Sky・Fizz
『今、どこにいるの?』
スマートフォンの待受に表示された、彼女からのメッセージを片手に握り締めて、野々宮は息を整える。夏祭りの雰囲気を久しく忘れていた彼は、ここにたどり着くまでの時間をすっかり読み違えていた。信号の赤とその向こうにある神社の階段とを見比べて、急く気持ちを落ち着かせようとメッセージを打つ。もう10分近く彼女を一人で待たせてしまった。
『今、通りの向かい側にいる。信号待ち』
打ち終わったところで信号の色が変わった。人ごみを掻き分けて横断歩道を小走りに渡りながら、やはり私服で来てよかったと自分を納得させる。彼女からは浴衣をせがまれていたものの、自分の細みな身体では格好がつかない、とギリギリまで迷っていたのだ。意気込んでいる彼女には申し訳ないが、浴衣にしていたらあと20分は一人にしなければならなかっただろう。
「修さん!」
鳥居の柱の前で大きく手を振る彼女が目に止まる。彼女は浴衣を着ていなかった。
「ごめん、遅れてしまって」
「いいよ、たった10分のこと。修さん、このところとても忙しそうにしてたでしょ? だから、来てくれただけでもうれしい」
そう言う彼女の声色は少し硬い。涼しげな白い薄地のワンピースが小さく揺れる。
「でも、よかった。修さんが浴衣を着てなくて。夏祭りに行こうって話をしたとき、私ずいぶんと我侭を言ったでしょう? あのとき修さんは『似合わないから着たくない』って断っていたけれど、それでももし気を使って浴衣を着ていたら、それで遅れているのだったら申し訳ないなぁって思ってたの」
「一応用意はしていたんだけどね。明日までにどうしても終わらせておきたい論文があって、こんな時間になってしまったんだ。あんまり君を待たせるのも悪いし、それにやっぱり浴衣は似合わないから」
階段を上がると屋台と提灯の明かりが眩しい。活気あふれる声も研究所で引きこもり生活を送っているような彼の耳には騒々しいぐらいだった。
「なにか食べようか。遅刻のお詫びになんでも奢るよ」
彼女は、なんでもいい、と小さく呟く。
「それなら、焼き鳥でも買おうか。そこのベンチに座って待っていて。すぐに買ってくるから」
彼女の返事が聞こえる前に、野々宮はぼやけて見える焼き鳥の文字に向かって走った。先程まで鬱陶しかった人ごみを少しだけありがたく思う。同時に、彼女を結局一人待たせている自分に気がついて、屋台の列を前に長嘆した。腕をぴったりとくっつけて並ぶカップルを斜めに見て、彼は己の恋人のご機嫌取りに思考を巡らせる。まずはお詫び、と一本2百円の串に眉をひそめつつ、数本買った。やっと花火が始まろうとしている。
「待たせたね。もっときれいに見えるところへ移動しようか?」
「ううん、ここでいいよ。ここからでも十分見えるから」
焼き鳥の入ったプラスチック製のパックを彼女の隣に置いて、野々宮もベンチに腰掛ける。木々の隙間をすり抜けて弾ける花火もそれなりに綺麗ではあった。
「修さんは私の浴衣見たかった?」
彼女は野々宮の顔を見なかった。
「それはもちろん。でも、君にも理由があるのだろう? 僕も浴衣は来てこなかったわけだから。お互い様だよ」
「そうね。でも、ごめんなさい。そういう気分になれなかっただけで、たいした理由はないの」
「そうか、まあそういうこともあるよ」
隣に並ぶ彼女との隙間15センチ、手を伸ばす先は焼き鳥。
「うん、ごめんなさい」
花火の音がと鳴り響く中で彼女の声はひときわ透き通って聴こえた。視界の端に、脚の上でしっかりと握られた彼女の手がうつる。その手が震えているのに気づかないふりをしてチカチカ光る夜空を見上げている。
「そんなに謝らないでくれ。君は悪くないよ」
光が散っていく。野々宮は静寂の中で泣き崩れる彼女の肩をそっと抱いた。その日初めて触れた彼女の体はとても温かかった。
落ち着いた彼女を家に送り届ける。会話のない車内にはエアコンの風の音が妙に響いた。彼女と付き合い始めて9ヶ月。自分にしては続いた方だ、と野々宮は思う。いわゆる美形に生まれてきた彼の周りにはどうしても表面ばかりを見て寄ってくる女性が多い。それでも以前はそんな彼女たちの歓喜のために、甲斐甲斐しく世話を焼くことを楽しんでいたのだが。
「……修さんに好きになってもらえる人が羨ましいな」
足繁く通った彼女のアパートの前に車を止めると、彼女は名残惜しそうにつぶやく。
「君が好きだよ」
「ありがとう。でも、その言葉は大切にとっておいて。修さんが本当に好きな誰かのために」
君を好きなことは本当だ、という言葉は飲み込んだ。彼女がそんな言葉を望んでいないことがわかったからだ。彼女は野々宮を表面では見なかった。彼の心の拠り所になれる数少ない女性だったのだ。だからこそ、彼女には自分でも気づかない何かを見透かされているような気もしている。
さようなら、と彼女は言った。
◇◆◇
日をまたぎ、大学での日常が帰ってくれば、彼女の事を考える暇もないくらい抱え込んだ仕事がある。今は8月の頭。大学生の多くはテストを終え、いよいよ夏休みを謳歌しようという時だが、講師である自分はその大学生たちの悲惨なテストを採点しなければならない。特に共通科目単位を取得するための他学部への講義の結果は最悪だ。
「まったく、国民なら憲法ぐらい真面目に覚えてろよ」
昨夜とはまるで違う刺々しい声で野々宮は嘆いた。赤い斜線に埋め尽くされた答案用紙が右から左へ次々と積み上がっていく。
野々宮が通っているのはこの辺りで最も有名な私立大学。もっとも、有名になったのは学力的なレベルの高さより、世界的に人気の高い建築家がデザインした校舎の方だったりする。その中でも最も複雑な構造で、別名「迷いの森」と呼ばれた法学部棟に、野々宮の所属する研究室はあった。
「野々宮くーん、いるぅー?」
扉の向こうから間延びした声が聞こえる。
「あれ? いないの? おーい」
「……」
「あれ、まじ? まじでいないの? ちょっともう廊下すっごく暑いんだけど。中に入りたいんだけど」
声の主に苛々を募らせつつ席を立つ。扉を開けると分厚い本の塔が目の前にあった。
「移動困難なほど抱えてくるなといつも言っているでしょう」
ありがとう、と礼を言って入ってきた本の束が、机に下ろされると40代後半の男が顔を出す。佐熊忠規、この研究室の主である。
「移動困難じゃないよ。今回はきちんと運んでこれる量に留めておいたんだから。こう暑いと資料室の往復は面倒でさ。一度で運べるならその方が楽だろう?」
「ええ、まぁ。もう一度往復しなければならないことには変わりないと思いますけど」
「ん? どうして?」
廊下の奥に小さく開け放たれたドアを確認して野々宮は告げる。
「このドアを一人で開けられなかったということは、資料室のドアも一人では閉められなかったってことですよね」
「あ」
再び静寂の訪れた部屋で野々宮はホッと息をつく。今日は少し根を詰めすぎているかもしれない。失恋には慣れたものと思いつつ、今回ばかりは少しダメージも受けている。これまで付き合ってきた女性の中では彼女が間違いなく一番だった。頑張って浴衣を着てくれば良かっただろうか、もっと気の利いた言葉をかけられたらよかっただろうか。多分そういうことではないのだろうけれど。
「ため息つくと幸せが逃げるよ」
そう言いながら、佐熊自身も2往復しなければならなかったことにため息をつく。
「俺の幸せはもう逃げましたよ」
「おや、彼女と別れちゃったの? 今回は続いてたのにねぇ、もったいない」
佐熊が黒縁のメガネをかけ直して席に座ると彼の姿は再び本の中に消えた。
「どうして先生が俺の恋愛事情を知っているんでしょうか?」
野々宮は佐熊に自分のプライベートをあまり話さなかった。話したとしても家の掃除が大変だとか、料理が面倒だとかその程度のことである。大学内で彼女に会うこともなければ、電話もしたことがない。メールの返信も極力一人の時にしていた。短期間で彼女が変わってしまうせいか、付き合っていることをあまり表には出したくなかった。だから、どうしてバレたのか全く見当がつかない。
「怒られそうだから言わない」
本の向こうでリズムよくタイピング音が鳴る。
「どういうことです? 益々気になるんですが」
「まぁいいじゃない。それより、ひとりなら今晩飲みに行こうよ。失恋に酒はつきものだろう?」「そういうことは、たまったダンボールを片付けてから言ってくださいませんか」
佐熊の机の周りには小さなダンボール箱がいくつも積み重ねられている。すべて佐熊の講義を受けている学生のレポートや試験の答案用紙だ。
「いや、ほら。成績出すのは来週末だし」
「そう言って後回しにした結果、提出していれば秀とか言い出して、最後は俺が手伝わなきゃいけなくなるんです。ご自分の研究に精を出されるのは結構ですが、それ以外の仕事もしてください」
うっ、と詰まる声がしてタイピング音が止まった。
「野々宮くんは厳しすぎるんだよ。そのテストだって受けるのは他学部の一年生なんだから、もっと優しくしてあげてもいいと思うんだけど」
佐熊は赤く染まった答案用紙の山を指差す。
「たかが日本国憲法を暗記してくるだけの問題ですよ。学部関係なく出来て当たり前でしょう。彼らには国に住んでいるという自覚が足りなすぎる」
そう言いながら、野々宮自身がそんな意識を持っているわけでもなく。ただ暗記して穴埋めするだけの問題をここまで間違えられるのかと呆れているだけだ。特に、野々宮の専門が商法であることが苛立ちに拍車をかけている。専門外の授業を、わざわざ時間を取って教えてやっているのに、という気持ちがどうしても先行してしまうのだ。分野外なせいで基礎的な講義しかできないことも野々宮のプライドを傷つけていた。
「僕らの専門外の授業なんて僕らもつまんないしねぇ。義務教育じゃないんだから好きな事させてよ、とは思うけど」
やっと持ったペンを手の上で転がしながら佐熊はあさっての方向を見上げる。
「まぁ、給料もらって働いてるんですからそれなりに我慢はしないと」
野々宮は佐熊を諭すようで、自分にもそう言い聞かせた。暑さのために半ば脱ぎ捨てていたスーツの上着を手に取る。脱いだ上着はすっかり冷えていて少し心地いい。
「え? 野々宮くん、帰るの?」
「どうせ待っていても片付かないでしょう。俺の方はひと段落つきましたので、残念ですがお先に失礼します」
「えー、もう少し待っててくれてもいいじゃない。案外早く片付くかも」
「では、片付いたら連絡を。その時は大人しく付き合いますよ」
佐熊の冗談をさらりと交わし、研究室を後にした。あの調子では連絡は来ないだろう。予定変更はしなくて済みそうだと安堵する。
普段彼女の存在を表に出さない野々宮が、唯一全てを話して安心できる隠れ家がある。キスールという名のバーには、幼い頃から世話になっているバーテンダーがいた。野々宮が中学を卒業するまで実家の近くにあるバーで働いていた人が、独立して店を持った。偶然にもその場所が、高校から一人暮らしを始めた自分のアパートの近くだったことで今も付き合いが続いている。大学に入る頃には、アパートを引っ越さないために車の免許を取るほど気に入っていた。
車をアパートに置き、歩いて数分。オフィスビルの隙間にひっそりとログハウス風の建物が佇んでいる。昼間はカフェとして多くの女性客で賑わっているが、夜になるとコアな男性客が集うショットバーへ一転する。それがキスールだ。
「いらっしゃい」
鈴の音に混ざって溶け込むようなマスターの声。上質な音楽と微かな客の話し声を胸いっぱいに吸い込んで、懐かしの空気に身を染める。もう何ヶ月も空けていたのに、聖域のように残されたカウンター左壁際の席に安堵する。そこが野々宮の特等席だ。
白く透き通る細い指に添えられたバー・スプーンがカラカラを音たてる。何を飲みたいかという問いもなくそっと出されたのは、爽やかな天色の【スカイ・フィズ】。野々宮の恋愛が終わると、その恋の傷を引きずらないようにとマスターが必ず用意してくれる。この口当たりのいいすっきりとした甘さが野々宮は大好きだ。
「さすがにもう二度と来てくれないのではないかと不安になっていたところだよ」
「俺としては、キスールに通えなくなることが、彼女と別れてしまう原因なんじゃないかと不安に思っているところだ」
マスターの柔和な笑みが野々宮に安心感を与える。鼻筋の通った端正な顔立ちは一見冷たさを持っているが、マスターお得意の笑顔がそれを上手く緩和させていた。白く艶のある肌は若々しく、青少年のようでありながらその実40歳に近いというのだから世の中見た目ではわからない。
「マスターはみんなの癒しだものね」
「嫁にもマスターのような包容力があったらと何度嘆いたことか」
「マスターが女性だったらきっといい家庭が築けるだろうね」
「ああ、マスターを奪っていく女性に今から嫉妬してしまいそう」
常連客の一人が同意の声を上げると皆が口々に賛同した。キスールの客は皆、マスターに癒しを求めてやってくる。そしてこの暖かな空気を守るため、店を声高に宣伝するものもなく比較的隔離された空間が保たれている。野々宮はマスターの次にこの家族のような関係が好きだった。
「でもやっぱり、マスターには修くんがいないとね」
それはどういうことかと尋ねれば方々から答えが返ってきた。
「修くんがいない時のマスターはガードが固いんだ。凛と澄ましちゃって。それが修くんが来るとこの有様だよ」
「聖母みたいな顔しちゃってさ。僕らの癒しがマスターなら、マスターを癒しているのは間違いなく修くんだよね」
そうまで言われるとさすがに照れてしまう。男兄弟のいない野々宮にとって、マスターは歳の離れた兄のようなものだ。実際小さい時は、忙しい親兄弟に代わってマスターがよく遊び相手になってくれていた。そんな彼の気が置けない相手になっていると言われれば、嬉しくないわけがない。
「そりゃ、修くんの代わりはどこにもいませんから」
マスターは余裕の表情で返す。
「あぁあ、開き直られちゃしょうがない」
「これはみなさんのためにも、しばらく彼女を作るわけにはいかなそうですね」
【スカイ・フィズ】をぐっと飲み干して、野々宮は肩をすくめた。
◇◆◇
「佐熊先生、先生には学習能力が備わっていらっしゃらないのでしょうか」
机に紙をばらまいて悲鳴を上げている佐熊を野々宮は冷たく見下ろす。予想通りといえば予想通り。佐熊は締切が直前に迫った今も、試験の採点に追われていた。
「だって、論文の発表も締切近くてさぁ。忙しかったんだよぅ」
「そっちは後2週間あるじゃないですか。いい大人なんですから優先順位と段取りぐらいきっちり付けられるようになってください」
「むぅー、そんなこと言わないで手伝ってよー。野々宮くんは僕の助教だろう」
「研究ならともかくそんなことまで手伝ってられませんよ。俺にも自分の論文がありますので。だいたい一週間以上前にも言いましたよね、先にダンボールを片付けてくださいと」
「それは、いったん論文に手をつけ始めると止まらなくて……」
試験の度にこの問答を繰り返しているような気がする。そして最後には結局手を差し伸べてしまうのだから、野々宮も相当甘い。それは今も例外なく。
「今日中に終わらせたら、今晩おごってください。安い飯屋は却下で」
そう言って野々宮は、ばら撒かれた紙の一枚に手を伸ばす。
「ありがとうー! さすが野々宮くん!!」
自分が来るまでこの人はどうやって仕事をしていたんだろうかと、一生答えの出ないだろう疑問を頭に浮かべる。入った当初は少なからず佐熊に尊敬の念を抱いていたはずなのだが、その当時の気持ちなどとっくに飛んでしまった。今では、佐熊のせいで自分は大学を出られなくなってしまうのではないかと恐れを抱くほど。博士課程修了まであと1年、それまでにこの研究馬鹿をどうにかしてやろうと心に誓うのだった。
採点を終わらせた時には夜11時を回っていた。
「はぁー、やっとおわったぁ!」
成績の打ち込みを終わらせて佐熊は机に上半身を預ける。
「お疲れ様でした」
用意しておいたアイスコーヒーを佐熊の机に置いて、野々宮も自分の背もたれに身を預ける。
「試験の採点ならともかくレポートがあんなに溜まっているとは思いませんでした」
「やめて……今、説教は聞きたくない」
「俺に説教させているのは先生ですよ」
「うん。明日耳にタコが出来るまで聞いてあげるから、勘弁して」
佐熊はアイスコーヒーを口に流し込み、手をぽんと叩く。
「よしっ。野々宮くん飲みに行こう」
先ほどの手拍子で全てを切り替えたとでも言うような清々しい顔で佐熊は言った。
「は? いや、無理ですよ。俺もう動きたくありません」
「野々宮くんが奢れって言ったんじゃない」
「確かに言いましたけど、それは夕食の話であって飲みに誘った覚えはありませんよ。お礼は明日でもいいじゃないですか」
「ううん。飲みに行く! 今日行かないと僕の気がすまないの」
気が付けば野々宮の荷物がすっかり佐熊の手に収まっていた。
「いや、俺今日車ですしっ」
「ひと晩くらい大学に置きっぱなしでも問題ないだろう」
これはもう諦めるしかないらしい。それでも、佐熊に振り回されっぱなしの自分に納得がいかず、連れて行かれる間不機嫌な態度は決して崩さなかった。
「そんなむすっとした顔じゃ、せっかくの酒が美味しく飲めないぞ」
「無理やり飲まされる酒に旨いも不味いもありませんよ」
「君、一応学生だろう? ノリ悪いなぁ」
「あれだけ辛い思いして、それだけ元気が余っているあなたの方がよっぽど学生らしいですね」
大学から歩いて10分。たどり着いたのはいかにも学生向けに作られたようなポップな装飾の居酒屋だった。
「前にうちの女学生が教えてくれたんだけど、おじさん一人じゃなかなか入りづらくてさぁ」
大の男が一人増えたところで入りづらさは変わらないのではないか。
「店内にバーカウンターがあって、運がよければバーテンダーのいれるカクテルが飲めるんだよ」
疑問を口に出す間もなく、店の中へと連れ込まれてしまう。
「初めて来た時もちょうどタイミングが良くて。それが結構美味しいんだ」
圧倒的に女性客が多いことを除けば、なるほど店内の雰囲気はいい。裏で調理をするのだろう、小さなバーカウンターの奥から店員数人の活気な声が聞こえていた。アップテンポな音楽を耳にしながらカウンター席に座る。いつもの雰囲気なのか、それとも時間帯がいいのか、無駄に騒ぎ立てる学生もいない。
「いらっしゃいませ」
店員は皆、カッターシャツにジレ、サロンエプロンといういかにもな風貌で動き回っている。渡されたメニュー表には確かにカクテルの名前がずらりと並んでいた。
「あれの中にバーテンダーがいるってことはないですよね」
テーブル席で女性客に褒めそやされている店員はみな学生バイトのようだ。
「いや、僕より年上だったはずだけど。今日はいないみたいだね」
残念と肩を落としつつ、佐熊はちゃっかりジントニックを頼んでいる。
「ほら、ぼーっとしてないで。野々宮くんも飲みなよ」
「え、ええ」
佐熊に促されるままメニューに視線を落とした時だった。
「おにいさん、何かつくりましょうか?」
頭上の声につられて顔を上げる。
「……」
突然目の前に現れた男に固まってしまった時間は数秒。
「あれ? 君どこかで会った?」
そう佐熊が切り出すまで野々宮は全く動けなかった。
「5年前まで法学部にいましたから、佐熊先生」
「ああ! うちの学生だったのか。どうりで」
佐熊と会話を弾ませるバーテンダーの男を野々宮もよく知っていた。卒業とともに自分の目の前から姿を消した男。野々宮のプライドを粉砕した過去最悪の男。
「ああ、そうだ。彼もうちの卒業生でね。今、僕の助教をしてもらっているんだ」
男は野々宮に白々しく微笑みかける。
「どうも、はじめまして」
男が口を開く前に、精一杯の笑顔で返した。ふいに笑顔の消える男の顔を見てざまあみろと嘲笑う。
「そっかぁ、野々宮くんは元々経済学部だったね。流石に面識ないか」
「大学も広いですから」
「確かにうちの学部なんて迷路だし。他学部の人はまず寄ってこないって聞くよ」
楽しそうに話すふたりの横で野々宮だけが全く面白くない。なぜいまさら顔を会わせなければならないのかと苛立ちだけが募っていく。
「僕は他学部でも有名だったみたいだけど、ねぇ野々宮くん。えっとなんだっけ『森の……」
「『迷いの森の熊』ですよ。まぁ、実際会ってみたら熊っていうより小動物に近かったですけど。ウサギとかリスみたいな」
「確かに熊ではないですね」
佐熊と話しながらも、太く丸みを帯びた大きな手が、グラスの上で繊細に動く。
「うーん。これでもちゃんと肉食なんだけどねぇ。君の方がよっぽど熊っぽいか」
「ははっ。私が熊で先生が兎なら、あなたは猫かな」
男がスッと差し出したのは赤が鮮やかな【キティ】。舐めているのかと睨み返せば、男の瞳が僅かに揺れた。一口含めば、妙に甘ったるい気がして上手く喉を流れていかない。
「帰りましょう」
「え? 今飲み始めたばかりじゃない」
「もう時間も遅いですし、俺大学に泊まるなんてしたくありませんから」
佐熊の返事を待ってはいられなかった。レジで佐熊の分まで会計を済ませ、そそくさと店を出る。
「え? ちょっと、野々宮くーん!」
後ろで聞こえる佐熊の声に応える余裕がない。油断すれば溢れ出しそうな感情を押さえ込んで駅のホームへ駆け込む。去り際に向けられたまっすぐな目が野々宮の心を掻き毟る。あの男は5年前まで、確かに自分の恋人だった。未来を誓えなくても、将来を共に生きるはずの男だった。なんの説明もなく突然別れを告げ、そのまま卒業してしまった男。行先も告げず、身を引いた男の身元を野々宮は必死で探した。住んでいたアパート、行きつけだった店、友人を訪ねてまわり、実家まで探し出して、それでも見つからなかった。それなのにどうしてこんなに近くにいるのか。どうして今まで気付かなかったのか。忘れようとしていた。忘れられたと思っていた。
ぐるぐると頭を回る後悔と憎悪と微かな劣情。今はもう自分が何処を歩いているのかさえ定かではない。とにかく遠くへ逃げ出したい。蓋をした思い出がとたんに溢れ出しそうになるのを、足を動かすことで抑えようとする。
ちりんっ、と軽い鈴の音がして野々宮は初めて自分のいる場所を把握した。こんな時でも身体はきちんと家に帰れてしまうのか。安堵と落胆する気持ちで野々宮は音の方へ顔を向ける。
「修くん?」
マスターの声が頭にすっと染み渡るようだった。店を片付けるところだったのだろう。扉には『準備中』の札が下げられていた。
「今日は先生に飲みに誘われちゃって、電車で帰ったんだ。おかげで家まで歩かなきゃいけなくなっちゃって」
自分はきちんと笑えているだろうか。
「修くん」
「あ、今日はキスールに来られなくてごめん。また寄るよ」
「修くん、おいで」
去ろうとする野々宮の背中をマスターは静かに呼び止める。
「いや、店はもう閉めるんだろう? お酒は飲んだ後だし、明日でも」
「いいから、入っておいで」
有無を言わさない口調で言われるとどうしたって逆らえない。キスールの中はしんと静まり返っている。
「あの、マスター……」
「どうしたなんて聞かないよ。修くんにも言いたくないことはたくさんあるだろう。ただ、その顔で外をうろついているのは心配だから」
「……俺、そんなにひどい顔してるかな」
「すごくうろたえた顔してる。キスールのマスターとしてではなく、君の幼馴染としては君にそんな顔をさせた奴をぶん殴ってやりたいぐらいに怒ってるんだ。だから、話したくなければ話さなくていいよ」
「それは怖いな」
「僕は君が望むならなんだってするんだよ」
もう野々宮には自分が笑っているのか泣いているのかよくわからなかった。
「……うん、マスターに見つかってよかった」
やっと会えた。あの男に、やっと会えたんだ。