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今日で薬を飲むのもお終いだわ。
サイドテーブルに置いてある小瓶を手に取ると最後の星がころりと音を立てた。
薬を飲み続けるか止めるか迷っているうちに結局最後の一粒となってしまっていた。
私は最後の星を口に入れ水で流し込んだ。
灯りを消してベッドに横たわると、カーテンを開けておいた窓の外はすっかり夜の帳が下り部屋の明かりが窓ガラスに映るだけだった。月のない夜は夢に出てきた闇を思い出させて心細くなる。
私は心の中でイザークに別れを告げそっと瞼を閉じた。
私は再び夢の中にいた。
今回は幼い私一人のようで屋敷の中を行ったり来たりしては物陰を覗いている。
かくれんぼかしら。
私たちは本に飽きるとこっそりかくれんぼをして遊んでいた。かくれんぼの楽しさに加えて、家の者たちに見つかるかもしれない緊張感で胸が高鳴ったのを覚えている。
幼い私はなかなかイザークを見つけられないようで顔に焦りの色が見える。廊下を突き進み図書室の前まで来ると、重厚な扉を背中で押しやって中に入りどんどん奥へと進んで行く。
子供の頃一人で奥まで進んだことはなかったのに。
図書室の奥には小さな書斎があり、そこへ行くまでの通路は薄暗く子供の時は怖くて足を踏み入れなかった。
幼い私は少し駆け足気味に迷わず奥へと進む。私も少し遅れて後に続くと、幼い私は立ち止まり書斎の方を睨んでいた。
何があるのかしら。手前の本棚が邪魔で見えないわ。
ちょうどこちらからは書斎が死角になるように本棚が設置されており、私は本棚の端に近づいて様子を伺うと誰もいないはずの書斎からは光が漏れていた。
すると光が揺れて影がすうっと伸び、ローズピンクの髪の女が姿を現した。
っ!
私は息を飲んだ。女の手にはイザークが抱えられていてた。イザークは意識がないのか微動だにしない。
幼い私はイザークを取り返そうとしているのか益々喚いている。
女は宥めるような困ったような笑みを浮かべそっと手をあげると、その指は私に向けられていた。
私の背中に冷たいものが走る。
私が狼狽している間に女の周りに光が集まり淡く輝き出す。光はどんどん女の周りに集まり、まるで景色が剥がれ落ちるように辺りが闇に染まっていく。
全ての光が女に集まったと同時に女はイザークと共に光に吸い込まれてしまった。
呆然とその場に立ち尽くしていた私のお腹に衝撃が走り、下を向くと幼い私が私の体を叩いていた。私はその手を掴むと、幼い私が目にいっぱいの涙を湛えていることに気づき握る手が弱まる。
幼い私は尚も私を叩き続ける。
「弱虫! 馬鹿! イザークを返してよ‼︎」
はっきりと頭に声が響き驚いて後ずさるとその隙に幼い私が私を押し倒した。私は再びバランスを失い暗闇に落ちていった。
*
次の日私はいつもより早く目が覚めた。夢の中の出来事が嘘のように心の中に溜まっていた澱は綺麗になくなり清々しさを感じる。
窓を開けると空は白み始めていて冷たい朝の空気を吸い込むと身体中に新鮮な気が巡った。
二人の私は一つになったようでイザークのことを思っても心が揺さぶられなかった。でも記憶は残っているし嫌な気持ちにもならない。イザークへの愛だけが過去のものとなっていた。
昨夜の夢はイザークのことが思い出になったことを意味しているんだわ。
私は一人納得していた。
今日の夜会に向かう馬車の中でイザークに婚約の解消を申し出よう。婚約解消については事前にお父様に相談し許可を得ていた。
私は朝食をとるために朝の支度を始めた。
昼過ぎからイザークと参加する最後の夜会の準備に取り掛かった。
私はシックなグリーンの左サイドにリボンのついたAラインのドレスを選んだ。左サイドのリボンの下からは、クリーム色と薄いブラウンのオーガンジーが緩やかに重なっている。胸元も同様に花が開くようにオーガンジーがあしらわれ金糸とパールで花の刺繍が施されていた。
髪はアップに結い上げドレスと揃いのクリーム色のリボンを巻いて少し長めに後ろに垂らした。以前アップにしたらイザークが顔を顰めたのでいつもはハーフアップにするかおろしていた。
化粧はリリーのお店で買ったものを使って、ベースは薄く仕上げピーチピンクのチークをのせ、口紅を軽く唇に叩いて色みをつけグロスを塗る。
首には両親から誕生日に贈られた金とエメラルドのネックレスをつけた。
最後の夜会にふさわしい装いに私は大いに満足した。
イザークの到着の知らせを受けて終幕に向かう女優のような気分で部屋を後にした。
階段からエントランスホールに立つイザークが見えた。彼は私に気づくと一瞬息を飲んだように見えたが、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻った。
私はゆっくりと階段を降りてイザークのそばまで行くと、いつものように手を引かれて馬車に乗り込み向かい合って座った。
いつもはここで辛辣な言葉を挨拶代わりに投げかけられるが今日に限って何も言われなかった。イザークは神妙な面持ちでしばらくこちらを見ていたがやがて窓の外に目を向けた。
馬車が動き出すと窓の外には王都の街並みが映し出され、夕飯時を迎えた家々の煙突から煙が立ち始めていた。
私は窓の景色に目をやりながら切り出した。
「イザーク、お話があります」
イザークは視線だけこちらに向け目を細める。私はイザークと向き合うように座り直した。
「婚約を解消していただきたいの」
イザークはまるでナイフでえぐられたかのように、ひどく傷ついたような顔をした。
私は予想外の反応に戸惑った。イザークは何も言わず二人の間には車輪の音だけが響く。
「……考えよう」
絞り出すように答えたイザークは再び顔を窓の外へ向け、きつく口を結んでそれ以上何も言わなかった。私は喜んでもらえると思っていたので少し面食らってしまった。
会場に着くと私たちはいつも通り挨拶回りをして離れた。ただし、今夜は私からイザークの元を離れた。
私は定位置の壁に向かっているところを聞き覚えのある声に呼び止められた。
「こんばんは、キーラ。この前は楽しかったね」
ジェラルド様の、少し幼くて甘い笑顔に私も自然と笑顔になる。
「ジェラルド様、こんばんわ。はい、とても楽しかったです。ボートに乗ったのは子供の頃以来でしたから」
あれほど楽しい時間を過ごしたのは何年ぶりだろうか。
「約束覚えてる?」
ジェラルド様がダンスフロアの方を見ながら私に手を差し出す。
「そろそろダンスが始まるみたいだよ。約束のダンスをぜひお願いしたいな」
「はい、喜んで」
ジェラルド様の手を取り私たちがダンスフロアに向かうと、感嘆の声や好奇の視線が向けられたが私にとってはどうでもよいことだった。それよりも念願のダンスに緊張と興奮で胸がいっぱいだった。
私はダンスを日頃よく練習していた。初めの頃は夜会でイザークに恥をかかせてはならないと練習に励んでいたが、次第に踊ること自体が楽しくなって趣味として家族や執事に付き合ってもらっていた。体を動かすと余計なことを考えなくて済むし気分転換になった。
「とても上手だね」
「ありがとうございます。ジェラルド様のリードがお上手だからですわ」
身内以外の男性と踊るのは初めてなので少々緊張したが、ジェラルド様は会話は言うまでもなくダンスも素晴らしかった。
さすが外交を担当されているだけのことはあると感心していると曲が終わったので、手を離そうとするとジェラルド様に手をぐっと引き寄せられた。ふわりとジェラルド様の香水が鼻をかすめる。
「本当はもう一曲お願いしたいところだけど……今夜はここまでにしておくよ」
耳に触れそうなほど近くでささやかれ真っ赤になっている私に、ジェラルド様はにこりと微笑んで離れた。二曲以上続けて踊るのは婚約者か夫婦とされている。
ジェラルド様の後ろ姿を見送っていると次のダンスを申し込まれた。気がつくとダンスの申し込みの行列ができていてこの後何曲も踊ることになってしまった。
次から次へとくる申し込みを捌いていたが流石に足が疲れて痛くなり、丁重にお断りをして逃げるようにバルコニーに出た。
冷たい夜風がダンスで熱を帯びた体を鎮めるように優しく通り抜ける。今まで壁の花だった私は足が冷えて浮腫むことはあっても、夜会で夜風が気持ちいい事など一度もなかった。
今までとの落差がありすぎて自然と笑いがこみ上げてくる。私はかつてないほどに夜会を楽しんでいた。
バルコニーで休んでいるとジェラルド様が飲み物を手にやって来た。
「大丈夫? 喉が渇いただろう」
「ありがとうございます」
ジェラルド様から果実水を受け取り喉を潤す。疲れた体に爽やかな酸味が染み渡る。
「随分と申し込まれていたね」
「びっくりしました。今までこんなことはなかったので」
「そうなの? キーラ嬢ならたくさん申し込まれると思うけどね」
「そうでしょうか……」
バルコニーは会場の喧騒とは逆にとても静かだった。
「気づいていないのかな? キーラ嬢、あなたはとても美しい。そのエメラルドのような瞳で微笑まれると、大抵の男はあなたを離したくないと思うはずだよ。私もその一人だけど」
思わずジェラルド様の方を向くとジェラルド様と視線がぶつかる。闇夜のせいでジェラルド様の表情はよく見えないが、美しい榛色の瞳に情熱が灯っているように見え再び私の頬がほんのり熱を帯びる。
「それにあなたは博識だ。私の話した外国のこともよく知っていたし。前にも話したけど、あなたと過ごしてとても楽しかった。もっとあなたのことを知りたいと思っている。キーラ嬢は?」
「私は……」
男女のことに慣れていない私に気の利いた対応などできるはずもなく口ごもってしまう。
「あなたに婚約者がいることは知っている。婚約者のよくない噂も……私と一緒になってはくれないだろうか。あなたとならお互いを思いやり幸せな家庭を築けると思うんだ。
あなたも知っている通り私は外国にいることが多い。もし頷いてくれるなら、私はすぐにでもあなたを連れて行きたいと思っている」
突然の告白に口をぽかんと開けてジェラルド様を見つめることしかできない。
「家のことや婚約者のことは気にしなくていい。私の方で手を打つから。あなたやオリエール伯爵家を非難する者はいないだろう」
私はジェラルド様から目が離せない。ジェラルド様の手がゆっくりと伸び私の頬に触れようとした時、バルコニーの扉が開いてイザークがこちらに向かって来た。開けられた扉から会場の喧騒が流れ込み私は現実に引き戻される。
イザークは私とジェラルド様の間に割って入ると私の手を取った。
「オランケイト様、婚約者のキーラがご迷惑をお掛けしました。キーラは疲れていますのでこれで失礼させていただきます。さあ行くよ、キーラ」
私はイザークに引かれながらジェラルド様を振り返る。
「キーラ嬢、考えておいて。返事は急がない。私は待っているから」
ジェラルド様の柔らかい声が届いたと同時にバルコニーの扉は閉められた。
イザークは私を連れて会場を横切り待合所までくると御者を呼んだ。御者は私たちを見て一瞬目を丸くしたがすぐに馬車の扉を開けた。
馬車に乗るとイザークは向かいではなく私の隣に座った。落ち着かない私をよそにイザークは黙ったまま私を家まで送り届けた。