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3-2

「ようこそ生徒会へ、わたしはあなたを歓迎します」

 応接ソファーのお誕生日席に座った瑞音が澄ました表情で言った。彼女の視線の先には、今しがた意識を取り戻したばかりの小田がいた。

「お、俺は一体……?」

 状況が飲み込めていない様子で、しきりにあたりをきょろきょろと見回していた。

 たしかに小田を生徒会室に連れてくる事には成功した。しかし何が漢と漢の魂のぶつかり合いだ、これじゃあただの拉致だ! しかもすでに昼休みの時間は終わっている。僕らは午後の授業をすっぽかして、小田を監禁しているのだ。僕は内心ヒヤヒヤしていたが、瑞音も義隆も全く気にする素振りはなかった。

「あなたがオンボロ倉庫の隅で倒れているのを、義くんと敬くんがたまたま見つけて、ここまで連れてきたのよ」

 瑞音が表情一つ変えず、大嘘を言ってのけた。

「そ、そうだったのか……。倉庫で昼メシを食おうとしたところまでは覚えてんだが」

 幸運(?)なことに義隆の強烈なボディーブローで直前の記憶が吹っ飛んでしまったらしい、小田は素直に瑞音の言葉を受け入れていた。

 瑞音はテーブルに置いてあった小田の昼食を拾い上げた。「お昼ご飯……ねえ。菓子パン一つに炭酸飲料。育ち盛りの男子高校生としては、ちょっと少ないような気もするけど?」

 小田は視線を下に向けた。「……お前らには、関係ないだろ」

「大ありよ。わたしたちは生徒会。困っている生徒がいたら手を差し伸べないと」

「誰も困っちゃいねえよ。俺に構うな!」

 小田は突然ソファーから立ち上がると、敵意剥き出しの表情で瑞音を見下ろした。

「まあまあ、落ち着いてよ」

 と言った僕を、小田がキッと睨みつけてきた。そのおっかない表情に足がすくんだ。

 小田は「フンッ」と鼻を鳴らすと、そのまま出口に向かって歩き出した。そうはさせまいと、小田の行く手を義隆が立ち塞がる。悪役プロレスラーの肖像のように、両腕を組んで仁王立ちする義隆を前にして、今度は小田が表情を引きつらせた。

「な、なんだよ、てめえ」

「座れ」

 義隆が低い声で言うと、小田は小さく舌打ちしたが、大人しく従って、ソファーに座り直した。

 小田は自身の威勢を取り戻そうと、僕たち三人へ脅すような視線を順に向けていった。

「……俺の方からは、何も言うことはねえぞ」

「本当に?」

 瑞音がソファーから身を乗り出し、小田の顔を見上げた。小田は瑞音の視線から逃れるように、顔を逸らした。

「だ……だから、ねえって」

 瑞音は慈しむような声で言った。「わたしたちには真人くんがとても困っているように見えるの。できることならその苦しみを取り除いてあげたい」

 小田は一瞬、驚いたように目を瞬いたが、すぐに瑞音から離れるように体をずらした。

「だから、お前らには関係ねえだろ。どうして俺に構うんだ?」

「もちろんわたしが構いたいからに決まっているでしょ」

 と、今度はきつめな声で言って、瑞音は更に身を乗り出した。

「はぁ?」小田が怪訝な表情を浮かべる。「何勝手なこと言ってやがる。いい迷惑だろ」

「迷惑でもなんでも、こっちから手を差し伸べなきゃ、救えないものもあるでしょ。それにわたし、心変わりを待っていられるほど気の長い性格じゃないんで」

「なんだそりゃ、本当に自分勝手な奴だな」

 と、苛立たしそうに呟く小田だったが、瑞音が一言発するたびに、徐々に彼の表情が変化していることに僕は気づいていた。人を威嚇するような感じが少しずつ失われて、代わりにそれまで奥に隠れていた苦悶の様子が現れているように思えたのだ。

「ということで、困っていることがあるなら話して、ね」

 と、身を乗り出し過ぎて、もはやテーブルの上で猫のように四つん這い状態にある瑞音が、今度は媚びるような声で言った。

「だ、だから、それは……」

 最初よりもずっと態度は軟化したとはいえ、小田はまだ口を割ろうとはしなかった。

 最後の一押しとばかり、瑞音が義隆に向かって言った。

「義くん。例のアレ、持ってきて」

 例のアレ? 僕が首を傾げている間に、義隆は黙ってソファーから立ち上がると、生徒会長席に置いてあったコンビニのビニル袋を持ってきた。袋の中身を小田の前に差し出す。

「カツ丼、食うか?」

 義隆の大根役者のような声に、僕は危うくソファーから転げ落ちそうになった。

 きっと瑞音と義隆で準備したんだろうな。でもそんなので心を開くか! 古い刑事ドラマの影響を受け過ぎだ。しかもこれ、取り調べじゃないし。

 現に小田は突然の展開にポカンと口を半開きにしていた。これじゃあ今までの積み重ねが水の泡だ。そう思いかけた時、瑞音が付け足すように言った。

「それからこれ」コンビニ袋から、カツ丼の他に入っていたチョコレートやらクッキーの詰め合わせを取り出した。「弟さんにどうぞ」

 小田は信じられないといった様子で、目の前に出されたお菓子を凝視した。そして微笑を浮かべる瑞音の顔を見ると、両目を手で覆って俯いた。そして、

「……なんだよこれ。こんな騙し討ち、卑怯じゃねえか」

 と呟く声がして、静かに嗚咽が漏れ始めた。


 小田にとって弟の存在がいかに大きいかは、これまでの経緯から、なんとなく察してはいた。しかし、ここまで効果てきめんだったとは、正直思いもしなかった。そして、わたしたちも弟のことを心配していますよ、と伝えることで小田の心の壁を突破した、瑞音たちの手腕に素直に脱帽する。僕には決してできない芸当だと思った。

 しばらくして、小田の気持ちが落ち着くと、僕たちに促される形で、とうとう、彼自身の身の上について語り始めた。

「六年前だ、俺たちの両親が交通事故で死んだのは」

「それは……お気の毒に」

 真剣な眼差しで小田を見つめる瑞音の横顔を気にしながら、僕は呟くように言った。

 小田は僕を一瞥しただけで、すぐに続きを語りだした。「それで、唯一と言ってもいい親戚に、俺と弟の慎二は引き取られた。その親戚っていうのがまあ、酷え奴らだ。子どものいなかった伯父と伯母の夫婦仲は最悪、それぞれ好き勝手に愛人を作っててよ。当時小学生のガキンチョだった俺でも、どうして離婚しねえのかって思ったくらいだ」

 瑞音が肩をすくめた。「まっ、少なくなったとはいえ、今でも一定数はいるのよ。やたら世間体を気にする人たちが。……真人くん、それで?」

「おい、さっきから俺のことを下の名前で呼ぶな。恥ずかしいだろ」

 小田の顔がわずかに赤くなっていた。

「それがわたしのポリシーなの。他人にとやかく言われる筋合いはないわ」と、瑞音は一蹴した。「で、親戚に引き取られて、どうなったの?」

 小田は小さく舌打ちしてから続けた。「当然あいつらは、俺たちのことを快く思ってなかっただろうけど、全く干渉はしてこなかった。生活に必要なものだけ渡されて、あとは好きにしろって感じだった。それぞれ愛人のことで頭がいっぱいだったんだろうな。だから俺はまだ幼稚園だった慎二の世話を着替えの手伝いから寝しょんべんの後片付けまで全部やったさ。親父たちが死んだ直後で泣いてばかりだった慎二の相手をするのは骨が折れた。……でも、あの頃が一番『兄貴』らしいことをしてたな」

「どういうことだ?」と、義隆。

「そのままの意味だ。続きを聞きゃあわかるだろ」小田の表情が苦しそうに歪んだ。「そんなこんなで二年ほど経って、ようやく弟も立ち直ってくれたと思っていたある日、これまでずっと俺たちに無関心だったあいつらの態度が一変したんだ。突然、俺と慎二の前で『この疫病神め!』って、喚き立ててきやがった」

「はあ?」

 僕たちは一斉に目をぱちくりした。

「叔父の投資が失敗してあいつら莫大な借金を抱えたらしい。その八つ当たりだったんだろうな、辛辣な言葉を俺たちに向けてきやがった。俺たちがあの家に不幸をもたらした、って。投資の資金は、俺たちを預かることで受け取った親父たちの遺産だっていうのによ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑っちまう」

 小田の乾いた笑いが生徒会室内に木霊した。

「それで、真人くんたちは親戚に……虐待されるようになったわけ?」

 瑞音からの質問に、小田は小さく首を振った。「家ではあいつらの終わることのない口論を聞かされ、『お荷物』やら『穀潰し』やら、あいさつ代わりに嫌味を言われ、酷い環境だったのは間違いないが、でもそれくらいだ。俺はなんとか耐えられたし、その頃はまだ慎二のことも気に掛けてやれていた。

「……それから結局、いくら俺たちをストレスのはけ口にしたところで、借金が減るわけでもねえだろ。さすがに世間体を気にしてられなくなったんだろうな、とうとう離婚した。俺がこの高校に入った直後のことだ。俺たちをどっちが引き取るかを、あいつら押し付け合っていたな、それこそお互い殺しかねないほどの言い争いが続いてた。そんな中、突然叔父が蒸発した。愛人のところに逃げたらしい。それで結局、俺たちは叔母に引き取られることになった。……あの時の叔母の顔だけは忘れられねえ。俺たちを罵る時よりも更に顔を歪めて、般若のような形相って、あんな感じを言うんだろうな。でも俺はこの時正直ほっとした。形はどうあれ、あいつらの小言を聞かされることもなくなるんだからな。ただ、そんな俺の考えは甘かったって、すぐに思い知らされた」

 午後一の授業の終了チャイムが鳴ったが、僕たちは小田の言葉にじっと耳を傾けていた。

「叔母はそれまで住んでいた家を引き払って、引っ越すことになった。どこにだと思う? 叔母の愛人のところだ。借金でそれどころじゃないと思ってたのに、どちらもちゃっかり続いてたってわけだ。愛人の男は俺たちのことを当然歓迎しなかった。余計なものを持ち込んできやがってと、叔母を散々責めたが、結局俺たちもそこに住むことになった。今思えば、あのまま追い出してくれた方がどれだけ幸せだったことか……」

 額に汗をにじませ、小田は淡々としゃべり続ける。「そこでは、今度こそ虐待といえるような状況だった。男と叔母はやれ家の掃除をしろだの、やれ酒を買ってこいだの、俺と弟を顎でこき使ってきた。向こうは領主で、俺と弟は住むところと食べ物を恵んでもらう代わりに労働力を差し出す農奴ってわけだ。そして、あの男も俺たちを大声で怒鳴り散らし、更に暴力も振るってきやがった。俺ももう高校生だ、その辺にいる教頭みたいなハゲ親父が怒鳴るくらいなら怖くもねえが、でもあいつは暴力団ともつながりがあるような奴で、そいつが怒った時の恐ろしさはハンパなかった。初めてあいつに胸倉を掴まれた時、マジで心臓が止まるかと思った。この俺でさえそうだったんだ、慎二が感じた恐怖はそれ以上だっただろうさ。弟は体も心もズタボロにされちまった。今じゃ、家の中で物音がするたびに顔面蒼白になる程だ」

 急に小田は声を震わせ始めた。「……そうなる前に俺は慎二を助けてやりたかった。でも、俺だって怖かった。それに正直言って疲れたんだ。それまでずっと弟の面倒を見て、叔父たちの小言を聞かされ……、そして今度は暴力だ。もういい加減にしてくれ。

「そのうち俺は学校をサボって、夜遅くまで家に戻らず、あてもなく街をほっつき歩くようになった。家じゃあの鬼のような男が昼間っから酒を煽ってて、学校にだって俺の境遇なんてわかってくれる奴もいない……。あとはまあ、絵に描いたような展開さ、同じく夜の街を徘徊していた連中とつるむようになった。……これで全部だ、お前たち満足したか?」

 小田の話を聞き終えても、しばらく誰も言葉を発しなかった。ごくり、と生唾を飲み込む音がみんなに聞こえたんじゃないかと思えるほど、生徒会室の空気は張り詰めていた。

 しばらくして、最初に言葉を発したのは義隆だった。

「苦労したんだなあ。辛かっただろうなあ」声は震え、そして目からは涙が溢れ出ていた。「わかる、わかるぞ、弟を思うお前の気持ち! 俺にも弟妹がいるからな」

 一方、一瑞音はフンと小さく鼻を鳴らすと、バッサリと切り捨てた。

「わたしには弟を捨てて逃げ出した愚かな男の話にしか聞こえなかったけど?」

「おい!」「何だとてめえ!」

 義隆と小田が一斉に身を乗り出し、いきり立った。

 僕も諫めるように言った。「その言い方はあんまりだろ。瑞音だって小田くんみたいに……」

 幼い頃に両親を失って祖父に引き取られて、彼の辛さがよくわかるでしょ、と言う前に、瑞音が苛立った声で遮った。

「わたしのことなんてどうでもいいでしょ」そして、小田に向き直った。「事実を言ったまでよ。不幸自慢なんかして、何が楽しいの?」

「こ、こいつ……言わせておけば」

 小田が拳を握りしめた。しかし瑞音は全く動じることなく、冷たい声音で言った。

「他人にあたり散らすことでストレス発散しようだなんて、今真人くんがやっていることは、あなたの親戚や、叔母の愛人とたいして変わらないじゃない」

「うっ……」小田が怯んで、視線を落とした。

「それに、あなたが外で『仲間』と一緒に逃げている間に、慎二くんは一人辛い思いをしていることに思いが至らない?」

「わかってるさ!」小田が両手でテーブルを強く叩いた。

 しかしそれから「わかってるさ……」と、徐々に声を小さくしながら苦しそうに繰り返すだけだった。

 僕は堪らず、瑞音に抗議した。「みんながみんな、瑞音のように強くはないんだから。もう少し言い方ってものがあるでしょ」

「……いや、いいんだ」横から、小田が絞り出すような声で言った。「たしかに全部こいつの……、生徒会長の言う通りだ」

 「小田くん……」僕は驚いて、小田の横顔を見つめた。瑞音へ向けられた、最初の頃には見られなかった、思い詰めるような小田の眼差しに、彼の中で何かが変わった、と感じた。

「じゃ、そろそろ建設的な議論に移りましょうか」

 姿勢を正し、瑞音が最初に小田に向けて掛けたような、澄ました声で言った。

「そういうことなら話は簡単だろ。その、愛人の男とやらに、これ以上小田たちに手を出させないよう、体で教え込むしかねえだろ」義隆が腕をポキポキと鳴らす。

「そうね、それに叔母にもお灸を据えてあげないと」瑞音は不敵な笑みを浮かべる。

 僕は慌てて口を挟んだ。「ちょ、ちょっと待って。どこが建設的な話なの? 余計面倒ごとが増えるだけでしょ」

 相手は暴力団とも関係がある人間だぞ。たとえその場で殴り勝っても、後々高校に銃弾が撃ち込まれる事態になりかねない。

「なによ敬くん。じゃあ他に何か方法があるっていうの?」

「それは……」

 僕は口ごもった。明らかに僕らの手に余る状況だ。強いて挙げるなら、児童福祉センターに相談することくらいか。

「そ、そのことなんだが……」小田が言葉を選ぶようにゆっくりと言った。「実はここしばらく考えていたことがあって……。俺もあと半年で高校を卒業だ。そうしたら就職して、弟を連れてあの家を出ようと、思っている」

「へえ」「ほう」「ふむ」

 僕たち三人が各々声をあげたあと、瑞音が頷いた。

「そう。そういう逃げならアリかもね。この状況なら悪くない選択肢かも」

「弟のために生きる。何て立派な兄貴なんだ!」義隆の目から再び涙が溢れていた。

「でも……」水を刺すわけではないが、僕はどうしても訊いておかなければならないことがあった。「卒業できるの?」

 午後の授業真っ最中であるにもかかわらず生徒会室にいる今の僕が言えた立場じゃないが、よく授業をサボっているらしい小田の出席日数は足りているのだろうか?

「そ、それは」と、明らかに狼狽する小田に対して、瑞音は確信に満ちた声で言った。

「そんなの、どうとでもなるでしょ」

 何がどうとでもなる、だ。瑞音が口にすると恐怖しか感じない。

「それよりも問題と思うのが、真人くんとつるんでる学外の『お仲間さん』たち。彼らとは縁を切らないと、たとえ卒業しても、真人くんと慎二くんのためにはならない」

 瑞音の言葉に、小田がうなだれる。

「そ、それは……わかってる」

「なるほど。じゃあ、そいつらを叩き潰せばいいんだな!」義隆が力強く言った。

「さっきからそんな発想ばっかり。手荒なことは駄目だって」

「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」

 すると、小田が意を決したように言った。

「これは俺の問題だ。俺がちゃんと話をつけて、あいつらのグループから離れる」

「そ、そうか。……でもこれじゃあ、結局、俺たち何もすることがないぞ?」

 まあそうなのだ。小田の話を聞いていて、決して頭の悪い人ではないと感じていた。ちゃんと考えれば自分で解決策を導き出せる。今の彼にとって一番必要だったのは話を聞いて、後押ししてくれる存在だったというわけだ。

 小田が立ち上がった。

「悪かったな。こんなつまんねえ話聞かせちまって。でもおかげでスッキリした。じゃあ、俺行くわ」

「ちょっと待った」瑞音が呼び止める。

「俺にまだ何か用か?」小田が怪訝な表情で返した。

「小田くんの悩みは本当にそれだけ? 悩みというか願っていることというか?」

 僕と義隆は顔を見合わせた。小田はまだ何か抱えていることがあるというのか?

「べ……別にねえよ。今さっき俺が話したことで全部だ」

「いいえ、それは嘘。たとえお天道様の目はごまかせても、この片桐瑞音の目はごまかせない!」

 なんだ、その古臭い口上は、と突っ込める雰囲気ではなかった。瑞音は獲物を狙う肉食動物のような視線を小田に向けていた。その威圧感に押されるように、小田の額から汗が噴き出し、小刻みに頬を震わせた。そして呼吸が荒くなっていき、ついに崩れ落ちるようにソファーに座り込んでしまった。

 瑞音の威圧スキルに屈した小田は、額の汗を拭うと、観念したように言った。

「じ……実は、もう一つずっと考えていたことがあるんだ……、慎二を今度の文化祭に、呼びたいんだ。そうしたら、少しの間でも辛い事を忘れられるかもって」

「はっ?」

 僕は思わず訊き返していた。文化祭に弟を呼びたい? それが小田のもう一つの悩み?

「呼べばいいでしょ。学外の人が来ても問題ないし。むしろ、友達とか家族とか呼んでいる人多いよ」

 僕の言葉に、しかし、小田は苦しそうに唸るだけで、返事はなかった。

「わかってねえな、敬悟」

 義隆が憐れむような声で言った。

「何がわかってないの? 僕、変なこと言った?」

「何一つ関わっていなかった文化祭に、知り合いを呼びたいと思うか?」

「あっ……」

 ようやく自分の配慮の足りなさに気づいた。

 文化祭、特に中学高校におけるそれは決してテーマパークの真似事ではない。もちろん出し物自体を楽しみに来る人たちもいるが、多くの来場者にとって、友人、家族が文化祭にかけた情熱、努力の成果を見るのが目的だ。

 クラスと距離を取っていた小田は、当然文化祭の準備に関わっていない。いつも家で震えている弟に少しでも楽しい思いをさせたい、しかし弟から兄の貢献を訊かれたら、逆に弟をがっかりさせることになるかもしれない。

「でもそんなの、俺も手伝うって、クラスの人に言えばいいんじゃない?」

 と、僕が提案する。貢献度は低いかもしれないが、このまま何もしないよりもずっと良い。

「だから……」義隆が言いかけたところで、

「い、今更クラスの連中に頭を下げられるか」

 と、小田が視線を落としたまま言った。

 その辺りの感覚が僕にはよくわからない。いくら頭を下げたって何か減るもんじゃないし。プライドが高い人にとってはそうでもないのだろうか?

「じゃあ」と、義隆が口にした。「生徒会の仕事を手伝ってもらうのはどうだ?」

 彼には珍しくまともな代替案だった。

「まあ、猫の手も借りたい状況ではあるけど」

 しかし、「それは駄目」と、瑞音が即座に却下した。「そんな取って付けたような免罪符じゃ意味ないでしょ」

「免罪符って、だからもう少し言葉を選んで……」

「それより」僕の忠告は無視され、瑞音が小田へ向き直った。「やる以上は、クラスの出し物に参加しないと。だから真人くん、クラスの作業にちゃんと混ぜてもらおう」

「で、でもよ……」

「大丈夫、わたしたちも一緒に話をつけてあげるから」

 ……まだこの問題は終わらないのか、と僕は頭を振った。

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