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 何がいけなかったのかしら。


 何度目の問いかけだろう。口元を扇で隠してそっと小さな溜息をこぼす。

 いつものように私は壁際に一人で佇んでいた。今夜は婚約者と二人で夜会に参加していたが、婚約者は私の側にはおらず少し先で美しい令嬢と親しそうに談笑している。

 私の婚約者――デュメリー伯爵家の嫡男で名をイザークと言う――は、挨拶回りを済ませるや否や私とダンスもせず彼の恋人と噂されている令嬢の元に向かった。

 イザークと私は、私の父のオリエール伯爵とイザークの父親のデュメリー伯爵が旧知の仲で、幼い頃から交流があった。

 イザークが両親に連れられて我が家に遊びに来た時、私は彼の秀麗な姿に目を奪われた。銀色のゆるい癖のある髪に宝石のように輝く碧い瞳、三日月の形をした可愛らしい唇が絶妙に配置された顔は絵本に出てくる王子様そのものだった。

 イザークは最初こそよそよそしかったが、仲良くなるとたくさんおしゃべりをしてお気に入りの本などを紹介してくれた。

 一緒に過ごす時間はとても楽しくいつも別れ際は寂しかった。離れている時は手紙のやりとりをしながら次に会える日を待ち遠しく思った。私はイザークにすっかり恋をしていた。

 そんな私たちの様子を両家の親たちは喜び、家柄もちょうど釣り合うことから十歳の頃正式に婚約した。

 婚約してからもずっと仲良くしていて、十五歳で社交界にデビューしてからもしばらくはイザークはそれなりの頻度で訪ねてくれていたが、私が十六歳になった頃から彼はほとんど顔を見せなくなった。

 代わりに聞こえてきたのはイザークの良からぬ噂だった。だんだんと噂は酷くなり、デートをしていただの夜会を抜け出して密会していただの醜聞が絶えなかった。最近は恋人ができたと噂されていた。


 帰ろう。


 私は好奇な目に晒されるのもヒールで立ちっぱなしの足も限界だった。イザークはこちらを気にしている様子はない。

 私は足早にその場から立ち去った。エントランスまで行くと、待機していた御者に案内され馬車に乗り込んだ。馬車がゆっくりと動き出す。まだ帰る時間には早いためか道は混んでおらず、馬車は止まることなく家路に向かう。

 車輪の音だけが響く一人きりの馬車の中で、私は誰もいない向かいの席を真っ直ぐに見据えていた。

 はらりと熱い雫がこぼれ落ちドレスにシミを作る。雫ははらりはらりととめどなく流れ落ちて次々にドレスにシミを作っていく。

 一人きりになった途端に気が緩んで泣いてしまうのもいつものことだった。

 私はどんなにイザークの醜聞を聞かされても人前でだけは絶対に泣かないと決めていた。人前で泣いてはそれこそ格好の餌食だ。


 政略結婚なのだから。


 泣くのは家に帰るまでだと、涙でぼやける視界の先にできたシミを見つめながら自分に言い聞かせた。




*




 翌日化粧品が切れそうだったので、気分転換を兼ねて出掛けることにした。夜会の後は落ち込んで部屋に引きこもることが多かったが、今日は清々しい天気で気が紛れた。

 雑貨屋を適当に巡りながら大通りを歩く。空は晴れ渡り古都の街並みが威厳を取り戻すかのように輝き、街路樹を抜ける風は爽やかで気持ちがいい。

 私は店から出ると、眩しさに目を細めながら侍女のエルサに声を掛けた。


「あそこで休憩にしましょう。最近人気のスイーツのお店らしいわ。チーズケーキが絶品だそうよ」


 少し先の白い壁に水色と黄色の屋根が可愛い建物を指す。人気店らしく数名並んでいるのが見える。

 店に向かって歩き出そうとした時、扉が開いて一組の男女が出て来た。男が扉を開けると、後に続く女は甘えるようにその腕に飛び込んだ。男もそれに応えるように受け止める。仲睦まじい男女の男の方は私の婚約者イザークだった。

 頭のどこかで噂だからと認めていなかった事実を突きつけられて、頭が真っ白になる。足は地面に縫い付けられたかのように動かず、見たくもないのに二人を食い入るように見つめてしまう。


「……さま!お嬢様!」


 心配そうなエルサの声で我に返った私は、弾かれたようにその場を立ち去り路地裏に逃げ込んだ。狭く複雑に入り組む路地を夢中で駆ける。

 どこまで走ったのか、後ろから追いかけてくるエルサの声でようやく立ち止まり、ふらふらと壁に手をついて肩で呼吸を繰り返す。早鐘を打つような鼓動が耳にうるさく響いた。

 追いかけてきたエルサに私は呼吸を整えながら向き直る。


「大丈夫よ、少し驚いただけ」


 空を見上げるといつの間にか黒い雲に覆われ、先程までの青空は見えなくなっていた。


「……それより天気が怪しいわ。どこかに入りましょう」


 言ったそばから叩きつけるような雨が降ってきた。私たちは慌てて近くの店に飛び込んだ。


「いらっしゃいませ」


 窓を激しく叩く雨音に反して、のんびりとしたハスキーな声が部屋の奥から響いた。


「こんにちは。雨に降られてしまって……」


 私が申し訳なさそうに返事をすると、奥から私より少し年上だろうか店員らしい女が出て来た。


「あら、本当だ。ちょっと待ってて」


 女は私たちを見ると、奥に引っ込みタオルを持って出てきた。


「使って。そのままだと風邪ひくわ」

「お気遣いありがとうございます。お借りします」


 ちょっと雨に打たれただけなのにかなり濡れてしまった。私たちはタオルを受け取り濡れた体を拭く。


「さっきまで晴れてたのに。あなたたちついてなかったわね」


 女はお茶の準備をしながら、窓の外を見て私たちに気の毒そうな顔を向けた。


「さあ、温かいうちにどうぞ。私はここで店主をしているリリーよ。見ての通り誰もいないからゆっくりしていって。なにせ二人は最初のお客様ですからね」


 リリーは茶目っ気たっぷりに笑った。

 部屋を見回すと、どうやら雑貨店らしく所狭しと髪飾り、化粧品やポーチなどが並べられていることに気づいた。特に化粧品は品揃えが豊富で、他の店では取り扱っていない商品が並べられていた。


「珍しい化粧品がたくさん揃っているんですね」

「あらわかる? すべて私の手作りなの」


 リリーは楽しそうに化粧品を手に取る。


「他所の化粧品が肌に合わなくて。色ももう少し薄くてバリエーションが欲しかったし。それで自分で作り始めたの。そうしたら面白くてお店まで出しちゃった」

「全部作られたんですか⁉︎ すごいですね。私ちょうどお化粧品を探してて……試してもいいですか?」

「ええ、もちろん」


 リリーの店――黒猫――は、肌の弱い人でも使える薄づきな化粧品を取り扱っていた。色物も豊富で可愛らしいものからクールな色合いまで揃っていて、迷ってしまうほどだ。石鹸やバスオイルなども充実していてどれも良い香りがする。


「肌にすごく馴染みますね。お粉がすっと密着するというか」


 私は鏡を手に持って、リリーにお化粧を合わせてもらう。


「あなたの魔力と私の魔力の相性が良いのね」


 この世界は誰しも少なからず魔力を持って生まれているので、少ない魔力で操れる魔道具が生活に浸透している。化粧品もその一つだ。


「お化粧品には作り手の魔力が入っているから、強さや相性によっては肌荒れするのよね。相性が良いと効果は高くなるんだけど……できたわ」


 鏡には清楚で凛とした令嬢が映っていた。


「すごい別人みたい……」

「あなたの場合、前のお化粧の魔力が少し強かったのかも。薄づきな方が映えるわね」

「また練習に来てもいいかしら?」

「もちろん! いつでも大歓迎よ」


 リリーのお化粧と笑顔にすっかり癒された私は、お粉を購入して店を後にした。

 雨はすっかり上がり白い石畳には水たまりがあちこちにできて、そこには澄んだ青空が映し出されていた。




*




「君は相変わらず地味だな」


 イザークの今日の私への第一声だ。

 今日は二人でお茶会に参加することになっていたので、イザークは私を伯爵邸まで迎えに来ていた。

 馬車に乗り込んですぐに彼は私を詰った。私は困惑して笑みを浮かべる。イザークはそんな私の態度に嫌気がさしたのか、眉根を顰めて顔を背けてしまった。

 私は紺色のドレスを着ていた。お茶会にしてはやや地味なデザインと色使いではあったが、明るい色のドレスは以前イザークに似合わないと言われたので着るのをやめていた。

 私は俯いて膝の上に置いている自分の指先を見つめながら、頭の中からあらゆる感情を振り払う。余計なことを考えたら涙が溢れてしまいそうだった。

 イザークに気づかれないようにそっと目の端で彼を見ると、彼は変わらず窓の外を見ている。

 子供の頃の美しい容姿はそのままに可愛らしさはすっかり消え去り、ゆるく癖のある銀糸のような髪は少し重ために前にかかり、そこから覗くアイスブルーの瞳は怜悧な美貌を引き立てているが、いささか冷たい印象を与える。背筋を伸ばして、すらりと伸びた足を組んで座る姿は優雅だった。

 それに比べ私は特段珍しくもないヘーゼルブラウンの髪に、エメラルドの瞳の平凡な顔立ちだった。エメラルドの瞳は珍しいが、取り立てて美人というわけではない。両親が昔身内の贔屓目で、愛嬌のある顔だと褒めてくれたくらいだろうか。


 釣り合っているのは身分だけね。


 不意にいつかの夜会での心無い会話が頭をよぎる。私は手を握り締め固く瞼を閉じて余計な考えを締め出した。

 お茶会ではいつも通りイザークは挨拶を済ませると私から離れた。

 私は知り合いを見つけて談笑していたが、話題は噂話や恋愛話で今の私には息の詰まる話題だった。

 しばらく話を合わせていたが流石に疲れてきたので、レストルームに行くためにその場を離れた。

 庭園から屋敷に入り廊下を歩いていると、応接室と思われる部屋から数人の男女の声が聞こえた。扉は少し開いているらしく声に引かれて近づくと、イザークと彼の友人たちがいた。


「イザーク、程々にしとけよ? もう随分と噂になってるぞ」

「……何が」


 イザークが面倒臭そうに返事をする。


「令嬢の件だ。わかってるんだろう?」

「それくらいにしとかないと大変なことになるぞ」


 どうやら恋人と噂されている令嬢のことで、彼らはイザークを諌めているようだった。


「いいんだ別にどうなっても」

「よくないわよ。婚約者がいらっしゃるのに」


 少し間を置いてイザークが口を開く。


「婚約が解消になるならそれでも俺は構わない」




 私はその場を急いで離れレストルームに逃げ込んだ。誰もいないのをいいことに、レストルームのソファの肘掛にもたれかかって項垂れる。

 なぜ今頃気がつくのだろう。女遊びを繰り返して、挙句恋人までいるのだから言うまでもないことだ。

 聞かなければよかった。聞きたくなかった。立ち聞きなどしなければよかった。

 後悔しても遅い。私は嗚咽が漏れそうになるのを堪えながらよろよろと立ち上がる。

 ふと鏡を見ると、そこには青ざめてもなお憂いを含んだ笑みを浮かべている私が映っていた。

 おぼつかない足取りで馬車の待合所に向かうと、いつもの御者が案内してくれた。私はいつものようにデュメリー伯爵家の馬車に一人乗り込み、泣きながらオリエール伯爵邸に帰った。

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