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部室棟の入り口に、腹を立てているような困惑しているような複雑な表情を浮かべた義隆が立っていた。
「どうしたの?」
と訊ねたら、義隆がぐっと顔を近づけてきた。
「どうしたもこうしたもねえ、なんだ、あの女は?」
「あの女……、美羽のこと?」
「あいつ、俺の後をついてきたかと思ったら、突然俺の腕に抱きついてきやがったんだぞ」
「それはそれは……、おめでとう」
「なにがおめでとうだ!」
義隆の大音声に、僕は思わず首をすくめた。未来の義隆は娘から毛嫌いされる哀しい父親ではないことがわかって、僕は素直に祝福しただけなのだが、それは当然義隆には伝わらない。
「おかげで俺は周りからすっかり笑いものだ」
「どうせ、義隆が緊張し過ぎて小リスのように体を震わせていたからでしょ」
「うるせえ……それは言うな」義隆はばつが悪そうに、顔をしかめた。
「それで、美羽は今どこに?」
僕は周囲を見渡したが、美羽の姿は見えなかった。もしかして義隆の大きな背中の後ろに隠れているんじゃないか、と思って、義隆の背後にも目を向けてみたが、影も形もなかった。
「それがな」義隆の声音が一転、弱々しくなった。「あんまりうっとおしいもんだから、つい声を荒げて、『ついてくるな!』って、言っちまったんだ。そうしたらあいつ、急に涙目になって走って行っちまった。すぐに追いかけたんだが、見つからなくてな。で、敬悟、お前を呼んだわけだ」
口では悪く言っていながら、本心では美羽のことをとても気にかけている、ここが義隆の優しさだ。
「僕も一緒に美羽を探せばいいの?」
「ああそうだ。それに、お前ならあいつの携帯の番号ぐらい知ってるだろうしな」
「……あっ!」
義隆に指摘されるまで全く気づかなかった。美羽の電話番号なんて知らない。そもそも、彼女は今の時代で使用できる携帯電話を持っているのか……?
「どうした、もしかして番号知らないのか?」
義隆の問いかけに、僕はこくりと頷いた。
「おいおい、あれだけじゃれ合っていながら、番号一つも知らないのか。本当にお前たち、親戚か?」
「うっ……」
思わぬところでボロが出てしまった。よりにもよって、絶対に誤魔化し通せると高を括っていた義隆に疑われるなんて。
その時、背後からつい今しがた聞いたばかりの声がした。
「また会ったな、裏切り者」
振り返るとそこには、両手に紙袋を持った文芸部の太田が立っていた。彼は親の仇に遭遇したかのように僕を睨みつけていた。
「いいところに来た」僕は義隆の視線から逃れるように、太田に近づいた。「どこかで美羽を見なかったか?」
「美羽……って、さっき八川と一緒にいた女子か」最初、眉間に皺が寄っていた太田の表情が徐々に緩んでいった。「まさか八川、あの子に逃げられたのか?」
「逃げられたっていうのは、僕じゃなくて、義隆……」
しかし、太田の耳に僕の言葉が届いた様子はなく、何を思ったのか彼は口角を吊り上げ、宝くじに当たったかのような喜びに溢れた声で言った。
「そうかそうか、なんか変だと思ったんだよな。あんな可愛い子が八川と一緒にいるなんて。やっぱりお前は俺たち側の人間だ。共に強く生きていこうぜ」
訳がわからず呆然としていると、太田は優しくポンポンと僕の肩を叩いて、部室棟から校舎のある方へ向かって歩き出した。しかし、数歩進んだところで何かを思い出したかのように、こちらを振り返った。
「ちなみにお前の『元カノ』、コンピュータ部の部室にいたぞ」
どうやら僕は、太田の中で失恋したことになっているらしい。
「文芸部のデータベースによると、未練がましい男は余計嫌われるからな。追いかけるのはやめておいたほうがいいぞ。……これ以上のアドバイスが欲しけりゃ、文化祭の時に俺たちの恋愛相談室に来な」
そう言い残し、太田はスキップしながら去っていった。間違っても奴にだけは恋愛相談はしない、と僕は心に固く誓った。
しかし太田のおかげで携帯番号の件はうやむやになり(義隆のことだ、疑惑なんてすぐに忘れるだろう)、僕と義隆は部室棟の一角にあるコンピュータ部の部室前にやってきた。
部室の前に立つと、中から甲高い女の子の笑い声が聞こえてきた。間違いない、美羽はこの中にいる。
そっとドアを開けると、薄暗い部屋の中央で、美羽が大きなモニターの青白い画面を食い入るように見つめていた。その周りを四人の肥満体型の男子生徒たちが取り囲んでいた。
「美羽」
僕が声を掛けると、美羽はこちらに顔を向けた。
「あっ、おじさん。それにおと……義隆さんも」
美羽が席を立って、僕らの所に近づいてきた。
「えっと……、何してたの?」
美羽の顔と、四人の男子生徒(顔と体格があまりにもそっくりで、一瞬四つ子かと思った)を交互に見た。
「この部屋をたまたま覗いたら、珍しいものがあったから、いじらせてもらってたの」
「いやあ、この子凄いよ」美羽を取り囲んでいた四人の男子生徒が一様に鼻をヒクヒクさせながら近づいてきた。「僕たちがずっと悩んでたプログラムコードの解析を一瞬にして解決しちゃったんだから」
「まあ、あれくらいなら学校で習ったし」
美羽は事も無げに言った。
「面白いことを言う子だなあ。大学でもあのプログラミング言語はまず習わないのに」
と、四つ子もどきの誰かが言ったが、ボソボソと呟くように喋ったので、声の主はわからなかった。
「美羽はコンピュータが好きなのか?」
見た目は機械とかに興味なさそうなのだが、タイムマシンを使って『こっち』にやってきたことを考えると、案外理系大好き女子なのかもしれない。
「好きというほどでもないけど。嗜み程度? でも、あんなレトロPCを触ったのは初めてだから、それは面白かった」
「レトロPC?」四人のうちの一人が咎めるように言った。「本当に面白いことを言う子だな。あのPCは俺らが長年貯蓄してようやく買えた最新型だよ」
「えっ、でも、量子計算ユニットも、ホログラフィックメモリーも積んでないじゃない」
「量子計算ユニット?」「ホログラフィックメモリー?」
訝しそうな表情を浮かべるコンピュータ部の四人を見て、直ちに脳内アラートを検知した僕は、「じゃ、そういうことで」と言い残し、美羽と状況が全く飲み込めていない義隆の腕を引っ張って、足早に立ち去った。
部室棟の入り口まで戻ってきて、僕はようやく二人の腕を離した。
「おじさんどうしたの?」
何が起こったのかわからない、といった表情で美羽は僕を見上げた。そんな彼女に僕は耳打ちした。
「他人には公言するなって僕には言っておきながら、自分でベラベラと未来のことを話してどうするの」
美羽はようやく自分の失態に気づいたらしい。漫談師のように自分の額をペシリと叩いた。
「つい、うっかり」
「うっかりじゃないよ……」
僕は小さく「はぁ」とため息をついた。
「大丈夫だって。そう簡単にバレやしないから。おじさんは本当に心配性だなあ」
「……」
心配の元凶にだけは言われたくない台詞だ。
「おい、敬悟」背後から義隆の低い声がした。「なんだったんだ、さっきの……は……」
僕に不審げな目を向けていた義隆の口の動きが止まった。そして、視線が僕から離れ、ゆっくりと美羽へ向けられていった。
義隆の唇が小刻みに震える。その上額には脂汗がぎっしりと浮かんでいたが、意を決したように、義隆は美羽に向かって言った。
「あ……いや……その。な、なんつーか、さっきは……怒鳴って……悪かった……」
「えっ?」
美羽は目を丸くした。義隆の謝罪の意味を理解していないらしい。僕は声を潜めて伝えた。
「さっき義隆に『ついてくるな』って怒鳴られただろ」
「あっ、うん。言われてみれば、そんなこともあったような」
忘れていたらしい。恐ろしいまでにさっぱりした性格だ。ガチガチに緊張して謝っている義隆が可哀想に思えてきた。
そんな彼女だったが、僕の話を聞いた後、義隆に向かって、かしこまったように言った。「あたしも、配慮が足りなくて、ごめんなさい」
「い……いや、その、なんだ」義隆の目が泳いだ。「そういうことを……したい時は、事前に、一言言ってくれ」
「えっ、ええ!」僕は思わず仰け反った。「ど、どういうこと、それ?」
「なんだ、敬悟?」義隆は猛獣が唸るような声で言った。
「だ、抱き付いていいの!」
「別におかしいか? 俺の妹たちも『兄ちゃん、兄ちゃん』って言いながらよく抱きついてくるぞ。だから先に言っといてくれれば、こっちも心の準備ができるし、いざって時にバランス崩すこともないだろ」
「あっ……そう」
義隆の女性に対する感性がますますわからなくなってきた。
しかし、義隆が美羽に対して妹たちのように接していいと言ったのは、彼が無意識的に美羽をただの他人ではないと感じたのだろうか? そう言えば心なしか義隆の緊張が和らいでいるような気がする。
「まだ、何かあるのか?」
義隆が睨みつけてきたので、慌てて首を振った。
「べ、別に……。それより一旦生徒会室に戻ろうか」
僕は校舎に向かって歩き始めた。




