漠蔵は常識的とは言えないが、こんな強行に出るタイプではない。揺るがない確信を本人にぶつける。
「君は同じ場所にいる相手を選ぶ。引きずり込むようなことはしない。今だってそうだ。僕をこれ以上は引きずり込むまいと……」
「人がよすぎ。私は……とっくにあんたを引きずり込んでるよ。……でも、それももう終わり」
砂漠蔵の目がどんどん黒く染まっていく。火に照らされていながら、光がない。
「あんたの転校か、私の退学。もう、そのどっちかだよ」
「はやまるな、砂漠蔵! 先生達が解決してくれる、さっきそう話してくれたんだ。だから……!」
「先生達は児童相談所に電話するだけ。あんたが匿名の電話入れた時みたいにね」
ぐっと言葉に詰まった。通報したことを知られてしまっている。先生達の言葉に、完全に安心できなかった理由を今思い知る。学校がこれからすることは、自分がもうやったことなのだ。
固まる唐梅をよそに、慣れている様子で砂漠蔵は続けた。
「うちの親、そういうの通用しないから。同じことの繰り返し。結局……私がいる限り、解決しないの。でも……感謝はしてる。だから、あんたがどっかに行くことない。……私だけ、消える」
「……それで問題が消える、とでも言いたいのか」
呟き、俯く。
微動だにしない砂漠蔵の決心をどうにか揺らがせようと、言葉を探す。必死に探す。孤独な生徒が、独りの少女が求めているであろう言葉。
「……君を覚えてる。ずっと」
光のない瞳に真摯に告げる。砂漠蔵の表情がわずかに変わる。唇が震え、目をふせた。
視線を戻し、砂漠蔵がかすかに微笑んだ。唐梅にゆっくりと手を伸ばす。火が胸の前に近づく。顔のすぐ下で、熱く揺れる。
与える言葉を間違えてしまったことに気がつく。唐梅の言葉に意を決した砂漠蔵が、一歩前に出る。
「……そんな消え方よせ、やめろ。――砂漠蔵!!」
唐梅は走りだす。後ろを砂漠蔵が追いかける。騒ぎに気づいた教員達が、逃げろと唐梅に向かって叫んだ。
大粒の雨に打たれながら、ただただ消えさせまいと、それだけを考え、唐梅は砂漠蔵から逃げだした。
頭からゴミにまみれて、立ちつくす唐梅がいる。
広いリビング。暗い室内に、テレビの明かりだけがチカチカと浮かぶ。