蟲を視ていた。
人は知らない存在を恐れます。
子が見知らぬ親に潔癖であるように。
それは自明の理なのです。
私には人が何なのかわかりません。
なにも私は知りません。
言葉を話せない私は
この狭い教室で彼らの話を聞くのです。
この教室にはたくさんの虫がいるようです。
【ある少年Aの話】
僕は幼い頃から人が何なのかわかりませんでした。
物心ついた頃にはわからないことがわかっていました。
僕が保育園に通っていた頃です。
保母から好きなひとの絵を描きなさいと言われました。僕以外の人はみんな思い思いに筆を進めていました。しかし僕は違いました。人を思い浮かべようにも靄がかかって無理でした。僕は人の顔が識別出来ないようでした。怒られましたが僕がまだ幼いので赦してもらえました。
小学生の頃です。
僕は周りから可愛いと評判の子に告白されました。やはり彼女の顔には靄があり、僕には彼女の顔の美しさは識別できませんでした。ですから断ったんです。君の顔が解らないと。少女は滂蛇の涙で僕を糾弾しました。親をも巻き込んでの騒動になりましたが僕には全く何も解りませんでした。理解しようにも脳が考えるのをやめてしまうのです。
中学に通うようになると、好みの女性について問われることが増えてきました。周囲も次第に異性に惹かれるようになっていたようです。しかし僕は解らないといつも応えていました。彼らの顔には一様に靄がかかっていたのです。
ある日のことです。
廊下に何やら死んでいました。
「ハナムグリだ」
と友人とも呼べない同性の男が言い、くしゃりと踏み潰してしまいました。死後であるとはいえ、生を冒涜するような行為に私は何も声を上げず、ただ空虚な骸と化したハナムグリを見ているのでした。
しかしそんな些細な出来事で僕は変わってしまいました。
あれから幾夜経とうとも私の脳裏にはハナムグリが焼き付いて離れませんでした。人は一夜も経たず霧消するというのに……授業も受けずに考えていると「うひゃあ」と頓狂な声が後ろの方から聞こえてきました。声から察するに女生徒です。何だ、何だ、とさざめく教室にブーンという一つの羽音が響きました。それは流線形の滑らかな躰に誰もが惹かれるような孔雀色を蛍光灯に美しく反射させていました。
「あれは何だ。」
と隣の席に勢いよく訊ねました。少し僕に気圧されたようですが
「季節外れのアオカナブンだ。」
と教えてくれました。大きな円を描いて飛ぶそれに私は心を奪われてしまいました。
それ以来変わってしまったのです。
図書室で昆虫図鑑を開くときはひどく官能を覚えましたし、不意討ちの如く現れる羽虫にさえ、私は心を揺さぶられるようになったのです。人は今でも解りませんが虫だけは私に安寧をもたらすのです。
***
彼は私に自身が虫に囲まれて幸せそうにそうに微笑んでいる写真を見せて来ました。
どうやら彼は蟲の虫のようです。
【ある少年Bの話】
俺には人の手というものが恐くて仕方がありませんでした。
幼い頃、本当に幼い頃、俺は両親に殺されかけたのです。首を絞められ、頸骨を捻られ息も絶え絶えになったのです。蠢く手に俺は生来恐怖を抱くようになったのでした。
手というものには魔力があります。人の感情というものは手に表れるようなのです。怒ったときには拳は握りしめられ、嬉しいときには柔らかく握られ、喜びのときは抱擁しようと広げられるのでした。俺にはそれらがひどくおぞましかったのです。
小学生の頃です。
体力向上を意図した鬼ごっこが週に二回行われるようになりました。それは俺にとって阿鼻叫喚の地獄に他なりませんでした。迫ってくる腕、腕、腕。私はそんな恐怖から我を失うほどに逃げ惑い、錯乱していたのでした。
あるとき、友人宅で開かれたパーティーに参加したときです。豪勢な食事と人生で初めての立食ということもありひどく興奮したことを覚えています。食事にはお酒も振る舞われ、友人の誕生パーティーだったそれは、完全に大人の場になってしまったのでした。暇になった友人達が鬼ごっこを興じ始めるのも自然な流れだったのでしょう。
「見ーけ。」後ろから声とぬるっと伸びてくる手。俺を恐怖させるには十分でした。発狂して逃げ惑う私は隠れていた扉の両脇にある石像を倒してしまったのです。がしゃんと音を立てて倒れる石像は俺の目には時間が引き伸ばされたかのように緩徐でした。
その轟音に俺と近くにいる鬼以外も寄ってきました。皆一様に手足がバラバラになってしまった石像に顔を青くしてしまっています。
しかし私はその手足を喪った石像に魅入ってしまいました。恐怖の対象が取り払われた人間とはなんて美しいのだろう、と生まれて初めての感情を抱かないではいられませんでした。
ミロのヴィーナスを美術の時間に拝見しましたがてんであれは駄目でした。脚もなくしていないと私の不安は取り除かれないのです。ですから俺はなけなしの小遣いを振り絞っては人形を購入しては手足を奪っていたのでした。その行為は私を安心させてくれるんです。
***
彼はそう言いながら豪く惨い四肢を喪った人形を色々なアングルから撮った写真を見せて来ました。
彼はどうやら無肢の虫のようです。
【ある少年Cの話】
彼は自分を語ろうとしませんでした。彼はいつも自分を圧し殺して笑っているようでした。私は彼の話が聞きたかったのですが、彼は私を見ると怯えて何も話さないどころか、近づけもしなかったのです。
ですから私からみた彼の話を致しましょう。
彼はどこにでもいる普通の少年でした。いや、正確には普通になろうとしていた少年でしょうか。周囲から見るといつもにこにこと笑っていて、朗らかだと思われていたでしょう。しかし私には彼の笑みは自嘲に崩れ、形容できないほどの散々な出来でした。ですから私は聞いたんです。
「君はなぜ嗤っているの?」
勿論私は声が出ませんから口だけの動きですが彼は読唇術の心得も無いでしょうに笑えるほど慌てたのです。私は確信しました。彼は自分を騙し、周囲を欺きそして嗤っているのだと。
それから私は彼を観察しました。隈無く一つも見逃さぬように。
彼は周囲から信を置かれていたのでよく話しかけられていたのでした。
「宿題貸して。」
「昨日のテレビのあれ、面白かったよな。」
「今日の部活くそだわ。」
どうでもいい、とるに足りないような会話。一晩もすれば忘れてしまうような些事。しかし彼はそれの一つ一つに慎重に丁寧に応えているのでした。私は疑問が底をつきませんでした。
ある授業で自分の将来の夢を発表するというものがありました。私は彼が何というのかてんで予想が付かず、彼の発表を心待にしていました。しかし彼は「ありません」と応えたのです。そして「私には未来が見えません」と言ったのです。それを聞いて私は確信したのです。彼は自分というものが無いのだと。確固たる自身と形容するものが無いのだと。
***
集合写真を見ます。彼の笑顔は作り物の如く美しく、そして歪でした。
私だけ彼が無私の虫だと知っていたのです。
【ある語り手の話】
この教室の人々を観察していますと皆一様に自身の躰に虫を飼っているようなのです。果たして私はどうなのでしょうか。そのとき隣の席からぐうーという音が聞こえてきました。腹の虫です。私は笑ってしまいました。こんなところにも虫がいると。
「なあ、お前ってさいつも本読んでんのな。」
おや、誰かに話しかけられました。確かに私は人間観察をする際のカムフラージュとして本を携帯しています。
「本の虫ってやつか?」
私は自分が何なのか、皆目見当もつかなかったのですが、どうやら私の飼っている虫は本のようです。しかし私は声が出せません。彼に応えることが出来無い私はまた、本に目を落とすのでした。
「いや、違うな、無視の虫だな。」