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正義の組織「ワールド・パーティ」の危機  作者: under_
エピローグ 後夜祭
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エピローグ

 謝罪行脚を終えて、高校に戻ってきた頃にはもう文化祭の本祭は終了し、後夜祭が始まっていた。

 生徒たちが集まり賑やかな雰囲気に包まれるグラウンドを横目に、一連の出来事を説明するために校長室に向かった。どんな沙汰が下されるかと内心びくびくしていたのだけど、驚いたことに、校長からは反省文一枚だけで、それ以外のお咎めはなかった。それどころかあとのことは教員たちに任せなさい、とも言ってくれた。本当に寛大な心を持ったお方である。開会式の時に道化役として扱ってしまったことを深く恥じ入るばかりだ。佐竹にも、あんな演出二度と考えないように、と強く伝えておこう。

 何はともあれ、これでようやく解放された。今日一日ずっと胃はキリキリと痛んで、何度気分が悪くなって吐きそうになったことか。本当に人の尻拭いとは損な役回りで、割に合わないことこの上ない。

 校長室を出てグラウンドに向かうと、後夜祭の真っ最中で、クレーターのすぐ脇にあるキャンプファイアーに、まだ文化祭の余韻に浸りたい生徒たちが大勢集まっていて、みんな、やり終えたという達成感で笑顔に溢れていた。

 グラウンドを一回りしていると、野球部とサッカー部たちの姿が見えた。昨日は瑞音と義隆のせいで乱闘騒ぎを起こしていたのに、今はジュース片手にお互いの肩を組み合って、陽気に騒いでいた。どうやら、今日のスポーツイベントについてはつつがなく成功したようだ。

 サッカー部たちの隣には、コンピュータ部の四つ子もどきと、「あなたはハワイからの帰りですか?」と問いたくなるような、サングラスにアロハシャツを着た見知らぬ青年男性がいた。コンピュータ部たちはハワイアンな男性に頭を下げると、青年男性も手を振ってその場から立ち去っていった。

 僕はコンピュータ部たちに近寄って、声を掛けた。

「ええっと、あの人は誰?」

 四人のうちの一人が答えた。「ああ、君は生徒会の……。今日は大変だったね」

「まあね……。そっちにも迷惑かけて悪かったよ」

「気にするな」と、四人のうちの誰かが言った。

「で、あの人は?」

「地元のIT会社の社長だって」と、別の誰か。

「へえ」随分と奇抜な社長だな、と思いながら、ハワイアンな男性が去っていった方向へ目を向けた。「その人が君たちに何の用があったの?」

「実は今日の午後、昨夜のハッカソンで作ったアプリの発表会をしたんだけどさ、それをたまたま文化祭に来てたあの社長が見ていて、声を掛けてくれたんだ。それで、今度会社に遊びにおいでって」

「俺たちの成果が認められたんだ。どうだ凄いだろ」

 四人は揃って大きな腹を張った。アニメだけを見ていたわけではなかったらしい。

「それは、おめでとう」

「ふっふっふ、将来俺たちがシリコンバレーで会社を興したら、生徒会、君を庶務担当として雇ってあげてもいいぞ」

「う、うん……。考えておくよ」

 得意顔を浮かべるコンピュータ部の四人と別れて、再び歩き始めると、遠くから名前を呼ばれた。

「おい、八川!」

 振り向くと、駆け足で太田が近づいてきた。

「き、聞いてくれよ、八川」と、興奮気味に太田が言った。

「どうしたの? 恋愛相談室への相談客が、結局一人も来なかったとか?」

「そんなことはもうどうでもいいんだ。……聞いて驚け、俺に彼女ができた!」

「なっ、なんだってー!」

 周囲がこちらに振り向くくらいの大声をあげてしまった。

 抑えた声で太田に訊ねる。「ど、どういうこと。この文化祭で何があったの?」

「落ち着け、順番に教えてやろう」太田は勝ち誇ったように語り出した。「今日、文芸部の部室に他高校の女子生徒が一人やってきたんだ。展示物の本を眺める彼女の横顔を見た時、ビビビと来た」

「ビビビって……、君は何歳だよ」

「つまらない茶々を入れるな。……俺は居てもたっても居られず彼女に声を掛けたんだ。『本は好きですか?』って」

「それで?」

「振り返った彼女は頬をかすかに赤らめ『はい』と、答えた。それから俺たちは好きな本の感想を言い合った。俺は大いに驚いた。なにせ、彼女と僕の本の趣向は全くと言って良いほどに同じだったんだ。これに俺は天啓を感じたね。きっと彼女もそうだったに違いない。俺たちは今度古書店巡りをすることになったんだ。これをデートと言わずして何と言う?」

「それ、本当の話? 太田のいつもの妄想じゃないよね」

 僕は疑うような視線を太田に向けた。

「本当の話に決まっているだろ。ちゃんとメッセンジャーのIDも交換したんだ」太田はグラウンド一帯をぐるりと指差した。「これで俺もあいつらリア充の仲間入り!」

 太田に指摘されてようやく気づいた、グラウンドには少なからずの男女ペアがいるということに。文化祭の恋愛特異点がここまで凄まじい威力を持っていたとは。

「八川よ、お前もせいぜい頑張ることだな」

 太田は高笑いと共に去っていった。一瞬、その背中に向かってナイフを突き立てたい衝動に駆られてしまった。

 グラウンドを一周し終わって、校舎に戻ろうとした時、ふと、グラウンドの隅のベンチに座っている、北条と三浦の姿が視界に入ってきた。二人は例のごとく何やら言い争いを続けている様子だった。また取っ組み合いが始まる前に、仲裁しないと、と思って、近づいてみると、これまでの犬と猿が騒々しく吠え合うような雰囲気とは少し違っていた。

「惑星間移動をするためには、テクノロジーの改善だけじゃなく、社会学的な知見も必要で……」

「そもそも、惑星間移動する目的は? 資源? それとも移住? 目的に応じてアプローチも変わるはずよ。もしその地球外の文明とコンタクトを取るためなら、まずは電波測定器を使って……」

「それに、ウラシマ効果についても検討を……」

 二人が何を言っているのかはさっぱりわからないが、口汚く罵っているわけではなさそうで安心した。それにしても、二人はよっぽど議論に没頭しているのだろう、近づいてもこちらに気づく様子はない。その代わり、背後から「おい」と宇都宮が声を掛けてきた。

「お前、久我といつも一緒にいた生徒会の……」

 本当に僕の名前は太田くらいにしか覚えられてないな、と寂しく思いながら名乗った。「八川です」

「ええっと、生徒会。今回いろいろ世話になったって、あいつに会ったら伝えておいてくれないか?」

「……わかった。ところでこの二人はどうしちゃったの?」

 僕の問いに、宇都宮は嬉しいとも困ったとも受け取れる複雑な表情を浮かべた。

「どうやら意気投合したらしい」

「本当に? 昨日までお互い散々罵倒し合ってたじゃない」

「それが今日の昼ごろ、俺たちの部室に突然北条が果し状を持って現れたんだ」

「は、果たし状!」

「ああ、北条は亜衣里に向かってオカルト同好会の情熱が正しいか、天文部の道理が正しいか、言論バトルで決着させようって言い出したんだ」

「ははあ……」

 殴り合いで決めようという話にならなかっただけマシか、と今朝のカラオケボックスでの出来事を脳裏に浮かべながら、相槌を打った。

「それで最初は予想通りって感じで、議論とは関係ない相手への誹謗中傷ばっかりだったけど、ひょんなことから尊敬する科学者の話題に移って……。二人とも同じ名前を答えたんだよな」

「そこから意気投合が始まった、と」

 宇都宮はこくりと頷いた。「後夜祭が終わったら、亜衣里とメシを食いに行こうって話になってたんだが、この様子じゃあどうなることやら……」

 北条と三浦の和解は喜ばしいことだが、宇都宮には少しだけ同情した。


 校舎に戻り、昇降口に来たところで、小田と彼の弟にばったりと出会った。

「おい、生徒会。大丈夫だったか」小田が驚いた表情で駆け寄ってきた。「会長と副会長から、簡単に話は聞いてたけどよ、お前、相当危ない目に遭ってたんだってな。俺のせいで、本当に悪かった」

 頭を下げる小田に向かって僕は首を振った。「大丈夫、いつもこんな感じだし。慣れっこだよ」

「でもよ……」小田は申し訳なさそうに視線を落とした。

「彼らが僕や小田くんにちょっかい出してくることも、もうないだろうし。終わり良ければ……ってやつだよ。それよりもそっちはどうだった?」

「ああ、あのちょっと変わった女……お前の親戚だよだな、あいつのおかげでクラスの方は何とかなった。それに……」小田は彼にぴったり寄り添っている慎二へ目を向けた。「俺たちもクラスの作業に参加することができた。そうだ、本物はもう片付けちまったけど、写真があるから見るか?」

「是非」と頷くと、小田はズボンのポケットから携帯電話を取り出して、写した画像を見せてくれた。そこには初日に見た精緻なジオラマからはほど遠く、アンバランスでつぎはぎだらけではあったが、確かに未来の都市が蘇っていた。

「これが作業の様子だ」

 画面にはクラスの生徒と来場客が入り混じって、ジオラマを修復していく様子が映し出されていた。他高校の生徒と一緒に部品をくみ上げる生徒たち、設計図を前にして生徒以上に白熱した様子の中年男性たち、紙をハサミで切る子どもたち(小田の弟の姿もあった)、それにクラスの男子生徒と一緒に力を合わせてジオラマを運んでいる小田……、みんな楽しそうに作業しているのが見て取れた。

 僕がひらめき、美羽を通じて提案した内容とは、生徒も来場客も関係なくジオラマを復旧させていくというイベントだった。作り直すには時間も人手も足りない、だったら来場客も含めてもっと人を集めればいい、そしてせっかく人が集まるのなら、それぞれ意見を出し合って思い思いの未来都市に修復していけばいい。美羽の口から出た復興と共同作業いう言葉から思いついたアイデアだ。それから、客を巻き込もうとした理由はもう一つある。実はこっちが本命で、クラス外の人間も参加すれば、小田も輪の中に入りやすくなると思ったのだ。困ったときは戦線拡大、というのは将棋の格言だったか。

 小田が撮った写真を見る限り、美羽は難しい状況を見事にまとめあげ、どちらもうまくいったようだ。ずっと肩にのしかかっていた重りが一つ外れたように、気分が軽くなった。美羽にファミレスや屋台で奢った食事代はこれでチャラにしてやろう。

「おい、小田」

 不意に外からぶっきらぼうな声がした。振り返ると小田のクラスの男子生徒が立っていた。たしか最初に小田に向かって暴言を吐いた生徒だ。

「な、なんだ」緊張した面持ちで小田が返事をした。

 男子生徒が視線をわずかに逸らして、ためらいがちに口を開いた。「これから近くのファミレスでクラスの打ち上げがあるけど、……お前はどうするんだ? 来るのか、来ないのか?」

 小田の目が大きく見開かれる。「行って、いいのか?」

「……い、いろいろ手伝ってくれたからな」

 男子生徒の声はそっけなかったものの、その言葉を聞いた小田の肩がわずかに震えた。

 小田は目を閉じて言った。「お、弟も連れて行っていいか?」

「好きにしろ」と言って、男子生徒は早足で行ってしまった。

「兄ちゃん、どうしたの?」

 両手両足を震わせその場から動かない兄を、弟が心配そうに見上げた。

 僕は中腰になって慎二に視線を合わせた。その瞬間、慎二は「ヒッ」と小さく悲鳴をあげた。少し傷つきながらも、僕は慎二に向かって優しく声を掛けた。

「お兄ちゃんを、さっきの男の人のところに連れて行ってくれないかな?」

 慎二は涙目になりながらも頷くと、小田の袖を引っ張って、彼のふらつくような足取りに合わせ、ゆっくりと玄関へ向かって歩き出した。その姿を見届け、僕は校舎の中に入った。そして、廊下を曲がろうとした時、

「おい」

 と、背後から小田の声がした。振り返ると、玄関前で小田が顔を上げ、赤くなった目でじっと僕のことを見ていた。

「……ありがとな、八川敬悟」

「どういたしまして」

 とだけ言って、僕は歩き出した。


 生徒会室前には美羽が立っていた。窓から差し込む夕陽で、俯き加減に佇む彼女の透き通ったように白い頬が黄金色に照らされて、普段の彼女とは違う、哀愁さを漂わせていた。

 僕の姿に気づいた美羽は顔を上げると、先ほどまでの憂いた表情はすっかり姿を消し、いつもの無邪気な笑みを浮かべ、僕のもとに駆け寄ってきた。

「おじさん、どうだった……って、何か嬉しいことでもあった?」

「どうして突然、そんなことを訊くんだ?」

「だっておじさん、いつもは夜勤明けの作業員みたいにくたびれた顔してるのに、なんだか今は穏やかな感じがしたから」

 ……僕は普段、そんなに疲れた表情をしているのだろうか? まさか子どもに逃げられる原因はそこか?

「特になんでもないよ。……それより、今日は君の両親のおかげで酷い目にあった」

「ははは……」美羽は乾いた声で笑った。

「でも美羽。無茶なお願い聞いてくれてありがとう。さっき小田くんと会って話は聞いたから」

「まっ、あたしにかかればあの程度、どうってことないし」と言って、美羽はVサインを突きつけてきた。

「頼もしい限りだ」

 瑞音も義隆もこれくらい素直に僕の意見を聞いてくれたら苦労はしないのに。

「それよりもおじさん、大ニュース!」美羽が両手を広げて見せた。「さっきお父さんがお母さんに向かって、話があるから生徒会室に来てくれって言ってるのを見たよ。これってもしかして」

「そうだろうね」僕は同意して頷いた。

 個人的には二人を密室に監禁してここ最近の所業について小一時間ほど問い詰めたいところだが、ともあれ仲直りしてくれたので、これも結果オーライだ。そして、僕が後処理に奔走している間に、当初の予告通り、告白をしようという流れになったようだ。

「その二人は?」

「それぞれ用事があって……。でももうすぐ戻ってくると思う」

 噂をすれば、瑞音がこちらに向かって廊下を歩いてくる姿が見えた。僕と美羽はとっさに生徒会室隣の倉庫に隠れた。しばらくして、ガラガラと生徒会室のドアが開閉される音がした。

「美羽、ここで重大な秘密を教えよう」

 僕の改まったような言い草に、美羽も表情を硬くした。

「な、何おじさん。突然」

「倉庫のここ」僕は壁のある部分を指差した。「昔のとある大乱闘の名残でひびが入ってて、この近くに耳を当てると生徒会室の声がよく聞こえる」

「どれどれ」と言いながら、美羽は壁に耳を当てた。「本当だ! お母さん、今くしゃみした」

「これで義隆の告白の言葉を記録するっていう目的は果たせるだろ」

「うん、ありがとう。……って、どこ行くのおじさん?」

 美羽が倉庫から出て行こうとした僕を呼び止めてきた。

「ちょっと……別件を思い出した」

「ええっ! そんな、せっかくだからおじさんも聞こうよ?」

「いや、僕はやめておくよ」

「ちょっと、おじさん!」

 美羽が呼ぶ声を無視して、僕は倉庫を出た。

 直ぐ目の前をちょうど義隆が通りかかるところだった。歩き方がぎこちなかった。緊張しているのが傍目にもわかるほどだ。

「け、敬悟、何やってる。こんなところで?」

 倉庫から突然現れた僕の姿を見て、義隆は体を仰け反らせた。普段ならこれほど驚かないのに、これからのことで頭が一杯なのだろう。

「ちょっと、いろいろあって。じゃあ僕は急ぐから」

 立ち去ろうとする僕の肩を義隆が掴んできた。

「待て敬悟。前に訊きそびれたことがあったんだが……」

「忙しいからまた今度、誰かがカラオケボックスで派手に暴れてくれたせいで、こっちはまだやることがあるんだよ」

「うっ」

 義隆が怯んだ隙に、僕は義隆の手から逃れると、逆に彼の肩を励ますようにポンと叩いてやって、その場をあとにした。


 階段の踊り場にある窓から、暮色に染まりゆく秋空を眺めていると、背後から軽快な足音が近づいてきた。

「あっ、おじさん」息を弾ませながら美羽が言った。「こんなところにいたんだ。用事は終わったの?」

「まあね。それよりもそっちはどうだった?」

「うん、お父さんの告白の言葉、ばっちり記録できた。お父さん、すごく格好良かったよ。あたしもちょっとうるってきちゃった。あんな感動的な告白、言った本人が忘れるなんて、そりゃあお母さんじゃなくても怒るよね」

「そ、そうなんだ……」

 義隆が女性を感動させるような話をするなんて想像もつかなかった。聞かなかったことを少しだけ後悔した。

「……瑞音の答えは?」

 美羽は少し不安そうな表情で首を振った。「すぐには返事をしなかった。ちょっと考えさせてくれって。でも、わたしなんかにそんなこと言ってくれて嬉しい、とは言っていたよ」

 即断即決が信条の瑞音らしくない返答だな、とは思った。まあ予算配分を決める問題とは質が違うのだろう。

「それで二人は?」

「今日はいろいろあって疲れたから、後夜祭の片づけはおじさんに任せて、帰るかって言ってたよ」

「何!」

 慌てて携帯を取り出して確認する。瑞音からメッセージが届いていることに気づかなかった。タイトルはなく本文には『あとはよろしく』とだけ書かれていた。

「疲れてるのはこっちだぞ!」

 と、思わず悪態をついた。

「おじさん、相変わらず頼られてるねえ」

 美羽はにやりと笑みを浮かべた。

「使い勝手のいい雑用、だと思っているだけだろ。なにせ僕は瑞音の下僕らしいから」

「そんなことないって。お父さんもお母さんも、おじさんのこととっても信用して、いつも頼りにしてるって、あたしには言ってるから」

「その言葉を、是非とも本人たちから直接聞きたいね」

「どっちも、面と向かって言うのが恥ずかしいからでしょ」

 僕は頭を振った。「まあ、しようがない。そろそろ後夜祭も終わるし、片付けに行くか」

 そう言って、階段を降りようとした時、

「ねえ……、おじさん」

 美羽がためらいがちに声を掛けてきた。しかしすぐに続きはなく、しばらく躊躇ったような間があった。

 遠くで、生徒たちの笑い声が響いてきた。

 やがて、何かを決意したように、はっきりとした声で美羽は言った。

「おじさんは、……お母さんのこと好きなの?」

 危うく階段から転げ落ちるところだった。

「な、何を突然言い出すんだ。死ぬかと思ったぞ!」

 手摺につかまり、激しく高鳴る胸を押さえながら、僕は美羽に向かって叫んだ。

「どうなの、おじさん?」

 僕の文句を無視して、美羽は繰り返した。踊り場から僕の顔を見下ろす彼女の瞳には、怒った時の瑞音を前にしたときに感じるような威圧さがあった。

「どう、と言われても……」

 彼女の視線に耐えきれず、僕はさっと目を伏せた。

「本当のことを言って」美羽はまだ食いついてくる。

「……瑞音のことは自分勝手でわがままなところもあるけど、大切な親友だとは思っているよ」

「おじさんの嘘吐き!」美羽が普段の彼女からは想像もつかない怒鳴り声で言った。「いつもいつも、話をはぐらかして……。どうしておじさんは自分に嘘を吐いてばっかりなの? 本当はお母さんのことを好き……男女の関係として好きだと思ってるくせに」

「……」

 妙なところで勘が鋭いのは親譲りだな、と思った。

 僕は一回深呼吸すると、美羽に向かって冷たく突き放すように言ってやった。

「……僕の本心を、義隆と瑞音の子どもの美羽が知ってどうするつもり?」

「そ、それは……」と、言い淀む美羽に、畳み掛けるように続けた。

「もし美羽が考えた通りのことを僕が瑞音に対して抱いていたとしても、それは美羽には関係ない話だろ」

「か、関係なくなんかないし」美羽は駄々っ子のように、何度も首を振りツインテールを左右に揺らした。

「じゃあ、どんな関係があると?」

「……」美羽は唇を噛んだだけで、答えは返ってこなかった。

 ちょっと言い過ぎたかな、と後悔して、僕は声のトーンを落とした。「別に僕は嘘なんてついていない。別の選択肢を選んだだけだよ」

「選択肢?」

「そりゃあもちろん。僕と瑞音や義隆の関係が、美羽が暮らす時代まで続くことを、さ」

 中学時代から、瑞音や義隆の二人に振り回され続けてきた。もう付き合ってられるか! と思うことなど数限りない。でも僕は二人と一緒にいる。二人の言動に不安を感じ、被害が広がって自分の平穏を脅かされないようにするため、という理由は今も昔も変わっていないが、それ以上に、やっぱり瑞音と義隆のことが、僕の人生を賭してもいいと思えるくらいに大好きなのだ。今となっては、二人の居ない人生なんて考えられない。

 これを友人依存症だと言われても構わない。

 だから初めて美羽と出会って未来の話を聞かされた時、心の奥底では大喜びしていた。これからもずっとあいつらと一緒にいられることに。

「だから、僕は今の状況をとてもうれしく思っているんだ」

 さざ波一つ立たない湖のように心はとても穏やかだ、と言えばたしかに嘘になる。感情は完璧に制御しきれるものではない。それでも僕は彼らを助けて、いつまでも親友でいたいということを選んだのだ。

「おじさん……」美羽はぎゅっと僕の腕を握りしめ、泣きそうな声で言った。「その生き方、すごく辛くない?」

「時々……いやしょっちゅうそう思うね」

 と、軽口を叩くように言ってやった。これからも数限りないほどの文句と不満を口にするだろうが、後悔するつもりはない。

 すると、美羽はクスリと笑った。「その面倒臭さ、本当におじさんらしい」

「そりゃ、どうも」

「よしわかった!」美羽は突然何かひらめいたかのようにパチンと大きく手を叩いた。「じゃあ、あたしが大人になってもまだおじさんが独身だったら、あたしが婿に貰ってあげてもいいよ」

「ぶっ!」危うく美羽の顔に吹き出した唾が当たるところだった。「唐突に変な冗談を……」

「冗談じゃないよ。おじさんがお母さんたちを心配するように、あたしたちだっておじさんのことが心配だし。……それに」美羽の頬が夕焼けのように赤くなった。「あたし、おじさんのことが大好きだから」

 地面がぐらりと揺れたような気がした。とっさに両手で手摺に捕まった。

「……えっと。そ、それは本気……?」

「だからあと数年我慢してね」と言って、美羽は笑ってウィンクした。

「す、数年……」

 危うくまた美羽の冗談に惑わされるところだった。彼女にとっては数年かもしれないが、僕にとってはまだ三十年近く先の話で、そして、美羽の婿になるということは必然的に義隆と瑞音を義父、義母と呼ぶことに……。

「出来ることなら、お互い避けたい未来だね……」

 苦笑いしながら、僕は言い返してやった。

「だったら頑張って。あたしは過去を変えるつもりはないけど、おじさんにはこれからの未来を変える権利はあるんだから」

「それはどういう意味……?」

「だってお母さんももしかして……」と、言い掛けたところで美羽は首を振った。「ううん、なんでもない。特に深い意味なんてないから。でも気をつけて、あたしが言うのもなんだけど、未来なんて案外あっという間に来ちゃうよ」

 そう言って、美羽はくるりと僕から背を向け、踊り場の窓から一番星が輝き始めた夜空を見上げる。

「それじゃあ、そろそろあたし行くね」

 僕ははっとして、顔を上げた。

「行くって……、そうか、もう目的は遂げたのか」

 未来でまた会えるということは頭の中でわかっていても、いざ別れの時だと告げられると、急に寂しい気持ちが湧いてきた。

「そういうこと。おじさん、色々お世話になりました」

 と、背中を向けたまま、美羽が言った。

 湿っぽいのは苦手だ。僕は胸に感じる鈍い痛みを堪えつつ、努めて明るい声で言った。

「こちらこそ。……じゃあ、未来でまた会おう」

 美羽は俯いたままこちらに振り向き、階段を降り始めた。

 そして僕の横を通り過ぎる直前に、彼女は付け足すように、しかし、今まで聞いたことがないほど真剣な声で言った。

「……あたしは、両親のことも歳の差も気にしないから」

「美羽!」

 叫びながら振り返ったが、そこにはもう、彼女の姿はなかった。

 僕はしばらく誰もいない廊下を見ていたが、やがて肩を落とし、「はあぁぁ……」と、特大の溜息をついた。

 ……どうやら深く考えていなかったのは、僕の方だったようだ。彼女の想いに答えるのは二十五年後、というわけか。

 何だか無性に可笑しく思えてきて、とうとう堪えきれず、腹の底から声が枯れるまで、僕は笑い続けた。

最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました。

色々突っ込みたいところがあるかと思いますが、もし、良くも悪くも何か感じるところがありましたら、忌憚のない評価、感想を残していただければ幸いです。

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