4-2
翌日、ついに文化祭が始まった。
初日の天気は雲一つない快晴だった。文化祭の方もこの澄んだ青空のように大過なくすっきりと終わってくれればいいものの、そうは問屋が卸さない。
最初の問題は早速開会式で起こった。佐竹が立てたプランでは、継母の仮装をした校長のあとに、瑞音と義隆と僕がそれぞれ、シンデレラ、王子様、魔法使いの姿で開会宣言をするはずだったのだが、冷戦状態にある瑞音と義隆が一緒の舞台に立つなんてことはありえない。会長、副会長としての役目を果たしてくれ、と佐竹と一緒に頼んだのだが、どちらも嫌だの一点張りだった。
「ど、どうしましょう、先輩!」
「どうしましょうって言われても、あの二人を説得するのは校長先生でも無理だし。やっぱり普通のプランに戻さないか?」
「それは駄目です、せっかく用意したんですから」佐竹がきっぱりと言った。「じゃあこうしましょう、先輩。自分と先輩の二人が仮装して出るんです」
「しょ、正気か? 佐竹くん、落ち着こう。冷静になれ」
「自分は至って冷静で正気です」と言った佐竹の目は血走っていた。「少なくともここでシンデレラと王子が出てこないと、僕の演出は破綻です。この際、先輩がシンデレラになれば……」
全てを失ってでも自らのプランにこだわる、これが演出家魂というやつだろうか。しかしこのプランにこだわった結果、今年の開会式が過去例を見ない惨劇として未来永劫語られることは目に見えている。
「先輩は猫背が少し気になりますが、体も細いですし……、なんとかなるかと」
「待て待て、話を勝手に進めるな。それに猫背は余計だ」
などとやっていると、
「おじさん、ちっす」
さも当然のように、部外者である美羽が体育館の袖にやってきた。すっかり学校に溶け込んでやがる。
「ん、どうしたの?」
美羽は僕と佐竹の顔を交互に見た。その刹那、正山高校が誇る稀代の演出家の脳天を稲妻が貫いたようだ。興奮した様子で佐竹が美羽に駆け寄る。すぐさま僕は佐竹の意図を察して、彼の肩を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待て」
しかし佐竹は先輩の手を容赦なく振り払うと、更に美羽に顔を近づけた。その姿が一瞬、都会を歩く女の子に声を掛ける芸能スカウトのように見えた。
「ね、ね、君……先輩の親戚だよね。ちょっとシンデレラになってみない?」
もちろん比喩ではなく、そのままの意味だ。
「シンデレラ? いいよ」
美羽は仔細を訊ねようともせず、あっさり許諾した。
「おい、美羽」
「いいじゃん、なんだが面白そうだし」美羽は無邪気に言った。
「よし、じゃあこっちに来て」
鼻息荒い佐竹に連れられて、美羽は体育館奥の控え室に行ってしまった。将来悪い男にひっかからないだろうかと心配しつつ、僕もあとに続いた。
しかしこれで、僕がシンデレラの格好をして登場するという破滅的な開会式は回避され、美羽がシンデレラ、佐竹が魔法使い、それに僕が王子様に扮して、瑞音たちの代わりに開会宣言を行った。ここで驚くべきことは美羽の豪胆さだった。突然千人近い全校生徒の前に連れ出されたにもかかわらず、全く動じることなく堂々と宣言文を読み上げてみせたのだ。瑞音サイズで用意した衣装だったため、体のラインがはっきりとわかり、かなりのミニスカートになってしまったドレス姿と相まって、嵐のような大絶賛が(男子どもから)沸き起こった。
こうして、開会式はなんとか乗りきったものの、文化祭は始まったばかりだ。開会式直後、早速次なる問題が持ち込まれてきた。
「……迷子です」
文化祭実行委員の女子生徒が六歳くらいの男の子を連れて、祭本部でもある生徒会室にやってきた。その報告を受けた瞬間、僕は力が抜けて机に突っ伏した。開始一時間も経たずに迷子発生なんてどういうことだよ!
「この子の名前は?」
「それが全然答えてくれなくて、ここに連れてくるだけで精一杯」
気力を振り絞って席から立ち上がると、男の子の前に歩み寄り、彼に視線を合わせるようしゃがみこんだ。
「君、お名前は?」
豆腐を触るかのように優しく丁寧に声を掛けたつもりだ。しかし次の瞬間、男の子は、
「うわーん!」
と、盛大に泣き出した! 目から大粒の涙が溢れ、鼻水まで垂らして。
「ご、ごめん。驚かせちゃった?」 男の子を落ち着かせようと、肩に手を伸ばす。「……痛!」
今度は手の甲を思いっきり引っ掻かれた。
うーん、どうしたらいいんだ? と、男の子を連れてきた女子生徒と二人で途方に暮れていると、
「おいどうした、子どもの泣き声がするぞ」
と言いながら、義隆が生徒会室に入ってきた。
「義隆、何してたんだよ」僕は義隆に詰め寄った。
「何って?」義隆は目を瞬かせながら答えた。「これから俺が巡回当番だろ、だからここに来たんだが」
「そうじゃなくて、開会式……」
義隆は僕の非難を無視して訊いてきた。「それより、その子は?」
「えっと……その、迷子です」
歯ぎしりしている僕の代わりに女子生徒が答えると、いつもの女性恐怖症が発症したらしい、急に義隆の体が強張った。
「そ……、そう、か……。な、名前……は?」
「それが、教えてくれなくて」
「よし」と言って、義隆は女子生徒が立っているところを大きく迂回して、僕に背を向けて、涙目の男の子の前にしゃがみこんだ。
「坊主、名前は?」
熊のような義隆を前にして、男の子は更に泣き出すんじゃないかと思いきや、ピタリと泣き止んだ。その上、顔を上げると、「ゆきひと」と呟いた。
「そうか、ゆきひとか。名字も言えるか?」
と言って、義隆は男の子の頭を軽くポンポンと叩いた。すると、男の子は嬉しそうにニコリと笑った。
「えっと……、にらさき」
放送部にお願いして迷子の放送を流してもらうと、我がクラスの担任であり、男の子の父親でもある韮崎がすぐに生徒会室にやってきた。
「いやあ、悪い悪い。助かったよ」韮崎は愛想笑いを浮かべ、後頭部をさすりながら言った。「たまには、と思って子どもを連れてきたんだが、目を離しているすきに見失ってしまったんだ」
「てか、あんた、結婚してたのかよ」
義隆が韮崎と男の子の顔を交互に見つめた。
「おいおい、先生だってこう見えて三十も半ばだ、妻も子どももいるさ」
こう見えて、と言うのは自分が普段若く見られていると思っているのだろうか?
「それにしてもすまなかったな。さ、幸仁、お兄さんお姉さんたちにお礼を言いなさい」
韮崎が促すと、男の子は義隆に向かってぺこりと頭を下げると、韮崎と一緒に生徒会室を出て行った。
「さすが副会長さん。子どもの扱いがお上手ですね」
女子生徒が義隆を賞賛した。
「べ……べつに、た、た、たいしたことねえよ」照れたような表情で義隆が言った。
「でも、義隆の顔なんか見たら、普通に泣きそうなものだけど?」
「俺をナマハゲみたいに言うな。まあガキの扱いには慣れてるからな。俺んち大家族だろ、弟妹どものしつけは俺の役割だったし」
「そんなものかね」
妹がいる僕にとって、兄だからという理由では到底納得いかないが、今はこれ以上追求するつもりはなかった。
「じゃ、俺、巡回行ってくるぞ」
と言って、部屋を出ようとする義隆を呼び止めた。
「義隆、ちょっと」
「何だ?」
義隆は顔だけこちらに向けてきた。
「そろそろ瑞音と……」
義隆は話を最後まで聞かず、部屋を出て行ってしまった。
「はぁ」と、ため息をついた。瑞音との仲直りはまだまだ時間がかかりそうだ。
昼過ぎに校内巡回の順番が回ってきたので、僕は生徒会室を出た。校内で問題が発生していないかを歩きながら確認する、というのは建前で、仕事に追われる実行委員が文化祭の出し物を見る時間である。
まずは生徒会室からも近い、文芸部の恋愛相談室に寄った。
「おお、我が同志よ。よく来てくれた」
教室に入るなり、太田から手厚い歓迎を受けた。
「僕は文芸部に入ったわけでも、君と義兄弟の契りを交わしたわけでもないんだけど。調子はどう?」
「うむ、見ての通りだ」
ギリシア神話に始まり、源氏物語、シェークスピア、果ては最近のラブコメ系ラノベまでがずらりと陳列された教室には、僕と太田しかいなかった。
「そう、じゃあ頑張って」
と言い残し、立ち去ろうとする僕の襟を太田が掴んできた。
「待て、八川。せっかく来たんだ。何か相談していけ。でないと、これら文献を徹底的に読み込み、方々に嫌な顔をされながら取材を続けた俺の立場がない」
「そんなこと言われても」
「どんな些細なことでもいいんだ。俺に実績を作らせてくれ。秘密は絶対に守るから」
お前は親類に契約を勧める保険のセールスマンか、と心の中で突っ込んだが、予想通りの惨敗状況に少しだけ同情した僕は、太田の相手をしてやることにした。
「僕のことじゃなくてもいい?」
「もちろんだ、むしろ八川に恋愛の悩みがあったら、俺は窓から身を投げ出す。……って、待て冗談だ。行かないでくれ」
部屋を出かかった僕の肩を太田がグッと掴んだ。
「一言多いんだよ、君は」うんざりした気分になりつつも、僕は太田に向き直った。「そうだなあ、男二人、女一人の仲良し三人組がいて、男のうちの一人、Aと呼ぼうか、Aが女に告白しようと考えた」
「ほう」太田が興味深そうに目を見開いた。
「ところがその直前に、Aと女が大ゲンカ。二人の仲が一気に険悪になってしまって、その時、もう一人の男Bはどうすべきか?」
「なるほど、いかにもな展開だな。もちろんその時のBの気持ち次第だ」
「それじゃあ、答えになってないよ」
はなからまともな答えなど期待してなかったが、これは酷い。
「しようがないだろ、八川の説明が簡潔過ぎるんだ。情報が少ない」と、太田はもっともな反論をした。「ちなみにこれ、誰の話だ?」
「僕の知り合い」
「だったら、こちらで推察するしかないな。もしBが三人の友情を優先するなら、なんとか二人の仲を取り持って、Aに告白させるだろうな」
「二人が恋人同士になったら、Bと疎遠になったりしないかな?」
「そりゃ、友人依存症だな」太田がきっぱりと言った。
「友人依存症?」
「普通なら、たとえAと女の間で恋愛の優先度が高まって、Bと一緒にいる時間が減ったとしても、Bにも三人の友情より優先されるものがあれば、関係の変化を受け入れられるし、新しい関係でそれなりに仲良くやっていけるものだ、と俺は思う。でも、Bが三人の友人関係こそ世界の全てだと思っているのなら、確かに喧嘩別れになることも、二人が告白することも世界の崩壊を意味する。あまり良い状況とは思えない。だから、Bがそういう状況なら、新しい趣味でも見つけろ、と言ってやりたいね。……って、どうした八川、目を点にして?」
「あっいや、太田のくせにまともなことを言っているなあって」
「くせに、とはどういう意味だ」太田は一瞬目を吊り上げたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。「しかしこれはあくまでノーマルエンドの話、我が恋愛相談室の真髄はここからだ。続いてはトゥルーエンドの解放条件となる修羅場ルート!」
「しゅ、修羅場ルート!」
不穏な単語に、背筋がひやりとした。
「ああ、もしBの気持ちが……」
太田が言いかけたところで、携帯が震えた。届いたメッセージを確認すると、佐竹から『体育館に来てください』とあった。
嫌な予感しかしない呼び出しだ。しかし、行かねばなるまい。
「ごめん、話の途中だけど、呼び出しを受けた」
「なんだ、ここからが面白くなるのに」と、太田は心底残念そうに言った。
「また今度聞かせてもらうよ」
僕は文芸部の部室をあとにした。
朝、開会式が行われた体育館にやってくると、ここは有名なパンケーキ屋か? と思わせるような、すごい人だかりが出来ていた。スケジュール表を確認する。今は演劇部の公演の時間だ。演劇部は県大会出場常連の実力を誇っているが、だからと言って立ち見が出るほど盛況するだろうか。
「あっ、先輩」佐竹が近づいてきた。「ごめんなさい、突然呼び出して。会長と副会長にも連絡しようとしたんですが、つながらなくて」
「……」
あいつらどこで何してるんだ? 瑞音は今日一度も見ていないし、義隆も午前中の巡回当番が終わったら姿を消した。そのせいで、面倒ごとが全部僕に振られる。まあそれはいつものことか。
「えっと、この行列、何があったの? 演劇部公演の立ち見?」
体育館の入り口を指差して訊いた。
「違います」佐竹は首を振った。「演劇部の今年の演目は、『もし現代に甦った織田信長がピケティの21世紀の資本を読んだら』ってやつなんですが、半分以上の人が寝てました」
「ああ、そう。……じゃあこの人だかりは?」
「それが、今日最後にある、文化祭実行委員企画の映画監督の講演会目当てなんです」
「本当に?」スケジュール表を広げるが、講演会の時間まで二時間以上ある。「そんなに有名な映画監督だったっけ?」
席の半分でも埋まれば御の字かなと思っていたのに、すでにそれを大きく上回る人数が集まっているように見えた。
「えっと、どうやら昨日、その監督の作品が海外の映画賞にノミネートされたらしくて」
「なんてこった!」と叫びながら頭を抱える。どうしてよりにもよって今この時に、そんな名誉を授かるかな。こちらの身にもなってほしい。
などとやっているうちに、人はどんどん集まってくる。
「このままだと大混乱です。どうしましょう先輩。あれだけ人がいたら他の出し物に支障をきたします」
佐竹は悲壮な様子で言った。開会式にしろ講演会にしろ、担当事案で次々問題が発生するこの男も、僕ほどとは言わないまでも運のない奴だ。
「しようがない、どこかに待機列を作って、そこに並ばせよう」
手の空いている実行委員も呼び出して、体育館の隅に講演会待機列の場所を急いで確保し、案内用の張り紙をこしらえた。
「これで一安心」
講演会目当ての人たちを誘導し終わり、ほっと息をつく。
「助かりました」佐竹が頭を下げた。
「まあ、たいしたことないよ」
「でもこんな調子じゃあ……、来年の文化祭、会長や副会長がいなくなったら、自分たちだけでちゃんと運営できるか心配です」
どうしてここで、瑞音や義隆の名が一番に出てくるんだ? と少し悲しくなった。だから少々皮肉を込めて佐竹に言ってやった。
「大丈夫だよ、つまりトラブルメーカーたちがいなくなるわけだから」
佐竹は大きく首を捻った。伝わらなかったようだ。
巡回を再開するとすぐに、香ばしい匂いが漂ってきた。屋台系の出し物が中庭に集められているから、出処はそこだろう。
まだ昼食を取っていないことを思い出した。自然と足がそちらへ向かう。
屋台エリアの中心で柔道部が鉄板焼きをやっていた。真新しい鉄板の上で焼きそばとお好み焼きがじゅうじゅうと食欲をそそる音を立てている。
しかしこれを見ていると、無性に腹が立ってきた。
この鉄板こそ、瑞音と義隆の亀裂を生んだ原因の一つなのだ。ちゃんと処理できなかった僕が悪い、と頭ではわかっているのだけど、できることならこの鉄板を叩き割ってやりたい。
そんな黒い感情で鉄板を睨みつけているとは思いもしない柔道部員が気さくに声を掛けてきた。
「一つ食ってけや。旨いぞ」
「あっ、うん……。でも、またにするよ」
と、辞退しかけた時、元気な女の子の声がした。
「あたし焼きそば!」
僕の隣には、いつの間にか美羽がいた。神出鬼没だな、こいつは。
「あっ、君、開会式でミニスカシンデレラやってた……、良いもん拝ませてもらったから、おまけしてやるぜ」
パックから溢れるほどの山盛り焼きそばが差し出された。
「ありがとー」美羽がにこにこ笑ってパックを両手で受け取る。
「お代は三百円だ」
ツンツンと美羽は肘で僕の脇を突いてきた。「おじさん、三百円だって」
「えっ? なんで僕が」
「おじさんだって、お腹空いてるんでしょ。一緒に食べよ」
「……」
歯ぎしりしながら、財布を取り出し、代金を柔道部員に渡した。さっきまで愛想の良かった部員は、狛犬のように歯をむき出しにして「まいどあり」ととげとげしい口調で言い、ひったくるように僕の手からお金をもぎ取っていった。
僕何か悪いことしました? と首を傾げていると、美羽が僕の腕を引っ張った。
「あっちで食べよ」
「僕、巡回の途中なんだけど」
「気にしない、気にしない」
と言って、美羽は歩き出した。
それから美羽に言われるがまま屋台エリアで、たこ焼きやら鯛焼きなども買わされた。
「どんだけ、食うつもりだよ!」
料理を両手に持たされ僕は、美羽に文句を垂れる。
「いいじゃない。せっかく天気も良いし、グラウンドで食べよ」
そのまま美羽に連れられ、グラウンドに出た。グラウンドの脇に並ぶベンチや芝生で、僕たちと同じように、屋台エリアで買ってきた料理を並べている集団が幾つもあった。
空いていたベンチに座って、買ってきた料理を広げた。
美羽は早速、割り箸で焼きそばを掴み上げた。
「ささ、遠慮せずにおじさんも食べてよ」
「払ったのは全部僕なんだけど……」
と言いながら、爪楊枝をたこ焼きに突き刺した。
「おっ、意外といけるじゃん、この焼きそば」
と言いつつ、美羽は瞬く間に焼きそばを半分以上平らげてしまった。
「……随分と楽しそうなことで」
「うん、楽しいよ」
美羽がくるりとこちらへ振り向いて、屈託のない笑みを浮かべたものだから、不覚にもどきりと胸が高鳴ってしまった。
「だって、こういう文化祭って初めてだし」
「自分がここに来た理由、……覚えてるよね?」
美羽の笑顔に僅かに陰が差した。「わかってるって。……でも少しぐらいいいじゃない」
「少しくらいって……」
僕は思わず苦笑した。ほとんど、遊んでいるか僕の邪魔をしているかのどちらかじゃないか、と付け足そうとした時、グラウンドの方から大きな叫び声がした。
「やろうっていうのか、面白れえ!」「そっちがその気なら、受けて立ってやるぜ」
グラウンドへ目をやると、クレーターの被害を免れた残り半分の空間に、サッカー部員と野球部員の姿が見えた。彼らはそれぞれ一列に並び、向かい合っていた。
そして唐突に、乱闘が始まった。
「!」
僕はすぐさま乱闘の中心に向かって駆け出した。
「今すぐやめろ!」
声を張り上げたが、乱闘は収まらない。邪魔だと言われて張り倒される始末だった。
「な、なんでこんなことになってるの?」
あとから付いてきた美羽が目を丸くしていた。
「わかんないよ、こんなところを先生に見られたら大変だ。早くなんとかしないと」
グラウンドで弁当を広げていた人たちも乱闘に気づき、騒ぎ始めていた。
「やめろ!」と、もう一度声を張り上げても、やはり誰も止まらない。
「やめなさい! こんなことしてると、文化祭中止になっちゃうよ!」
今度は美羽が甲高い声で叫んだ。するとどうしたことだろう、今度は全員の動きがぴたりと止まった。
「えっえっ?」
目の前の光景にしばらく唖然としていたが、今がチャンスと気づき、集団の中心でお互いの肩を掴んだまま止まっていたサッカー部と野球部の部長の所に駆け寄った。
「ちょっと二人とも。何やってるの?」
「お、お前は」「生徒会の人」
僕に気づいた両部長は、目を瞬かせた。
「何が原因で乱闘が始まったの?」
「いや、別に俺たちは乱闘なんてするつもりは、……なあ?」
野球部部長の言葉に、「ああ」とサッカー部部長が同意するように頷いた。
「そもそもグラウンドの使用は、今日がサッカー部で、明日が野球部のはずでしょ」
野球部とサッカー部が揉めたグラウンドの使用権について、僕は時間を区切って使うことを提案した。調整には少々時間がかかったが、両部は最終的に同意してくれた。
「そうだったんだけどな、今日になって、どうせなら合同で何かやったらどうかって言われて」と、野球部部長。
「誰から?」
「「あいつに」」
野球部部長とサッカー部部長がお互い正反対の方向を指差した。野球部部長が指し示す先には瑞音が、サッカー部部長が指し示す先には義隆がいた。二人とも腕を組んで無言でグラウンドの様子を見つめていた。
「なんであの二人が!」
「知らねえよ。……ただ悪くない提案だと思ったから、それじゃあスポーツ大会でもしようかって話になって、会長、副会長のアドバイスを受けながら、ルールとか決めようとしてたら……」
サッカー部部長のあとを受けて、野球部部長が口を開いた。「ハンデをどうするかって話で、突然会長と副会長が怒鳴り合いを始めて、気付いたら俺たちも乱闘してたんだ」
「はあぁ……」僕は頭を抱え、ため息をついた。「なるほど、大体話はわかった。少なくとも今日はこのまま続けさせられないから解散して。スポーツ大会は明日改めてってことで」
「「……わかった」」
両部長は悔しそうな表情を浮かべながらも素直に従ってくれて、それぞれの部員を引き連れて部室棟の方へ去っていった。
「おじさん、どういうこと?」
と、僕たちの話をずっと聞いていた美羽が訊いてきた。
「どうもこうも、あいつら、瑞音たちの怒りの感情に感化させられたんだろ。でもこれじゃあカリスマを超えて洗脳だ」
「うへえ、お母さんもお父さんも凄いなあ」
「感心してる場合じゃないよ。早く二人を仲直りさせないと、もっと被害が増えるかも」
辺りを見渡したが、瑞音と義隆の姿はもう見えなかった。
美羽と手分けして二人を探すことにして、僕は校舎に戻ってきた。
それぞれの教室では、カフェやお化け屋敷、自作映画発表など定番なものから、学校や社会問題に関する討論会や科学部の成果報告など少々お堅いもの、着ぐるみを着た演奏会や大富豪体験会(教室に札束と金塊のレプリカが敷き詰められていた)などウケを狙ったものなど、様々な出し物が催されていた。どこもかしこも大盛況だ。
廊下を歩いていると、同じく巡回中の文化祭実行委員の男子生徒と出会ったので、声を掛ける。
「どこもかしこも、凄い人だね」
「さっき午前中の来場者数の速報が出てて、過去最高の大入りだそうですよ。もうすぐ始まる、映画監督の講演会のせいだと思いますけど」
「ああ、あれね」
いったい行列はどこまで長くなっているのだろう? あとで様子を見に行った方がいいかもしれない。
「ねえ、瑞音と義隆を見なかった?」
「会長と副会長ですか? いいえ」男子生徒は首を振る。
「そう……」
あの二人、どこへ行ってしまったんだ?
「ところで、あれ見てください」と言って、男子生徒が窓の外を指差した。「あいつら、さっきからずっと校門の前にいるんですけど、なんでしょうね?」
窓から覗くと、正門の脇に他校の制服を着た四人組の姿が見えた。ここからだと、さすがに顔まではわからない。
「たぶん、待ち合わせか何かじゃない。問題さえ起こらなけりゃ、何でもいいよ」
と言って、男子生徒と別れた。
階段を登り、三年生の教室が並ぶ廊下に来た。せっかくなので、小田の教室を見に行くことにした。
大勢の人でごった返す廊下を苦労して進み、目的の教室に辿り着いた。そこではたくさんの観客が興味深そうに、室内に置かれた様々な近未来的なオブジェを携帯カメラで写真に収めていた。
「おい、生徒会」
横から声を掛けられ、振り向くと小田が立っていた。
「どうも……、八川です」と、軽く頭を下げる。「これが小田くんのクラスの出し物かあ。作りかけのは見たけど、改めて見ると凄いね」
小田のクラスが展示している、未来都市のジオラマは、写真に撮りたくなるのも納得する出来栄えで、今回の文化祭の中でもかなりの秀作だろう。
「小田くんが担当したのはどこ?」
と訊ねると、小田は困った表情でしばらく逡巡したあと、顎で小さくしゃくった。「あれだ」
小田が示した巨大なタワー型オブジェの隣、そこには親指程度の車の模型があった。塗装こそムラが見られたものの、それでも努力の成果がわかる立派な作品だった。
「凄い、よくこんな細かい部品を作ったね。格好良いよ」
「やめろ、恥ずかしい」
と、小田は苦々しそうな声で言ったが、口元は微かに笑っているように見えた。
「ん?」
ここで初めて、小田のうしろに小学生中学年くらいの男の子がいることに気づいた。
「ああ、前に話してた俺の弟、慎二だ」
慎二は隠れるように兄の背中にしがみ付いて、半分だけ顔を覗かせていた。
「人が多くて、緊張しているみたいだな」
僕は慎二に向かって軽く手を振ってみせた。すると慎二は突然涙目になって、さっと顔を背中に隠してしまった。別に子どもに好かれたいわけじゃないけど、ここまで嫌われるとさすがに心が折れそうになる。
僕はゆっくりと、慎二から距離を取った。
「……じゃ、じゃあ、弟くんと文化祭を楽しんで」
そう言って、教室を出ようとしたら、小田が呼び止めた。
「ああ、待て。……そのなんだ、会長と副会長に会ったら、礼を言っておいてくれないか。あいつらが俺に声を掛けてきてくれたから、胸を張って弟を文化祭に呼ぶことができた」
小田は照れを隠すように、視線を落とした。
ここでも瑞音と義隆の持ち上げられるのか。まあ小田の件に関しては、それが正しい気もするが。
「わかった、伝えておくよ」
と言って、僕は教室をあとにした。
再び人波を掻き分け、階段まで戻ってきたところで携帯が鳴った。佐竹からだ。
『先輩、助けてください。会長にも副会長にもまだ連絡が取れなくて。今こっちは、とんでもないことになってるんです』
半泣きの佐竹の声の背後から、大勢の人間の騒ぎ立てる声が聞こえてきた。並々ならぬ状況だと悟った僕は、直ちに体育館へ向かった。
件の講演会の入場が始まっていたが、入場待機列の状況が凄まじいことになっていた。同人誌即売会を思わせるような行列にまで発達していたのだ。
「これは……」
あまりの光景に唖然としていると、行列の後ろの方から、誰かが「おい、ふざけるな!」と叫ぶ声が聞こえてきた。行ってみると、大勢の人たちが憤怒の表情を浮かべ、佐竹を取り囲んでいた。
「ど、どうしたの」
佐竹のもとに近寄ると、中年男性が大声で叫んだ。
「おい、お前が責任者か?」
「えっ、僕? そうであるような、そうでないような……」
文化祭を実質的に取り仕切っているのは僕だが、責任者はあくまで生徒会長である瑞音だ。しかしそんな事情、この男性が知るわけがない。
「なんだよ、はっきりしろよ!」と、怒りを助長してしまった。
「えっと、佐竹くん。事情を教えてくれない?」僕は佐竹に急いで事情を確認した。
「それが、講演会の入場を開始したんですけど、とても体育館に入りきらなくて。事前にもう入れないかもって、並ぶ人には伝えておいたんですが」
「長時間待たせて、入れないってどういうことよ!」大学生ぐらいの女性が文句を言った。
「立ち見は?」と、佐竹に訊いたが、彼は首を振った。「もうそっちも一杯で」
たかが映画賞一つで踊らされやがって、と内心毒吐きながらも、こちらとしてはもう手がないので、頭を下げるしかない。
「すいませんでした」
「なにがすいませんでしたよ!」「ふざけるな!」「貴重な時間を返せ!」
一斉に罵詈雑言が飛んできた。
「申し訳ありません」
結局、僕たちは講演会が終わるまで頭を下げ続けた。




