僕の、卒業式前日
僕、"篠塚 優"は、いつもの帰り道でこう呟いた。
「明日で卒業かぁ〜」
いつもの帰り道、いつもの夕焼け景色、いつもの顔ぶれ、いつものしょうもない会話。それがとても楽しい。でもそれも、恐らく明日で最後。高校三年生の三月八日。明日になれば日付は三月九日となり、通い慣れた学校を訪れればいつもと少し違う格好に身を包んだ皆がいて、僕がいる。
そう、普通ならば・・・。
友達と別れると、去っていく皆と変わってしみじみとした虚無感が現れた。こうして同じ通学路を一緒に固まって、徒歩通学の友達に合わせ、皆と自転車を押して帰ることは、もうない。
思えば三年間はあっという間だった。中学の時も同じことを感じて、高校の三年間はもっと大事にしようと思っていたことを、今更ふと思い出す。
あぁ、また同じことをしてしまったのか…。
ほんの少しの後悔が浮かび上がった。そしてそれに連なるように、何の教訓にもならない後悔、思い出したくないものも一緒に浮かんでくると、さっきまでのしんみりとした感情が滑車に掛けられて、それは重りのように、浮かんできたものに相対して沈んでいった。
僕は自転車に飛び乗って漕いだ。風を切って走った。
すると、それらを一時的に振り払うことに成功した。僕の跡を付いてくるのは、この三年間で痛んだコイツのチェーンが擦れる音だけだった。
我が家、篠塚家に帰宅した僕は、お風呂を済まし、晩御飯を食べ終えた僕ら家族は、いつものように九時から始まるドラマやバラエティを見ていた。とは言っても、その類にあまり興味がなく、僕が起きる頃には出勤してしまう父だけは、その日の夕刊に一通り目を通してすぐに寝てしまう。その時に、自分の気になった記事があると、その場所を表にしてテーブルに置いていく。普段、新聞に目を通さない僕らに対して、無言で"ここを読め"と言っているのは皆が承知していた。僕らはそれを無下にはせずに、ちゃんと目を通していた。
「明日はいつもより登校時間が遅いからって夜更かししたらダメだからね?」
それが終わると、母はリビングをあとにしようとする僕にそう声をかけた。僕はそれに生返事だけすると、階段を登って自分の部屋へと入った。
僕の部屋は四畳程度の広さで、南側には僕の上半身とほぼ同じ長さ、高さの窓があり、外には寒空が見えた。
僕の部屋には、布団と机、まだ余裕のある本棚があるだけの少しばかり寂しい光景がある。
僕には、この冬の受験に勝利して来年度から高校に上がる弟がいる。僕と部屋は別々だけれど、内容は同じような構図をしている。でも、弟の部屋はアイドルグループの小さなポスターが貼ってあるだけ、僕の部屋よりはある意味華やかだった。これならいっそのこと、二人で一つの部屋にしてくれた方が賑やかでいいのに、と思うこともしばしばあった。でも、元々二人で一つの部屋だったら、反対に二人別々の部屋にしろって、考えていたと思う。
けれど、やっぱり僕しかいないこの部屋はしけていた。
歯磨きや明日の着替えの準備といった、寝る前の恒例行事を終えた僕は、部屋の電気を消して布団に潜った。最近は日も少し長くなって平均気温も上がってきたが、それでもまだまだ外は寒いので、相対的に部屋も冷んやりしている。僕は掛け布団から顔だけを外に残して、あとは隙間を作らないようにクルクルっと自分に巻きつけた。その姿はまるでミノムシで、僕はモフモフの中で気をつけの姿勢をしていた。
そんな僕がいる真っ暗な部屋の隣では、音楽でも流しているのか、まだ軽快な音がしていた。
そんなことを気に止めることなく、僕は明日の卒業式に想いを巡らせつつ、殆ど時間も掛かることもなく眠りについた。そして、普段は滅多に見ない夢の中へと落ちていった。
「汝、その考えは本心か?」
「…何のことですか?」
真っ暗な空間の中で気がつくと、突然意識の遠く向こう側から聞こえてきた声に、僕は少し驚きつつ素っ気なく返した。
「何を?汝が昨日考えていたことだ」
あーあれか、と思い当る節を見つけた僕は一度喉を整えた。
「本心かと言われればそうですし、本心ではないといえばそうじゃないです」
と、僕は思っている通りに素直に答えた。
「なんだ焦れったい。どちらかと言えばどうなんだ?」
僕はぼやけた声に文句を言われ、それに続いて友達どうしの会話のように質問をしてきた。
深層心理を具現化したものが夢だと聞いたことがある僕は、夢に見てしまうほどそのことを考えていたのかと変な気分になっていた。そして今更ながら、冷静になってきた僕はその正体のわからない相手に困惑をした。
「どちらかと言えば本心です」
僕は少し迷ってから答えた。
すると、その答えに満足したのか、またはこれから何か面白いことが起こるのにワクワクしているのか。僕にはよくわからない雰囲気が含まれた声で何やら説明を始めた。
「よし、わかった。汝は明日の朝から、この三年間の人生をやり直すことを認める」
自分の夢ながらくだらないと思っていた僕は、それを右から左へと聞き流していた。いや、もしかしたら僕は、ただそれを聞きたくなかっただけなのかもしれない。
「もう朝が近い。詳しいことはメモに書いておく。起きたらそれを確認しておきなさい」
「わかりました」
最初とは打って変わり、妙に真面目な雰囲気に少し違和感を覚えたが、僕は昨晩のように生返事を返した。
「滅多にないチャンスと思って、頑張りなさい」
役目を終えた厳かな声は、最後にそれだけを残して僕の前からいなくなった。
それからまもなくして、真っ暗だった空間に光が差し込んできた。
眩しい。
もう朝か。
そうして、僕は珍しく自分の意思で目を覚ました。久しぶりにスッと開けることが出来た瞼はスッキリとしていた。
しかし、同時に変な苦しさを覚えた。心臓の辺りが妙に重い。心なしか呼吸もし辛い。仰向けでいた僕は、一度横向きになってから起きようと思い、ごろんと体を左にくねらせる。すると、僕の腕の内側に馴染みのない何か柔らかいものが触れた。それと同時に、胸の辺りにもくすぐったい感触が走った。
嫌な予感はした。
とりあえず、その違和感の原因の探求は後に回して立ち上がると、心なしか視点がいつもより低く感じた。いつもの視点が背伸びをしている状態ならば、今はその背伸びを辞めた時の感覚に似たようなものを感じている。
それからまもなくして、僕は大事なことに気がついてしまった。いつもはそこにいる[アレ]の在り処を探したが影も形もない。急ぎ足で部屋を飛び出して向かったのはトイレ。そこで寝巻きのズボンを下ろすと、驚くしかない光景が視界に入った。それは、今の自分に起きている出来事の内容をオブラートに包むことなく僕に通達した。
でも、実はその通達は間違いで、自分の元に誤配されたものだと信じて疑わない僕は、それを見て見ぬフリをして勝手に安心し、薄っぺらな安堵の気持ちで胸に手を当てた。
この時、僕はこの行動をしたこと後悔した。
誤配だと思っていた通達は、追加で送られてきたものによって、大きな、そして決定的となる検印を押されてしまったのである。
僕は女になっていた。
それはあまりに衝撃的で、僕は大声で驚いたり、宛もなく喚き散らしたりはしなかった。いや、出来なかった。
とりあえず用を足そう。
その際、僕は下を見ないように努めた………
不定期更新ですが、よろしくお願いします。