天さまの扉
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああ、おかえり。今日もだいぶ遅かったね、こーらくん。
夕飯、あまりものだけど大丈夫かな……って、こらこら! いきなりつまみ食いはしないでくれよ。ちゃんと手を洗って、うがいをして、それからだよ。それから。
今日のように温かめな日に、外から帰ってきた手にはね。なんと100万を超える数の雑菌が張り付いているんだ。体内の毛たちが侵入を防いでくれるようだけさ、その備えを抜けちまったら、大変なことになっちゃうぞ。
それとも、「天さまの扉」の兆しでも察知したのかい?
――何、知らない? ほう、こりゃ意外だ。こーらくんはその手のフリークだと思っていたが。やはり、マイナーなんだろうかね。
ふふ、その物欲しそうな顔。今すぐにでも聞きたいってところか。
よし、じゃあ手を洗う前に話をしようか。聞き終えたら、ちょっと試したいことができるかもしれないしね。
僕のおじさんの話になる。
その日のおじさんは、友達と外でボール遊びをしていた。今でこそサッカーファンのおじさんだけど、当時の日本では、サッカーはまだ知らない人の方が多かった、黎明期だったらしい。
本格的なルールになじむ前だったこともあって、友達とやるのは本格的なゲームではなく、野球とごった煮にしたフットベースが主だったらしい。
運動は好きでも、どんくさいと自他ともに認めていたおじさん。守備に入ると、もっぱら外野を任された。
長打、いやこの場合は長蹴か? とにかく遠くまで飛んでしまった球を、延々と追いかけることが毎回の役目だったと話していたよ。
その日も近所の公園で、大々的にフットベースが始まり、またおじさんの相手側のチームのひとりが、猛烈にボールをかっ飛ばしたんだ。
これが場外ホームランだったら、まだましだった。しかしボールは公園の柵の手前で失速。生い茂る藪の中へナイスキャッチされてしまう。だが、それでランナーが止まってくれるわけじゃない。
公園の外へ出ない限り、あくまで安打扱い。上手いこと刺すことができれば、アウトになる。だが、このようにボールに隠れられてしまうと、往々にしてランニングホームランだ。
担当区域だったために、おじさんは必死になって藪の中を漁る。中継用の友達が少し距離を離して立っていたけど、この時すでに、ランナーは三塁あるうちの二塁を蹴っている。
肝心のボールは、藪に飛び込んでからも転がったらしく、目視で確認した落下地点にない。ランニングホームラン確実な状況だった。
それでも職務を全うしようと、藪と地面と、そこに転がる大小さまざまなポイ捨てゴミたちを丹念にかき分け、両手を汚していた最中のこと。
空の上の方で、雷の音が響いたんだ。おじさん含めた一同は、つい頭の上を見やってしまう。
今日は雲一つない快晴。飛行機などの類も、空を横切っていない。
「『天さまの扉』が開いたんだ」
子供のひとりがそんなことをつぶやき、両手の親指と人差し指で、それぞれ縦と横の辺を成す長方形を作ると、そこをのぞき込むように顔を近づける。他のみんなもそれに倣った。
「天さまの扉」とは、多くの地域で語られる「狐の嫁入り」と同じようなものらしい。天候にそぐわない雨や雷鳴があると、それは天と地をつなぐ扉が開いた影響であると、おじさんの地域では伝えられている。
先の親指と人差し指で作る長方形は、他の地域でいう「狐の窓」と似た役割を持つそうだ。すなわち、超常なものをのぞくレンズのごとき力を持っている。
「天さまの扉」が開くと、天から良いもの、良からぬものが、雨や音と共に降ってくることがある。
そのため、扉が開いたと思しき現象に出くわしたならば、すぐさまこの「窓」を指で作り、のぞき込みながら周囲を見回すことが、奨められていた。
窓がある景色と、ない景色。いずれも変わりがないのならば、問題もまた皆無。しかし異状が見えたのならば、幸か不幸か、そのいずれかが後日、見えた当人へ舞い込んでくるとか。
子供たちは試合を中断し、次々と「窓」をのぞき込んでいく。やがて安堵のため息と共に窓を外していくんだけど、おじさんは違った。
窓がなければ、いつも通りの風景が広がる。だけど窓をのぞいてみると、周囲が一気に色あせてセピア調になってしまうんだ。
古い写真を見させられているような景色の中で、ただ一本。ここから公園の出口、その先の道路へさえも続き、そのカーブに沿いながら去っていく虹色の道が、はっきりと見えたんだそうだ。
指を外して、かざし直してをいくら繰り返しても、それは変わることがない。あまりに何度もするものだから、中継役の友達に「大丈夫?」と声を掛けられてしまった。
不思議なものだ。普段なら、みんなとは違う何かでありたいと思っているのに、このような時には「どうして自分だけ」と、みんなと違う自分を疎ましく感じてしまう。「なんでもないよ」と、その時は笑顔でごまかしたけれど、フットベースが終わっても、家に帰っても何となく不安は拭えなかった。
室内で窓をのぞき込んでも、やはり景色から色は奪われて、外へ続く七色の一本道が、自分の足跡からずっと伸びている。部屋にいる時でも、トイレに入っている時でもだ。
おじさんはすぐさま、家にいた母親と祖父母に、事情を説明。今後の対策をどのように練ればいいのか、相談をしたんだ。
母親は気にせず過ごせばいいと話し、祖父は面白そうだから、その道を辿ってみてはどうだろうという意見。あとは祖母次第と相なった。
何度もおじさんに詳しい経緯を尋ねる祖母。友達と遊び始めた時から、おじさんは思い出せる限り、丁寧に状況を説明していく。特に「天さまの扉」の前後は、細かいところまで入念に確認がされた。
おじさんがありったけ記憶をほじくり返すと、祖母は少しの間だけ目を閉じ、何事か考えた後、「その道を辿ってみるかね」と口にしたそうだ。祖父派の勝利。
こうなると母親は反対できず、夕飯を作りながら帰りを待つことに。祖父母に挟まれて家を出たおじさんだったけど、母親の姿が確認できなくなったとたん、にこやかだった二人の顔つきが、真剣なものに変わる。
「あんたに見える道の先、おそらく『天さまの扉』につながっているよ」
祖母がぼそりとつぶやいた。このまま放っておくと、扉から出たものがやってくるかもしれない。だから、こちらから出向いてやろうと。
「心配するな。じいちゃんたちが守ってやるからな。お前は窓をのぞきながら、案内してくれ。その道、必ずどこかしらで途切れるはずじゃ」
丸腰の老人二人の護衛。おじさんは祖父母に全幅の信頼を置いていたものの、窓から見える得体のしれない光景に、不安を隠せなかった。
再度窓を作り、のぞく。先ほどから変わらず、古ぼけた10円を溶かし込んだかのような色の風景に、場違いなほど鮮明な一筆の道筋。まるでじゅうたんのようだった。
ただ先ほどまでと、かすかに違う点もある。道のあちらこちらから、蛍のように小さい光がぽつぽつと浮き上がり、吸い込まれるように道の先へ急いでいく。そのことを祖父母に告げると、二人は顔を見合わせた後、「行こう。案内してほしい」と、おじさんの背中に手をあてがい、促してきたんだ。
道中は本来の色彩が失われただけで、何かにぶつかったりすることなく、順調に進むことができた。ただ通行人を見かけると、怪しまれるのを防ぐために「窓」は取っ払ってしまう。その人が見えなくなったら、また装着する。下手に注目を集めない方がいい、という祖父母の指示だった。
進むにつれて、蛍のような光はその数を増していく。下から上へどんどんと浮き上がり、やはり道の先へと吸い込まれて行ってしまう。おじさんたち三人の道のりも、車通りの多い県道をはずれ、工業団地も抜けてしまい、橋も渡って対岸へと到着。
まだ伸びていた道だけど、更に何度か曲がったところで、唐突に途切れてしまった。そこはこの辺りで一番大きい、ゴミの集積場だったんだ。
窓越しの景色は、もはや、ジャグジーのついた風呂の中へ潜っているんじゃないかというくらい、周囲は光のあぶくでいっぱいになっている。
何度も確かめるように窓を作っていたおじさんだけど、それへ混じっていくかのように、窓をなす自分の指からも、光がじわじわと立ちのぼり出した。慌てるおじさんは、そばに控える二人へそのことを告げると、祖父がおじさんの両肩へ手を置いた。
「ここが、今回の天さまの扉の下か。ここから命が、天に還っていくんじゃよ」
感慨深そうに見上げる祖父の言葉。続きを祖母が引き継いだ。
「ゴミはな、その誰もが、昔はゴミとは呼ばれない別のものじゃった。それが壊れたり、動かなくなったりして、誰からも必要とされなくなり、今のような姿になってしまう。彼らとしては、まだ命を持っているというのに、捨て置かれた心地じゃろう。だから、下手に生き延びてしまうと、人に牙をむくことがある。形があってもなくてもなあ」
窓をのぞき込むおじさん。その向こうの視界も、自分の指も、もはや光の粒たちに覆い隠されて、何も見ることができない。
「お前、藪の中でボールを探していたといっていたな? その時、ゴミたちの命を指へつけてきたんじゃよ。
天さまの扉は、魂の還る場所。不満や無念を抱えるゴミたちの命が、永い安らぎを得られるところ。お前は彼らを助けたのじゃ。
公園のゴミたちも、今や抜け殻。本当のゴミとなった。もはや、誰かを祟る恐れはあるまいて」
祖母が話し、祖父が支える中で「窓」の向こうでは光が収まっていく。そこには普通に見る時と変わらない色合いの、街並みが戻ってきていた。
おじさんがそのことを告げ、三人は家路に着く。
もしもあの時、手を洗っていたらどうなっていたのか? おじさんは祖父母に尋ねたけど、二人はただ肩をすくめるばかりだったと聞くよ。