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今日はイザークとレストランに行くことになっていた。
王都で評判のレストランで、王宮で料理長も務めたことのあるシェフが開いている格式の高いお店だった。
私は衣装部屋でフォーマルなワンピースを適当に選んだ。
迎えに来たイザークと一緒に馬車に乗り込む。いつものように私に手を差し出すがその表情は心なしか緊張しているように見える。
先日の夜会以降、イザークと出掛ける時の服装に大して気を使わなくなり以前より地味になっていたにも関わらず、イザークはどういう心境の変化か何も言わなくなっていた。
レストランは王都の中心から少し離れた閑静な場所にあり近くを川が流れていた。レストランの門をくぐって石畳の小道を進むと、川から水を引いているのか小さな池が設えられていて水面には蓮が咲いている。
イザークに手を引かれ中に入ると、愛想の良い支配人が出てきて待合室に通された。
イザークはレストランの支配人と少し話して、戻ってくると申し訳なさそうにした。
「すまないキーラ。知り合いが来ているんだ。挨拶をしてくるから先に部屋に入っていてくれ」
彼はそう言うと部屋を出て行った。
私は支配人に案内されて個室に向かった。廊下は中庭に面して吹き抜けの造りになっていて、藍色のタイルと濃い色の木の柱が趣を感じさせる。中庭は異国の庭園の要素を取り込んだものらしく、砂が敷き詰められて美しい模様が描かれていた。
私は部屋の前で向こうから知った顔がやって来るのが目に入った。
「ジェラルド様」
私は久しぶりの再会に胸が踊った。
「やあ、キーラ嬢。久しいね。元気にしていた?」
ジェラルド様は近々また仕事で外国に行くのでご友人と食事に来られていた。
「今度の滞在は長くなりそうなんだ。おそらく半年は戻って来れないと思う」
少し間をおいてジェラルド様が私を見つめる。
「遅くなったけど……結婚おめでとう、かな」
「……ありがとうございます」
私は気まずくて俯いてしまった。ジェラルド様の申し込みを考える間もなく結婚が決まり、手紙で簡単な報告をしただけだった。
「キーラ嬢は幸せ?」
思わず顔を上げる。私は結婚に幸せを望むことはとうに諦めていた。それに皆この結婚を心配はしてくれたが誰も私にそんな質問をしなかった。ジェラルド様はおそらくこの結婚の経緯をご存知なのだろう。
私は問いに答えられずただジェラルド様を見つめていた。
「キーラ」
いつの間に来たのかイザークがいつもより低い声で私の名前を呼んだ。
「私がキーラ嬢を引き止めたのだよ」
ジェラルド様がすかさず私を庇った。それが気に入らなかったのかイザークは冷ややかな視線をジェラルド様に向けた。
「オランケイト樣、ご無沙汰しております」
イザークはジェラルド様に形ばかりの礼を取る。
「夜会以来かな」
イザークの眉がピクリと上がる。
「その節はキーラのお相手をしていただきありがとうございました。これ以上お引き止めしてはお待たせしているご友人に申し訳ないので、我々はこれにて失礼致します。さあ、キーラ」
イザークが私の腰に手を回し部屋に入るように促す。
「キーラ嬢に幸せかどうか尋ねていてね。まだ答えを聞いていない」
ジェラルド様はいつもの柔和な表情を崩さない。
「キーラは幸せです。ご心配には及びません」
イザークの声に感情がこもる。
「キーラ嬢、答えて?」
「キーラ、部屋に入るんだ」
イザークは私の腕を掴んで部屋に連れ込もうとした。急に手を引かれて私はバランスを崩して足元がふらつく。
「キーラ嬢! デュメリー何をする!」
ジェラルド様が私を支えると、イザークは素早く私を引き寄せてジェラルド様から引き離した。まるで他人に触れさせたくないかのように。
「デュメリー、君はキーラ嬢を大切に思っているのか?」
「……もちろんです」
「そうは思えないが」
二人が対峙するような格好とり、騒ぎを聞きつけた他の部屋の客がちらほら顔を覗かせこちらの様子を伺っている。
私は胸の奥に何かが支えているのを感じて呼吸が浅くなる。
「デュメリー、君は婚約の解消を申し出たキーラ嬢に結婚を強いただろう」
「っ!」
「恋人のいる身でありながら」
「違う!」
「何が違う。現に君が恋人と一緒にいるところを見たと言う者は何人もいるじゃないか」
詰め寄るジェラルド様にイザークは苛立ちを露わにしている。いつもの冷静なイザークらしくない。
私の目線より上にある怒りで紅潮しているイザークの頬を眺めながら、血の気が引いていくのを感じる。
「君にキーラ嬢を幸せにする資格はない」
ジェラルド様がイザークに言い放ったと同時に、私の中に封じられていた何かが解き放たれた。しまわれていた箱の紐が解け、イザークとの思い出が次々と走馬灯のように駆け巡る。一度に押し寄せてくる記憶の波に私は飲み込まれ息ができない。
「キーラ? キーラ‼︎」
遠くにイザークの声を聞きながら私は意識を手放した。
*
「う……」
私は朦朧とする頭を押さえながらゆっくりと体を起こしてあたりを見回す。柱がいくつかあるだけの神殿の遺跡のような建物にいた。
空にはいつも見ているより何倍もある大きな月が煌々と輝いている。
「起きたのね」
私は聞き覚えのある声に振り向いた。声の主は幼い私だった。
「ここはどこなの? あなたは……私……よね?」
「そうよ、私はあなた。ここがどこかは……多分だけど……」
幼い私は誰かを探すようにあたりを見回す。
「ここは私の神殿です」
不意に声がして振り返ると、夢の中で会った女が立っていた。
「あなたは……」
「女神様!」
女神様と呼ばれたその女は優雅な足取りで私たちの元にやって来る。美しいローズピンクの髪が緩やかに揺れ、瞳はいつかの夢で見た通り星が瞬き吸い込まれそうなほど深い群青色だった。
「キーラ、あなたの願いは私の元に届きませんでした。あなたの祈りは深い悲しみに溢れていましたが、迷いがありました。そのため私はあなたの想いを連れて行くことが出来ませんでした。あなたはあなた自身で私の光になることを拒んだのです」
「そんな……」
「この子はあなたの心の迷いが生み出した存在で、あなたの想いの結晶です」
女神は幼い私に少し哀れむような視線を向けた。
「この子は世界から浮いてしまっています。今は私の力で居場所を作っていますが、それは一時的なこと。この子をどうするか決めなくてはなりません」
「どうするか、ですか?」
「そうです。今のままでは私の光になることはできません。あなたに戻すかあるいは消滅させるかです」
「消滅⁉︎」
不穏な響きに背筋に冷たいものが走る。
「そしてこちらも同じく世界から浮いています」
女神は手のひらにガラスの小瓶を取り出した。女神の手のひらで浮いているそれは思い出になる薬を入れていた小瓶だった。薬は全て飲みきったはずなのに中に何かが入っている。
私は顔を近づけて中を覗き込んだ。
「イザーク‼︎」
私は悲鳴に近い叫び声をげた。中にはいつかの夢で連れ去られたイザークが横たわっている。
「消滅とは、あなたの記憶からイザークとの思い出が全てなくなることを意味します」
私は小瓶で横たわるイザークから目が離せない。皮肉なことだ。祈りが失敗したら記憶をなくすことができるとは。
「いや! 絶対にいや‼︎」
突然耳をつんざくような声が響いた。
幼い私が女神から小瓶を取り戻そうと手を伸ばす。女神はするりとかわし、やれやれといった顔をしてそっと手のひらで小瓶を包んで消した。
「大丈夫です。イザークは安全です」
イザークが消えたことでショックにうち震える幼い私に、女神は静かな笑みを向けた。
「少し落ち着きましょうか」
私たちは神殿のそばにある東屋でテーブルを囲んで座っていた。大きな月から降り注ぐ光は変わらず優しく私たちを照らしている。
女神の神殿の静かなゆったりとした空間にいるせいか、私はかなり落ち着きを取り戻していた。隣に座る幼い私に視線を向けると聞くまでもなく不愉快だと顔に書いてあった。
「意気地なし」
せっかく落ち着きかけた心を自分自身がかき乱してこようとは。幼い私は腕組みをして私を睨みつける。
「イザークは渡さないわよ!」
「何言ってるのよ、あなたは私でしょ? 自分で取り合ってどうするのよ!」
「私もイザークもあなたに戻るわ」
「簡単に言わないでよ!」
ふっと柔らかい音が漏れて険悪な空気が和らいだ。私たちのやり取りを見ていた女神が笑っていた。
「こんなに愉快な出来事は久しぶりです。願っておいて自ら成就するのを阻止するなんて」
無意識にこのような状況を招いたとはいえ返す言葉がない。
「さて、どうしましょうね」
女神は頬に指を当てて首を傾げる。
「コインでも投げますか?」
「え⁉︎」
私たちは驚いて身を乗り出す。
「冗談です」
「……女神様、面白がってますよね?」
「あら、わかります?」
私はため息をついた。
「私なりに決意して薬を飲んでいたつもりだったのに……」
「私が阻止したのよ」
隣で幼い私が得意げに胸を張る。
「何度か女神様に想いを取られそうになったから、闇に突き落として元の世界に戻したの」
お前か‼︎ いいえこれは私よ。そう、私が招いた結果だから……ああ、もう自分に腹が立つ。
私は夢での出来事を思い出して眉間を押さえた。
「これ以上傷つきたくないんです……」
私は女神に向き直り素直に心の内を話す。
「イザークは私を傷つけたりしないわ」
本当に自分なのか疑いたくなるような自信に満ちた顔で断言する幼い私に、私は半ば呆れる。
「あなたが私なら、私が十分傷ついていることを知っているでしょ?」
「勝手に妄想して傷ついているだけでしょ?」
「妄想じゃないわ。イザークには恋人がいるのよ?」
「イザークは違うって言ったわ。イザークは他人を傷つけたり嫌がらせをしたりする人ではないわ。そんな人だったら好きにならないでしょ?」
確かに幼い頃のイザークは心根の優しいまっすぐな性格だった。イザークがイザークらしくなくなったのはここ数年のことだった。
「子供の頃はそうでも、もう大人よ?」
「そんなに簡単に性格は変わらないわ。何か理由があるはずよ」
「で、でも婚約破棄しても構わないと言っていたわ」
「イザークは本当に破棄したいなら自分で言うわよ。言えない理由があるのよ、きっと」
「理由って……伯爵家が傾いているなんて話は聞いてないし……」
「イザーク本人に何かあるのよ」
ことごとく打ち返されて私は閉口してしまう。相手が自分なのが尚更たちが悪い。
「戻って聞いてみるしかなさそうですね」
女神の提案に幼い私が謎解きでもするように好奇心いっぱいに頷く。二人の瞳の輝きに目眩がする。
「だからそんなに簡単に言われても……イザークに聞けたら薬なんて飲まないわ」
勢いに押されそうになるのをなんとか反論する。
「じゃあこのままイザークの記憶が消えても本当にいいの?」
幼い私に詰め寄られて返答に窮する私に女神は諭すように続ける。
「キーラ、真実を見極めなさい」
女神はどこまでも穏やかに語り掛ける。
「そして、その真実から行動しなさい。どう行動するかはあなた次第です」
女神は椅子から立ち上がり私の肩に両手を置く。月に照らされる女神の顔はますます輝きを増し、陶器のような滑らかな肌が夜空に映える。
「キーラ、イザークと結婚しても幸せにはなれません」
「え?」
「イザークと結婚しなくても不幸にはなりません」
「どういう意味ですか?」
「そのままです。全てはあなた次第なのです」
「私次第……」
「あなたはイザークを愛しています。ここにいるということは、それが真実なのです」
私の胸に暖かいものがこみ上げる。それは、以前のような弱々しいものではなく、もう何年も前に封印してしまった素直な私の気持ちだった。
「時間です。あなたを元の世界に戻します。イザークと幼いキーラはあなたが元の世界に戻ると同時にあなたの中に戻ります。イザークを思う気持ちとともに」
女神は手のひらから小瓶を取り出し私に渡した。そこには穏やかな顔で眠るイザークがいて、愛おしさがこみ上げた。
私は大切に小瓶をポケットにしまった。
「大丈夫。ちゃんとイザークに聞けるわ」
幼い私がそっと私の手を取った。
「生意気ね」
私もしっかりとその手を握り返す。
「イザークに理由を聞いて彼を忘れたくなったら、次は私の力がなくても吹っ切れますよ」
女神はいたずらっぽく微笑んだ。
「準備はいいですか?」
私たちは頷く。
「さあお行きなさい」
目の前の景色が歪み女神に光が集まる。神殿はみるみる闇に染まりついには何もなくなってしまった。
私は幼い私の手を離れないようにしっかりと握り深い闇に堕ちていった。