僕の、母校
車が行き交う道路脇の歩道で、一本の棒が立てられた所には人が並んでいる。その最後尾には、初々しい女子高生が両手で紺のスクールバックの灰色の紐を掴み、それを体の前で持って立っていた。その時、優しい風がその場所を吹き抜けると、彼女のサラサラのショートヘアはそれに靡いた。何とも絵になるこの風景だが、彼女それをとても嫌そうに振舞っていた。
そう、その人は僕です。
見たくないものを見終えて、真新しい制服に身を包んだ僕は、今は最寄りのバス停-西宮にいた。今のところ、周りに同じ学生は見当たらない。時々吹き抜けるやらしい風によって、膝上十センチ丈のひらひらは無防備な動きを繰り返す。それが僕の太腿を撫でる時、どうしようもなく力が抜ける感覚に陥いりそうになる。その度に、僕はそれを両手でさりげなく押さえつけて自分を取り戻す。今の僕はあくまで女子だから、気にすることなく堂々としていればいいのだが、そう思っていてもそう出来ずにいる。この姿でいることは、僕にとって恥ずかし過ぎた。
自分の部屋で着替えをした時のことは出来れば思い出したくない。まず上の寝巻きを脱ぐと、すぐにあれは僕にその素顔を見せてきて、"あなたのですよ?"と自己紹介をしてきたような気がした。
寒気がした。
洋服や下着がしまってある入れ物の箱を引き出すと、そこにあるはずの僕の物は一切なく、他人の物が占拠していた。女性物の下着が綺麗に敷かれ、色とりどりとしている。
悪寒がした。
あれを付けた時は何かがプツンと切れた気がした。それは僕のサイズにぴったりでふわふわした感触がくすぐったく、背中に廻る紐の全てが違和感でしかなかった。"そもそも率先して付けなくても良かったのでは…"と、僕は少し後悔した。
次は寝巻きの下を脱ぐ。こちらは起きてすぐに一度見た光景だが、まさか自分がこれを履いているとは、信じたくなかった。妙にフィットしているから尚更嫌だった。試しに一度履き直して見たけれど、そんな自分に絶望した。
本来男子用のブレザーがかけてあったハンガーを引っ張り出す。しつこいようだが、そこにかかっていたのは紛れもなく女子用のブレザー。ズボンがかけてあった所には鼠色を基調としたチェック柄のスカートが翻る。
これを着るのか…?
既に上も下も付けておいて、今更だがかなり躊躇した。
しかし、今の自分の姿が多感な年頃の女子の裸体であることを思い出し、すぐに意を決した僕は女性用のワイシャツを着てから、それに頭を通し手を通し、最後に脚を通した。
この後、僕は先に歯を磨いておけばよかったと後悔した。洗面所に出向くと、そこにある鏡は制服姿の女子高生を映した。首に付けている赤色のタイが映えていて、男子の物よりも明るい紺色、または少し濃い青色というのが正しいのかわからないが、それがとても眩しかった。さらにその下には僕の絶対領域が広がる。今までだって、学校生活の中で見てきているから慣れていたはずなのに、自分が着ているとこうも感じるものが違うのかと思った。
いや、恐らく今までこのことは他人事だったけれども、今は被写体が自分になっているから、こうやってまじまじと見てしまうのだろう。
僕はそう結論付けて、不覚にも浮ついてしまった気持ちをリセットするために、いつもよりも念入りに歯を磨いた。
今朝の母はとても上機嫌だった。落ち着いた雰囲気のブレザーを着た僕の姿を見ると、ゆるゆると顔を綻ばせた。僕の表情は、そんな母の顔とは対比していた。
何がそんなに嬉しいのだろうか?
その答えはすぐに出た。
「やっぱり似合ってる。お母さんもブレザーが着たかったんだけど、生憎中高どっちもセーラー服だったのよ」
なるほど。ありきたりな理由でした。僕は制服に拘りは持っていなかったからわからないけれども、きっとそういうものなのだろう。
その時、父が読んでいた新聞を少し横にずらして僕をチラ見したのを、僕は見逃さなかった。
そんなこんなでバスが来た。時刻は八時八分。流石、日本の交通機関は時間ぴったりです。最後尾にいた僕が二百十円を手に持って宮野駅行きに乗り込むと、すぐにバスは発車した。その中はとても混雑していて、通勤途中のサラリーマンと思われる人々がたくさん乗っていた。よく見ると、チラチラと僕と同じ制服を着た人も見つけることが出来た。
僕の通うことになっている高校は、西宮から数えて七個目のバス停-西丘高校前というバス停が最寄り。というより、目的地の目の前にあるので、そのためのバス停と言っても過言ではない。そこまでの距離は、時間で言うと約三十分程度。もし自転車ならば、僕が高校一年の秋頃に開拓した裏道を通ることで二十三分に短縮される。
あれは楽しかった。
学校からの帰り道、もっと早く登下校が出来る道があるのではないのかと思い立った僕は、同じ通学路を通る友達と二人で彷徨った。日の長さは着々と短くなり始めていた頃だったから、あっという間に真っ暗になり、真っ直ぐ帰れば七時前には着いていたであろうに、気がつけば八時を裕に超えていた。元来た道すらよくわからなくなって途方に暮れながらも、虱潰しに見つける道を走り抜け、僕らは自分の地元に詳しくなった。あの日、家に着いたのは九時頃だった。偶然知っている道に辿り着き、僕と友達は"助かったー!"と雄叫びを揚げた。
今思えば、とんでもない方向音痴の笑い話でしかない。でもそのときは正直不安だった。その後、父に怒られた時が一番怖かったのも、今ではとても良い思い出になった。
「次は[西丘高校前]、[西丘高校前]でごさいます」
昔の話に想いを馳せていると、録音された女性の声がそう伝えてくれた。
[西丘高校前]のバス停に着くと、僕は人混みを掻き分けてバスを降りた。すると目の前には、見慣れた、というより通い慣れた母校が僕らを迎え入れた。
また三年間、お世話になります。
入学式の看板を立て掛けられた正門を通り抜けると、先生達がオレンジ色でペラペラの紙に印刷された名簿表を配っていた。
あっ、本原先生。
それは僕の一年の時の担任の先生、国語科の"本原 光輝"先生だった。この人がとても優しい先生だったことは、昨日のことのように覚えている。でも、来年には他校に転任されてしまう。もっと話がしたかったなぁと思っていた僕にとって、後悔を取り戻すチャンスがもう来た。
「おはようごさいます」
僕なりに元気良く声を出したつもりだったが、思ったよりも小さかった。そんな自分がちょっと情けない。
「おはようございます。今日から一緒に頑張りましょう」
そう言って、先生は僕にも名簿を手渡した。本当はちゃんと話したいけれど、まだ僕は新入生の中のたった一人にすぎない。どの道担任になるのだから、急ぐことはないだろう。
僕は"ありがとうございます"と一礼して、慣れた足取りで校舎に入った。その僕の後ろ姿には、恐らく初々しさなど微塵もなかっただろう。
その時、後ろから吹き抜けるように春風が僕を撫でた。
校舎の中に入ると、これまた見慣れた小分け八百個にも及ぶ下駄箱群が出迎えてくれた。壁に張り付いた下駄箱が両側に一つずつ。その間に裏どうしがくっ付いた下駄箱が三つ。列で言うと八列あった。その中の僕の下駄箱は、正面から見て一番左の列、奥から十二番目の、五段あるうちの上から三段目。
うん、確かにあった。
それもそのはず。女子の姿では参加していないが、入学の二週間前にはオリエンテーションがあり、そこで予め三桁の番号を貰っている。それがこの下駄箱の番号-一五八。卒業するまでこの番号は変わらず、この近辺の人とは一年時のクラスは同じになる。ということは、二週間前の時点でクラス分けがされていたことにもなる。
仕事が早いですね。流石です。
全校生徒は、一学年につき約二百四十六人。それが三学年で約七百三十八人。つまり、八百個の下駄箱がかなり余ることになる。昔はそれでも少し足りないぐらいの生徒がいたようで、これはその時の名残りらしい。少子高齢化の波は、ここにも着々と影響している。ちなみに、余っている場所は来賓用に使われている。
僕は高校三年間、ローファーなどとは当然縁がなかったので、専ら運動靴で登下校していた。そのせいか、この靴は僕にとっては窮屈でしょうがない。その履き慣れない新品のローファーを脱いで、こちらも買ったばかりの、学年カラーである青色を先端に纏った上履きに履き替える。下駄箱の列を抜けると、そこで待機していた女子の先輩が、僕の灘らかな胸のポケットに二回目になるお祝いの花を差し込んでくれた。しかし、差し込む際に一度つっかえた。前回は直滑降だったからかつっかえなかったのかもしれない。
一回目もこの人だったのかな?
そんなことを考えつつお礼を言った僕は、そのまま上へと登るために幅の広い階段に向かっていった。
僕らを一年生は、主に四階で学校生活を送る。階は学年が上がる毎に三階、二階となる。四階に着いた僕は改めて名簿表をチェックする。
二組 十八番 篠塚 優 ○
やっぱり僕は二組の出席番号十八番だった。名前の横にある○というのは、その人が女子生徒であるという意味がある。ちなみに、僕はこの○を付けられること自体は初めてではない。
僕は[篠塚 優]という名前から、よくそれだけで判断されて女子と勘違いされた。そのせいで、本来女子の名前の後ろに付けられる○が僕の名前の後ろにもつけられているなんて日常、いや、年常茶飯事だった。
小中学校でのクラス編成では、一クラスにつき大体男子二十人、女子十六人が定番だったのにも関わらず、僕のいるクラスはいつも男子二十一人、女子十五人だった。
はっきり言って嫌がらせです。
小学校の時なんて、男女別々の整列で女子の列に入れられていた。名前順も女子の列で並んでいた。それに対して散々文句を付けるのが、僕の毎年の日課ならぬ年課だったが、今年はそんなことをする必要もなくなってしまった。何故なら僕の方からこの○印に合わせてしまったからだ。
これは喜んでいいのだろうか?
現在、女優さんで[竹原 涼]さんという方がいるけれど、彼女は名前だけで男子とよく思い込まれていたようで、僕と同じような体験をしていたようだ。
竹原さん、お互い辛いですね。
本人の承諾無しに勝手に傷の舐め合いをしていた僕はそこで正気に戻り、気を取り直して二組に向かった。クラスは全部で六組まであり、一クラスにつき男子二十三人、女子十八人の計四十一人が定番。三年前の僕のいたクラスはもちろん、男子二十四人、女子十七人だった。
あっ、もしかしたら男である僕は、女子扱いで入学していたかもしれない…。
今回の僕のクラスは、見た目上は男子二十三人、女子十八人の想定通りの構成になっていた。このクラスの顔ぶれはなんとなく覚えている僕は、縦七列、横六列の光景に少し懐かしい気持ちになった。
僕は所定の席、廊下側から三列目、後ろから三番目の位置に座ってスクールバックを机の上に置いた。そこでようやく一息吐いて、少し落ち着いたところで辺りを見渡してみた。既に仲良く会話をしている人もいれば、大人しく座って何かしている人もいる。確か僕の場合は・・・。
「おはよう。えっと、篠塚さん、だよね?」
来ました。名簿を確認しながら僕に挨拶をしてきたのは出席番号十一番、お隣に座るのは"久米島 俊太"、もちろん男子。
「おはよう…」
女子になって始めてする学校での会話は緊張する。自ずと声が出なくなる。
「よろしくね」
フレンドリーな彼は、僕の高校生活における友達第一号。僕が男子の時も、彼は同じように接してきた。ただ違うのは、"篠塚君"ではなく"篠塚さん"と呼んだところ。あの時は、"あれ 女子だと思ってた。○付いてるよね?"と言われたのをよく覚えている。僕が"毎年の事だから"と返答したのを聞いて、久米島は思いっきり笑った。でもその後には"大変だね"とフォローをしてくれたとても優しい友達だった。"思いっきり"笑ったのは余計だったけど・・・。
「篠塚です。よろしく」
今度は友好的に返事が出来た。でも、何故だか喋りにくいのはどうしてだろう…。
「俺は久米島っていうんだ。篠塚さんは近くの人なの?」
確か前も同じことを聞いていた。久米島は電車通学で片道一時間かかるそうだ。自転車通学をすることになる僕は、自分が土地的に恵まれていることを感じていた。
小学校は徒歩で八分。中学も十分ちょっとで着ける位置に僕の家は建っている。おかげで僕のような朝寝坊する奴でも、高校まで通しても今まで遅刻は一回しかしたことがない。もちろんその一回のせいで、僕は皆勤賞を逃して精勤賞に甘んじた。
「二十五分ぐらいかな?」
少し余裕が出てきた僕はちょっと魔がさして、僕なりに少し可愛くやってみた。でもすぐに、僕は少しノリノリになってきている自分を卑下した。
「それって近いのかな?俺は電車で一時間だけど、何通学?」
「今日はバスで登校したけど、これからは自転車で通学する予定」
予定ではなく確定です。決定事項です。
「そうなんだ」
と、久米島がふーんとしたところでチャイムが鳴った。
僕は、チャイムは実に不思議な音だなと思っている。始まりのチャイムは皆を足速に席に着かせる力を持っているし、終わりのチャイムは寝ているものを起こしてくれる力を持っている。僕はそれが不思議でしょうがなかった。授業の終わりのチャイムと同時に、爆睡していた人がぬくぬくと起きてくるのを見る時は特にそう思う。
"ガラガラ"っと廊下側から音がした。閉まっていた前の扉を開けて、入ってきたのはあの先生。
「おはようございます。私が、一年二組の担任の本原 光輝です。担当は国語の現代文です。皆さん、これから一年間よろしく」
僕にはその"一年間"が意味深に聞こえたが、皆は友好的な先生を"よろしくお願いします"で歓迎した。
それからは、簡単にこれからの流れを淡々と説明していき、僕らは名前順に廊下に並ばされた。
その時、僕は目の前に伸びるとてつもなく長いようで、実際はそれほど長くはない廊下に、また少し憂鬱な気分になった………