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 私は目を覚ますと横たえられていた。イザークが跪いてこちらを心配そうに覗き込んでいる。


「大丈夫か⁉︎」


 私は頷きながらぼんやりとした頭であたりを見回した。


「レストランの個室だ。気を失ってしまったキーラを僕が部屋に運んでソファに寝かせたんだ。どこか具合の悪いところはないか?」


 イザークが私を抱えながらゆっくり起こしてくれる。

 私は眉間を抑えながら記憶を手繰り寄せようとすると、つきりと頭が痛んで顔をしかめた。


「無理をしないほうがいい」


 イザークは私の頭を優しくさすった。


「どれくらい気を失っていたのかしら……」

「おそらく数分だろう」


 女神様の神殿にお邪魔して話し込んだというのに。


 私は女神様と幼い私との約束を思い出していた。幼い私と手を繋いだ手を握りしめ勇気を振り絞った。


「イザーク、恋人のことなんですけど……」

「恋人じゃない。僕が愛しているのはキーラだけだ」


 突然の告白に頭がついていかない。


「従妹だ。ネリ・ハミルトンと言ってハミルトン子爵の娘だ。母の妹の娘なんだ。

 ハミルトン子爵は学者で、ずっと外国で研究をされていて最近帰国されたんだ。もともとあまり社交界に出られない方々だから知らなくて当然だと思う。ネリは外国で生まれて、たまにこちらに帰って来たときには我が家に滞在していたんだ。

 キーラがカフェで見かけたと言っていたのはネリだ。街を案内していたんだ。他の女性と出掛けたことなどない」

「はぁ……」


 一気に説明するイザークに私は間の抜けた返事をする。

 そもそも従妹ならなぜ今まで噂を否定もせず私を苦しめたのかわからない。イザークの言い訳を聞きながら頭がすっきりしてだんだんと腹が立ってきた。


「そうですか。ではなぜ紹介していただけなかったのかしら。噂を否定も説明もせず私に不愉快な思いをさせたままでしたし。政略結婚の相手など気にかけることもないとういうことかしら」


 私は矢継ぎ早にイザークに言葉を浴びせた。


「政略結婚だなんて思っていない! ネリに紹介しようと思っていたんだけど……」


 言い淀むイザークを一瞥して顔を背ける。


「今更すべてどうでもいいことですけど!」


 私は精一杯強がって突き放すとイザークが縋るように私を見るが、構わず続ける。


「結婚はします。貴族の義務ですから。イザークが望むのであれば子供も産みます。でも私も愛人を持とうと思っていますの」


 愛人など持つ気はないが少しは言わないとやってられない。

 ちらりとイザークを見ると、彼は衝撃からか目を見開いて口をぱくぱくさせて宝石のような瞳に涙が溜まっていく。私は驚いて罪悪感から思わず視線を逸らした。


「だ、だってそうでしょう? 自分だけ他所で楽しくやって、私は許されないなんて不公平ですわ」


 思わず声が上ずってしまう。


「楽しくなんてやっていない!」

「夜会やお茶会で、私を一人にしてあなたはご令嬢と楽しそうにお話していたじゃない! 私聞いたのよ。あなたが婚約を解消しても構わないって言ってるのを!」


 私は涙が溢れるのも構わずイザークを睨みつけた。

 しばらくの沈黙の後、イザークは項垂れぽつりぽつりと話し始めた。


「キーラは僕が、子供の頃なんて言われていたか知っているよね?」

「え? ええ……」


 私は躊躇いがちに返事をした。

 イザークは物語になぞらえて王子様になれなかった白鳥と影で揶揄されていた。

 イザークの美しすぎる容姿故の妬みからではあったが、彼の不器用な性格も追い討ちをかけていた。

 イザークは子供の頃から好きな物や人に対しては執着を見せ自分をさらけ出すが、興味のない対象への感情や記憶が薄く人付き合いが苦手だった。

 特に女性に誤解されやすいらしく、しつこく言い寄られたり勝手に落胆されたり、子供の頃なので可愛いものではあったが揉め事に巻き込まれることもあった。


「子供の頃の話よね」

「ああ。なんとか社交術は身につけたつもりでいたんだ」


 イザークが何かを考えるように目を伏せる。


「王宮の財務官として勤め始めた頃、父上にキーラとの結婚の許可をお願いしたんだ」


 初耳だ。私は驚いてイザークをまじまじと見返した。

 イザークが王宮に勤め始めたのは十五歳の頃だ。当時私も貴族の令嬢としてお母様について、少しずつ大人のお茶会への参加や家のことを手伝い始めていた頃で結婚などまだ先だと思っていた。


「早すぎるって顔だね。子供の頃からキーラとずっと一緒にいたいって思っていたから、僕にとってはようやくだったんだけど」


 イザークは少し残念そうな顔をする。


「父上にはまだ早いって言われて、仕事で成果を上げつつなんとか説得していたんだ」


 予想外に結婚の話が進んでいたことに驚きを隠せない。

 デュメリー伯爵家は数ある伯爵家の中でも由緒正しい家柄で、イザークのお父様であるデュメリー伯爵はとても立派な人物として知られていた。今は王宮でのお仕事は事実上引退されているが財務長官として手腕を発揮し、この国の財政を立て直した方でもある。

 イザークが一人息子ということも関係しているのだろうが、デュメリー伯爵はイザークに非常に厳しく小さい頃から文武両道は当たり前で、人としても立派であることを常々求めていた。

 幼い頃のイザークは私の前でこそ笑顔だったが、伯爵の前ではほとんど無表情だった。

 その伯爵に許しを得るところまで話を進めるとは相当大変だったと思われる。


「あともう少しのところだったんだけど、あの夜のせいで話は無くなった」


 イザークは悔しそうに唇を噛む。


「あの夜?」

「夜会で僕が令嬢を連れ込んだとか噂になったのを覚えてる?」


 私は下品な噂を思い出して顔をしかめる。


「あの日廊下で気分がすぐれない令嬢を見かけてね。休憩室まで付き添ったんだ」

「それは誤解されるわ」

「二人きりじゃない、侍女らしき女もいたんだ。さすがに僕もそこまで迂闊じゃない」

「どういうこと?」

「嵌められたんだよ。噂になった時点で気づいたけど遅かった。噂を撤回させるべく女を探したけど見つからなかった」


 イザークはしばらく黙って目を瞑る。

 噂の令嬢は昔イザークに熱を上げたと聞いたことがあったが、素行の悪い噂のある令嬢でもあった。既成事実を作ってしまえば結婚できるとでも思ったのか。


「父上が事態の収拾を図って事なきを得たけど、それからは地獄だった。当然父上は激怒されて結婚はなくなるし、夜会で当たり障りなく会話をしているのに噂になるの繰り返しで。自分でも何をどうしたらいいのかわからないし、気は焦るばかりで……」


 イザークの目から涙が一雫溢れた。

 イザークは目立つが故だろう。一度噂が広がると面白がる輩が増えて有る事無い事言われるのは世の常だ。暇な貴族の格好の餌食になっていたのはイザークだった。

 私は自分が噂にならないよう気を遣うことに精一杯で、イザークが困っていることに全く気づかなかった。


「話してくれてもよかったのに」

「もちろん話そうと思った」


 少し赤くなった瞳からは後悔の色が滲んでいるように見える。


「でもその前に謝らないと。十四歳の誕生日のことと、初めて夜会に参加したときにダンスを踊らなかったこと」


 私は悲しい思い出に胸が締め付けられる。


「本当にすまなかった。謝って許される事じゃないことはわかっている」

「似合っていないものは仕方ないけど……言い方はあると思うの」

「え? 似合ってないなんて言ってないよ」

「外では着ない方がいいって」


 イザークは片手で顔を覆った。


「誤解だよ。いや僕の言い方が悪かった。

 キーラは自覚がなさそうだったけど、子供の頃から君はとても人気者で、僕は内心気がきではなかった。君は優しくて可愛らしいからね。

 あの誕生日の日ははいつも以上に輝いていて、その格好を他の人に見られたくないと思ってつい……とても似合っていたよ」

「それならそうと……」

「すまない。でも素直に褒められないのに、そんな情けないこと尚更言えない」

「ダンスはどうしてなの?」

「情けない話だけが、緊張して前の日ほとんど眠れなくて……そのまま出仕して、その日は忙しくて帰宅したのが夜会の直前だったんだ。

 会場で最初にお祝いに振る舞われたぶどう酒を飲んだだろ? そのあと挨拶回りをして、空きっ腹に飲んだせいかお酒が回って頭痛と吐き気で立っているだけで精一杯だった」


 私はこの時ダンスを断られて悲しい気持ちを誤魔化すために、足元の豪奢なタイルをひたすら見ていた。何がいけなかったのかそればかり考えていた。

 その横でイザークは青い顔をして、口を引き結んでずっと我慢して立っていたのだろうか。

 どこかで休めばいい話だがデビューしたばかりの男女が休憩室に行くなど以ての外だし、初めて参加する夜会で覚えることも多いのに会場を抜け出すことは褒められたことではない。

 それにイザークにだって意地があっただろう。そのような醜態を初っ端から晒したくはなかったはずだ。


「ダンスの件は両親にも苦言を呈されたけど理由は言えなかった。キーラのご両親にも知られたくなかったし。

 僕は謝る機会を掴めないまま、例の三度目の過ちを犯した。キーラには本当のことを話して許しを請うべきだとわかっていながら僕にはできなかった」


 イザークは一呼吸置いて絞り出すように呟いた。


「臆病だったんだ……」


 部屋には川からのせせらぎの音だけが柔らかく響く。イザークは何も言わず俯いて静かに震えている。


「内容が内容なだけに婚約を解消されても文句は言えない。それに元々不名誉な呼び名まである。キーラに嫌われ軽蔑の眼差しを向けられたらと考えると、怖くて勇気が出なかった」


 床に雫が一滴溢れシミを作る。


「その後の態度は自分でも最悪だった。キーラに会える時間は限られているのに、謝罪するどころか君を夜会やお茶会の度に詰った」


 爵位を継いでいないイザークは、全ての夜会やお茶会に招待されるわけではなかった。

 また大抵の貴族の子息はこの年頃になると王宮に仕えたり自分の家の仕事を手伝い始めるので、皆仕事に追われ催しに参加できないのが実情だった。

 そのため社交界にデビューしても三年くらいは大きな催しを除き私たちが参加することはなく、会えるのも数えるほどだった。

 それに年頃の未婚の貴族の令嬢、令息が婚約しているとは言えおおっぴらにデートなど出来るわけもなく、女性の家に訪問するのが一般的で、二人だけの外出は結婚が正式に公表されてからとされていた。もちろん節度を守ってだ。


「僕には人の心がよく分からないと思うことがある。特に女性に関しては難しい。キーラは僕の失態に対して何も言わなかっただろう? 自分では言えないくせに聞かれないとそれはそれで不安になるんだ」


 イザークは顔を上げて伏し目がちに続ける。


「キーラは僕に愛想を尽かしてしまったのかと不安で押し潰されそうだった。どうしても君の心を知りたくて、愚かな僕は君にきついことを言って反応を見ようとしたんだ。結果として君は僕に微笑むだけで余計分からなくなってしまったが……本当にすまない」


 イザークが再び俯いた。彼の手は膝のあたりで固く握られていた。

 私はイザークがずっと跪いていることに気づいてソファの隣に座らせた。


「最後のチャンスだと思って、今期最後の夜会でネリに紹介するつもりだったんだ。誤解が解けたら今までのことを謝罪してプロポーズをするつもりでいたんだ。夜会の日に婚約解消を告げられたからそれどころではなくなってしまって……」


 間が悪いとはこのことか。


「最後の夜会でオランケイト様とダンスをしていたよね? キーラはいつもと違って生き生きとして何か吹っ切れたように見えて…………ああもう僕に気持ちがないんだなとわかったよ」


 イザークの声が少し上ずる。


「悔しいけどすごくお似合いだと思った。でもどうしても認めるわけにはいかなくて、翌朝父上にキーラに結婚を申し込むことを伝えたんだ」

「……伯爵様はなんとおっしゃられたの?」

「そうかって。おそらく夜会でのことは父上の耳にも入っていたはずだ。婚約解消のことも知っていたのかもしれない…………上手くいかないだろうけど、気の済むようにさせてやろうってことだと思う」


 イザークは両手を額の前で組みため息を零す。


「僕は無理矢理君との結婚の話を進めた。どうしてもキーラと結婚したいとオリエール伯爵様に懇願した。伯爵様は難しい顔をされていたけど、条件付きで承認してくれたんだ」

「条件?」

「聞いてないのか? 三ヶ月の試用期間を設けるって」

「聞いていないわ」


 私は初めて聞く話に困惑する。


「試用期間を設けるならなぜ公表したのかしら」

「それは僕も驚いた。公表するのは三ヶ月後だと思っていたから。両家の名前で公表しているから僕の両親も知っていると思う」


 結婚の取り消しはあるにはあるが、よほどの理由がないと中止にはならない。婚約解消以上に不名誉なことだ。


「なんとか結婚は承諾されたけど期間は限られているから、僕は君の心を取り戻すために必死だった。無様だとわかっていながら口実を作っては毎日会いに行った。

 会っている時に今までのことを謝罪しようとしたが、周りの目が気になったり勇気が出なくて…………何よりも会うたびに君が僕に興味がないことが堪えた」


 イザークはついに顔を両手で覆った。


「ようやく今日二人だけの時間を持てて、謝罪をしようと…………」


 私は何も言えなかった。


「父上にキーラとの結婚の許可をお願いした時、キーラを守る覚悟が足りないことを指摘されてその時僕は反発したが……父上は僕がキーラをどれだけ必要としているか僕以上に理解されていた上で、まだ僕が君と関係を上手く築けていないことを見抜いていたんだと思う」


 私の両親も同じだろう。今にして思えばお父様はイザークのことを悪く言うことはなく、いつも私にどうなっているのかと尋ねていた。そして私にどうするのかとも聞いていた。私が曖昧に答えると困ったなと言われていたが、私に向けられていた言葉だったのだろう。

 おそらく両親は概ね知っていて、デュメリー伯爵からどこまで聞いているか定かではないが、伯爵が既成事実を作ろうとした令嬢の件はもみ消してネリ様の件は静観しているのであれば問題ないと捉えたのだろう。でなければイザークとの結婚を許さなかったはずだ。

 結婚が正式に決まった時両親は私の意思と責任を問うていたのだ。

 私の両親が条件を出しておきながら、両家で結婚を公表したのは退路を絶ったのだろう。

 結婚が中止になった令嬢は後妻になるかいわくつきの貴族の妻になるくらいしかない。もちろんイザークの評判も落ちるだろう。

 両親は妻としてこの程度の話し合いを夫とできないのなら、貴族の妻の役目を果たすことは難しいと判断したのかもしれない。

 イザークは顔を覆ったまま動かない。


「私もイザークと同じでひどく臆病になっていたわ。イザークが何も言ってくれないことに不安になって一人で妄想を膨らませていたの」


 隣に座るイザークをまっすぐに見つめる。


「私が夜会の後馬車で一人泣いて帰っていたのを知ってる?」

「っ! すまない、本当に……」

「イザークの前で泣けばよかった」


 イザークは困惑した表情を浮かべる。


「ダンスを踊ってほしいって言えばよかった。馬車で詰られた時も失礼ねって怒ればよかった…………だって伝わらないじゃない? 私は私がどれだけ不安でいっぱいになって傷ついたかイザークに知って欲しかった」


 私はくしゃりと顔を歪めてイザークの手を握る。


「あなたが大変な思いをしているなんて知らなかった。ううん、知ろうとすべきだった。何もできなかったかもしれないけど、教えて欲しかった」


 イザークは私の手をきつく握り返して何度も謝罪を繰り返した。私たちは今までの溝を埋めるかのように泣いた。謝罪と涙が魔法のように私たちの間にあったわだかまりを溶かして行く。無色透明の雫はひび割れた心を癒すように染み渡った。




 どれくらいの時間が経過したのだろうか、私たちは目をタオルで押さえながら静かにソファに座っていた。

 窓からは昼前の優しい日差しが差し込んでいる。


「キーラは子供の頃に読んだ絵本の王子様をとても気に入っていたね?」


 イザークは優しく目を細める。

 私は特に気に入りの絵本があってその中に出てくる王子様に憧れていた。


「僕にそっくりだと。とても嬉しかったんだ。この容姿のせいで面倒なことも多かったけど、キーラの好みであることだけは嬉しかった。でも実際の僕はこの体たらくだ。キーラの王子様には程遠い」


 イザークはしばらく考えてから何かを決意するように口を引き結ぶと、私からそっと離れて跪いた。


「どうかもう一度だけ機会を与えて欲しい。厚かましいのは重々承知の上だ。キーラ、僕と結婚してほしい。必ず君を守ると約束する。僕には君しかいないんだ」


 イザークはかすかに震えている手で私の手を取ると、私の手のひらに口付けを落とす。泣きはらした目と鼻を赤くさせたイザークは絵本の中の王子様には程遠かったが、今まで見た中で一番かっこよかった。

 彼は上着から見覚えのある宝石箱を取り出して差し出した。そこにはサファイアとダイヤモンドからなる、揃いのイヤリングとネックレスが納められていた。


「これあの時の? きれい……初めてね。お花以外でイザークから贈り物されるの」

「ああ、雨の中君が立っていてびっくりしたよ」


 イザークの瞳を思わせる碧い石を光にかざすと澄んだ輝きを放った。

 イザークは子供の頃のようなはにかんだような笑顔を見せ、その肩越しには昼の月が白く輝いていた。


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