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今日はセントレア公園で姉夫婦とピクニックだった。
姉のカリーナは私の二つ上で、二年前に侯爵家の嫡男であるお義兄様と結婚し息子を産んでいた。
セントレア公園はこの王都の中でも一番大きな公園で、広範囲に芝生が敷き詰められ、様々な種類の花が楽しめる庭園、バラ園、ガーデンパーティーもできる東屋、生垣で作った巨大な迷路や、夏にはボート遊び、冬にはスケートが楽しめる湖があり王都に住む者達の憩いの場だった。
私は淡いオレンジ色のワンピースを選んだ。もともと私はこの色が好きでこのドレスはデザインも気に入って作ったものの、以前イザークに似合わないと言われた色だったので袖を通すことを躊躇っていた。
薬を飲み始めてすでに一週間が過ぎ日々心穏やかに過ごしていたが、薬の効果なのかイザークに会っていないからなのか測りかねていた。社交シーズンも終わりに向かっているせいか、イザークの噂も聞こえてこなかった。
「お姉様、お義兄様お久しぶりです」
「前に会った時より顔色がいいわね。その服もとても似合っているわ」
「ありがとう、お姉様」
「今日はよく来てくれたね。元気そうで何よりだ。ところで、急遽参加者が増えてしまったんだけどいいかな? ジェラルドといって私の幼馴染なんだ」
「もちろんです」
「ジェラルドはオランケイト侯爵家の次男で、外交官の補佐官をしているんだ。仕事で外国にいたから私たちの結婚式にも来れなかったし面識はないかもしれないが、気さくで面白いやつなんだ」
私たちは用意された敷物の上に座って、ジェラルド様を待ちながら談笑していた。時折湖からそよいできた風が通り抜け木々が踊るように揺れた。湖では、恋人たちや家族連れが乗る色とりどりのボートが湖面を華やかに彩っていた。
しばらくするとこちらに向かってくる青年が見えた。
「ジェラルド! こっちだ」
お義兄様が立ち上がり青年に向けて手を振った。
「すまない。遅れてしまって」
「紹介しよう。私の友人のジェラルドだ」
「ジェラルド・オランケイトだ。以後、お見知り置きを」
「キーラ・オリエールです。よろしくお願いします」
赤茶色の髪に榛色の目のジェラルド様は、知的な顔つきに柔らかい笑みを浮かべ落ち着いた物腰で挨拶をされた。
「さあ、皆揃ったことだし食事にしよう」
敷物の上に簡易テーブルが設置され、ローストされたお肉、野菜やチーズを乗せたオープンサンド、ハムが数種類、野菜スティックに煮込んだお肉の詰まったパイ、フルーツなどが並べられていく。
ジェラルド様は私の隣に座り、外国での生活のことなどを聞かせてくれた。さすが外交を担当しているだけあって気配りがお上手だった。
食事を終えて私たちは湖に移動した。先にボートに乗ったジェラルド様が差し出す手に捕まり私もボートに乗り込んだ。
ここでもジェラルド様は私を飽きさせなかった。王都と領地しか知らない私は、珍しい外国の話に夢中になってたくさん笑った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、ボートから降りると少し日が傾きかけそろそろ屋敷に戻る時間になっていた。
私は姉夫婦とジェラルド様に挨拶を済ませ馬車に乗り込んだ。ジェラルド様が馬車の扉に手をかけ、閉める際に二人だけに聞こえるように囁いた。
「キーラ嬢会えてよかった。こんなに楽しい時間は久しぶりだった。次の夜会ではぜひ私とダンスを」
ジェラルド様は片目をつむって見せた。
突然のことに反応できずにいた私は閉じられた扉をしばし見つめる。馬車が動き出した振動で、ようやく頭が働き出して一人で慌てふためいた。
なんてことかしら。ダンスに誘われるなんて初めてだわ。
一人で真っ赤になりながら今までの夜会を思い出す。そもそも私は男性と二人で話したことがほとんどない。いつも夜会では壁の花になるか女友達と談笑するくらいだった。イザークの醜聞が酷くなってからは、好奇の目に晒されるのが辛くて目立たないようにしていた。
先程のジェラルド様の笑顔を思い出す。イザークの笑った顔も思い出そうとするが、久しく私に向けられていないそれは横顔でぼんやりとしか思い出せなかった。
寂しさを振り払うように窓の外を見ると、夕日を受けて桃色に染まった雲が藍色の空を美しく彩っていた。
*
今夜は半月だった。私は毎夜誰にも見られず薬を飲み続けていた。
薬を飲むたびにイザークとの記憶が取り出されては箱にしまわれていくような感覚を覚えていて、私の中に二人の自分が存在しているような奇妙な体験だった。
目を閉じてイザークに思いを馳せると、過去のこととして心穏やかに受け止めている私がいる一方で心がざわつく私がいた。
薬を口に入れるとほんのり甘みが広がった。まるで思い出は美しく甘いものだとでも言うように。
私は薬を水で流し込んで眠りについた。
またイザークと私の思い出の夢にいた。
幼い私とイザークは図書室で並んで本を読んでいる。イザークが眠くなったらしくうとうとし始めた。幼い私がイザークの本をそっと取ると、イザークは眠たそうに微笑み私の横にころりと寝転がった。幼い私が側にあった毛布を掛けてやる。
微笑ましいいつもの光景を見ながら懐かしさに思いを馳せていると、空間にうっすらと光の亀裂が入り、光の中からローズピンクの髪色をした女が現れた。
誰かしら? どこかでお会いしたことがあるような気がするんだけど……
私は思い出そうと記憶を辿る。
女は幼い私に何か話しかけているようだった。しばらく話した後、女は寝ているイザークの額に手をあて頭を撫でるような仕草をすると、幼い私がその手を払いのけてイザークを庇うように立ちはだかった。
幼い私は女に向かって何やら喚いている。こちらからは音が聞こえないので何が起きているのかよくわからない。
私は二人の様子をはらはらしながら見守っていた。
すると幼い私がぱっとこちらに振り向き、怒りに満ちた視線を向けて叫ぶ。
え?……や、め、て……?
私に気づいた女がゆっくりと私の方を振り返り微笑みを浮かべる。それは完璧なまでに美しく、星をちりばめた夜空のような瞳が瞬き、形のいいバラ色の唇の端が微かに上がる。
私はあまりの魅力に吸い込まれるように見つめてしまう。
突然私はバランスを崩した。倒れまいと後ろに足を引いて体を支えようとするが、あるはずの足場がない。足を踏み外した格好になり真っ逆さまに落ちて行く。落て行く刹那、目の端に幼い私が闇の淵で前のめりに転倒しているのを捉えた。
突き落とされた……?
私は底知れぬ闇に落ちて行った。
「……さま、お嬢様」
私を呼ぶ声にぼんやりと目を開いた。
「そろそろ起きられませんと。今日はリリーさんのお店にお出掛けになるのですよね?」
エルサがカーテンを開けるといつもより高いところから陽の光が差し込み、私は眩しさに思わず目を細めた。いつもより重く感じる体を無理やり起こして出掛ける準備を始めた。
*
「どう? 変なところはない?」
「ええ。イザークのことを考えるとまだ心が騒つくけど、そうでない事もあるの。不思議な感じよ、自分の中に二人の自分がいるみたい」
リリーは鏡台の椅子を持って来て私の斜め前に座ってお茶を飲んでいる。今日訪ねたら私のために一人がけのソファが用意してあった。黒猫に出入りしている商人から譲り受けたらしい。
「新しい私が占める気持ちが日に日に大きくなるのを感じるわ。過去の私が新しい私に一つずつ何か渡しているようなの」
「薬が効いているみたいね」
「ただ……イザークと私の夢を見るの……時々だけど。子供の頃二人で一緒に過ごした時の夢や婚約してからの夢よ」
「心配ないわ。薬で思い出に変換しているから人によっては夢に見る事もあるの」
「そうなのね、安心したわ。そう言えば夢に知らない女性が出て来たわ。とても綺麗な方よ」
「女性?」
「ローズピンクの髪に青い瞳の女性よ」
「ローズピンク? 珍しい髪色ね」
リリーは怪訝そうな顔をする。
「どんな夢?」
私はぼんやりとした記憶を辿りながら夢のあらましを話した。
「幼い私が何か私に叫んでいたけど、音が聞こえないからよくわからなかったの」
リリーは少し考えるように黙って、ゆっくりと切り出した。
「今更だし余計なことかも知れないんだけど……」
リリーの紫の瞳が真剣な色を帯びる。
「私たち魔法使いは魔法を習う前に大切な教えがあるの。万物に真摯であれ、いかなるときも己に本音であれ」
リリーは自分の胸に手を当てて目を伏せる。
「魔法はこの世に存在する全ての力を源に発動される術だと考えられているの。火、水、土や風がよく知られていて、次いで闇や光を源にした魔法があるのは知っているでしょ?」
「ええ」
「宝石などの石、星、太陽や精霊なんてのもあって、今回は月ね。これらを源にする魔法を使える人が少なかったり、用途が限られている魔法だったりするから一般的ではないけどね」
リリーの話はいつも興味深い。
「魔力の源となる万物から力を分け与えてもらうには、術者が心から語りかけお願いする必要があるの。お願いの方法が術式や祈りに該当するんだけど、魔女は主に術式を使って万物から力を分け与えてもらって、自分の魔力を媒体に魔法を行使するの。ここで大事なのは、術式の複雑さや精密さよりも万物に真摯に向き合うことなの」
「今回だと、私が薬を飲むときの祈りも当てはまるのかしら?」
「そうね」
リリーが頷く。
「万物は人間と違ってお願いを感じとる力が優れているとされているわ。だから万物に真摯に向き合って心を通わせる必要があるの」
リリーはここまで話して柔らかい表情に戻った。
「話を戻すと、話を聞く限り私にはキーラが迷っているように感じるのよ。薬の効果で過去を夢に見る人はいるけどそれだけなの。夢の中の人物が話しかけたり、ましてや知らない誰かが介入することはないわ。
夢が乱れているのは迷いがあるからうまく薬が作用していない、つまり月から力を得られていない可能性があるわ」
「…………」
「イザークさんは生きているわ。迷うことは誰にでもあることよ。今ならやめられるわ。もう一度考えてみて」
私は何も言えなかった。頷くのが精一杯でなんとか笑顔を取り繕って黒猫を後にする私を、リリーは最後まで心配してくれた。
リリーに言われた言葉を頭で反芻しながら、馬車が待つ表通りに向かって歩いていた。
どうすればいいのかしら……薬を飲むのをやめてイザークを愛したまま結婚できる? それは無理だわ。じゃあ婚約破棄? そのためには理由がいるわ……イザークに恋人のことを聞かないと。もし恋人がいたらとてもじゃないけど平常心ではいられないわ。
突然頬に冷たいものを感じて上を向くと雨が降り出していた。いつの間に天気が変わってしまったのか、雨は瞬く間に激しさを増し路面を染めていく。道ゆく人々は軒下に入ったり、帰路を急いで慌ただしく走っていく。
前にも同じようなことがあったわね。
私は走る気力もなくぼんやりしていると一台の馬車が目の前に止まった。中から見覚えのある紳士が飛び出して来た。イザークだった。
「何をしてるんだ、キーラ!」
イザークは返事を待たずびしょ濡れになった私を馬車に乗せた。彼は私の隣に座り自分の上着を脱いで私を包み抱きしめるように支えた。
「ずぶ濡れじゃないか。雨の中何を……」
私は寒さなのか悲しさからなのか震えていた。イザークは何も言わず私を抱きしめて背中を優しく撫でた。
イザークに急に優しくされて戸惑いながらも嬉しくて涙が出る。私はイザークの温もりが心地よくて体を預けた。
私の涙に気づいたのか溢れた涙を優しく指で拭いながら、心配そうに私の顔を覗き込むイザークの瞳は、子供の頃と変わらず澄んだ碧色だった。
イザークの視線と私の視線が絡んで、ほんの僅かな間が永遠のように感じられた。
「キーラ……」
イザークの私を呼ぶ声は掠れ瞳は色を帯びている。
私の涙を拭っていた指は優しく頬をつたい唇をなぞり、その指に私は促されるように唇を開きため息を零した。
「イザーク……」
イザークは私の声に一瞬体を強張らせたかと思うと、ぱっと体を離して私に掛けていた上着の前をしっかりと閉じた。顔からは先ほどの色は消え、僅かばかりだが苦痛に顔を歪めていた。
「風邪をひくといけない」
イザークはそう呟いて向かいの椅子に移動した。私は状況が飲み込めず移動するイザークを目で追っていると、向かいの椅子の上に置かれている宝石箱に気づいた。私の視線に気づいたイザークは、箱をさっと自分の後ろに隠した。
ご令嬢への贈り物だろう。私は急に現実に引き戻され悲しみに打ちひしがれた。イザークに悟られないように俯き上着の前を引き寄せると、ふわりとイザークの香りに包まれてまた涙が溢れた。