第六話 緑一色
先日のメルセデス・アッカーソンからの提案から約十二時間、カエデ・ツツミは選べる選択の是非を、一晩寝て時間を置いた頭で再考していた。
(もしもあの女の提案を蹴った場合、俺は実験台としてどこかに送られるか、または処刑が待っている。提案を受けた場合、自由は無くとも国連警察の協力者として、それなりの待遇は約束される)
その二択に対して、自分の身だけを考えるならカエデには悩む理由が無い。後者を選ぶのが当然である。
しかし自分の事情を鑑みて、短絡的に選びたくないという思いが迷いを生む。
契約者であるカエデは、大事なものを全て悪神アンラ・マンユに捧げなければならない。
それが得た力の代償であり、それにより人生を踏み外したかつての誤り。
(俺の人生はアンラの贄。生きている限りそれは付きまとい、また、半ばで死んでも転生した後に果たさなければいけない盟約だ)
家族も友も恋人も、全てはアンラへの生贄となる。
そうして負の業を積み重ね、契約者を通じて闇の力を得るのが悪神としてのアンラのやり方。
(あのメルセデスという女、それを理解した上で俺を使いたいって言いやがって、頭がいかれてるのか、それとも……いや、やっぱり頭がいかれてんだろうな)
考えれば考えるほどにカエデが思うのは、メルセデスという人物が如何に異常だという事。
相当なリスクを負う事になるのを恐れず、互いの理解が無いままで信用してみたいといった彼女を、カエデは頭のネジがどこかおかしいと評す。
(少しでも不安が残る相手を、普通の人間は傍に置きたいとは思わない。俺があの女なら、俺を生かしておこうとは思わない。もっとも、それが裏の世界で捜査官なんてやれる奴の適正なのかもしれないが)
とにかくカエデには理解しがたい話で、だからこそ先が読めずに迷う。
(……アンラは姿を見せねえし、どこ行ってんだあのトカゲ)
こういう時の相談相手くらいにしか役に立たないのに、先日からまったく姿を見せないアンラにもカエデはやきもきさせられた。
そんな折、カエデが拘束されている部屋の、一つだけしかない入り口のドアが開かれる。
「ハロー、昨日はよく眠れた?」
「お陰様で」
入ってくるなり社交辞令のような挨拶をしてくるメルセデスに、カエデも日本人流で答える。
「それで、考えは決まった?」
「……まだだが、そういや決めるまでに時間制限はあるのか?」
「いえ特には無いけど。でも、なるべく早くしてほしい所ね。ここの警察署に厄介になっているのも、そう居心地がいいものでもないし」
通常、逮捕者等は警察署の留置場に留置されるが、カエデのような相手の場合は手続き上そちらには入れられない。
だからカエデが拘束されているこの部屋は、本来は別の用途に使われるものであり。メルセデスが上に無理を言って収監している状況であった。
「できれば明日までには決めてもらいたいわね。もちろん、早く決めてもらえるならそれはそれで助かるけど」
「……」
「何? そんなにじろじろ見て、私ってそんなに見つめたくなるほど美人?」
「……いや、つーか体固定されてるから、目の前に立たれたら他に目に入るもんねーだろ」
「ジョークに決まってるじゃない」
(その割には顔が赤いぞ、おい)
自分で美人と言ってしまったのが恥ずかしくなったのか、メルセデスは顔を逸らした。
彼女の様子を見るに、何か会話の糸口にしようとして失敗した様子だが、カエデとしても、メルセデスを見ていたのは事実である。
業視の魔眼で見抜けない相手を、少しでも観察して何か解る事がないかと思っての事だ。
「おい、あんた……」
「メルセデスでいいわ、私もカエデって呼んでるし」
「長いからお前、あんた、ユーで十分だ。それよりも聞いときたい事がある」
「何気に名前に対して失礼な事を言っておきながら、当たり前のように質問とか貴方凄いわね」
「俺を協力者として扱うという話、今までに前例はあるのか?」
あくまでマイペースなカエデ。
それでもメルセデスは気分を害した様子も無く、持ってきていた缶コーヒーに口をつけながら問いかけに応対する。
「……いいえ、私の所属する部署でという意味でなら、今までに前例は無いわ」
「なるほどな。じゃあ他にあんたみたいな捜査官は何人いるんだ? どういう体制でやっている?」
「それは今の段階では話す事は出来ないわ。国連警察組織としての秘匿事項よ」
(……まあ、それはそうか)
流石に何でもかんでもべらべら喋るような非常識さは無いようで、それによってカエデの質問の幅はメルセデス本人の事に絞られる。
とは言っても、メルセデス本人に対して気になっている事は一つだけ。
「コネがあるって言ってたが、それはどういう事だ?」
「ああそれ? 私のパパがね、ちょっとしたお偉いさんなの。こう見えていいとこのお嬢さまなのよ私って」
(……ん? 何か、今この女ちょっと変だったな)
僅かな違和感だが、メルセデスを観察していたカエデはそれを感じ取った。
親の話を出した時に少しだけ表情と声音が沈んだようになり、さばけた話し方で誤魔化したような、そんな印象。
「どうかした?」
「……いや」
感じた違和感に対して、カエデは踏み込まなかった。
それは自分に関係がある話かどうか、というよりも、自分が親というものの話を聞きたくないという感情によるもの。
「…………」
「黙りこんじゃって。質問はおしまいなの?」
「……そうだな、もう聞きたいことは無い」
「ええーうそー、もっと聞きたいでしょ普通。ほら、えーと、スリーサイズとか?」
「発想が一昔前のおっさんだな」
「ああ、それ何故かよく言われるわ」
(……認めるのかよ。本当にこの女はよく解らん)
解らなすぎて、何を聞けば理解できるのかが解らない、という勉強につまずいた時のような心境にカエデは陥っていた。
「じゃあちょっと真面目な話、カエデはスプンタ・マンユに興味は無いの?」
「なんだ、藪から棒に」
「いや、質問だって言うからてっきりそっちかと思ったから。神と契約するなんて珍しいもの、初めて知った相手からはよく聞かれるわ。でもカエデはスプンタの事を、昨日も何も聞いてこなかったわよね」
「……なんとなくな。興味は無い訳じゃないが、別に聞きたくないという気分の方が勝ってる。どうせ神なんて、碌でもないのしかいなさそうだし」
悪神と契約しているカエデだからこその偏見。
しかし意外とそれだけでもなかったようで、カエデの言葉を聞いたメルセデスは笑って頷いた。
「ふふふ、碌でもないか……うんうん、解るわ。あれは確かにろくでもないわ。シャワー浴びてる時に、いつの間にか背後に立ってたりするし」
「……あんたのとこもか、本当に碌でもないな」
聞きたくなかった事実であったと同時に、カエデはまた一つこの世界と神という存在に幻滅した。
「じゃあ、あんたが俺にアンラの事を聞かないのも同じ理由か?」
「いえ、それは少し事情が違うわね。これまでの経験からそういう事は聞かないようにしているの」
「経験?」
「言ったでしょ、私は魔術師や悪魔対策のスペシャリストだって。悪神と契約した人間を見るのは初めてだけど、悪魔憑きや儀式によって異形のものと契約するような人は、これまでに結構見てきたの……いえ、全部殺してきたと言うべきかしら」
「……」
相槌を打つのも躊躇われるようなメルセデスの言葉に、カエデは黙らずにはいられなかった。
「悪魔にすがらなければいけないくらいに追い詰められた人の業、そういう心の闇に踏み込むのは生半可な覚悟ではできないわ。ましてそれが殺すかもしれない相手の事よ、一生抱えていかなくちゃならなくなるもの」
「……そうか」
カエデも裏の世界の住人との関わりにより、心が荒む事が多かったからメルセデスの言っている事はよく解る。
殺す相手ならば関わりは浅い方がいい、変に関わってしまうと殺した相手の生前の業に苦しめられることになる。
「でも、もしカエデが私とチームを組んでくれるなら、その時は聞くかもしれないわ。だからあの協力の提案は生半可なものじゃないって事、解ってくれる?」
(……本当にこの女が解らん)
メルセデスと話せば話す程、カエデはドツボに嵌っていくような感覚に囚われているようだった。
本心も人間性も透けて見えない、だからこそ湧く興味。
それは人が人との関係に本来求める当然のものだが、業視の魔眼で全てを量ってきたカエデにとっては新鮮なもので、そのせいで正常に判断できるのか自分自身に疑問を持つ。
(信じられるかどうかではなく、信じてみたい相手か……この女の提案を呑んでもいいと思ってしまうのは、俺が人間というものに未練が残っているからなのか)
選択に迷うというのは久しぶりの感覚だが、カエデはその迷いにもうそろそろ答えを出さねばいけない。
空気が変わったのを感じてしまったから。
(……迎えが来てしまったか、アンラはこの女と組むことを面白く思って無いんだな。まあ、そりゃそうか)
「――!?」
メルセデスも異変に気づいたようで、立ち上がって周囲を見回した。
鉄筋コンクリートの中から這い出るいくつもの植物の芽。
それは数秒と経たない内に成長して大木となり、部屋いっぱいに広がった。
「何よこれ!? どうなってんの!?」
メルセデスが動転するのも無理はない、無機質な部屋が一瞬で森林となり、そのすぐ後には体が動く隙間もないくらい、ぎゅうぎゅうの密林となってしまったのだから。
その現象は警察署内の他の場所でも起こっているようで、遠くの方からも悲鳴の声が聞こえてきた。
しかし視界一杯が植物で埋まったその中で、カエデだけは冷静に成り行きに身を任せる。
「ドーモ、貴方がカエデさんデスカ?」
「……そうだが、スリーシックスの手の者か?」
植物達が避けるように道を空けたかと思うと、カエデのすぐ傍に見知らぬ男性の老人が現れた。
話す言葉は癖のある中国語、カエデも知っている地方の中国語で返答する。
「ワタシはイースーチーといいマス。スリーシックスとは旧知の仲デス」
「俺を連れ出すように言われてきたんだな?」
「ソウデス、いまその拘束具をハズしマス」
手慣れた手つきで拘束具を外していくイースーチーと名乗る老人。
カエデはその最中、業視の魔眼でその老人を一瞥する。
(シロか……まあ、スリーシックスが俺のところによこすんだから当たり前だな)
カエデの持つ業視の魔眼は段階を踏んで、人の業を所持者に見せる。
今イースーチーに向けたのはその最初の段階であり、カエデが他人を悪人か善人かで分ける一番の材料。
善徳を積んできた者には白い光が見え、悪徳を積んできた者には濁った闇が見える為、シロとクロとカエデは他人の業を判断している。
更に深く見る事もできるが、カエデは最初の段階でクロと出た相手にしかそこまでは踏み込まない。
プライバシーの侵害という話もあるが、それ以前の問題として見切るまで時間もかかるし、カエデ自身が疲れてしまうから。
「いきなり生えてきた植物、これはあんたがやったのか?」
「そうヨ、ワタシの自慢の『結界魔術・緑一色』ネ」
「結界魔術……これが」
黄金の夜明け団に厄介になるにあたり、カエデはスリーシックスから魔術についていくつかレクチャーを受けている。
西洋魔術や東洋魔術の基本から、混沌魔術や宗教儀式と呼ばれるものまで幅広く。
その中に結界魔術と呼ばれるものも含まれていた。
(空間を自分の意思で作り上げる魔術……それは単純に人の認識を狂わせる程度のものから、空間そのものを歪めるものや、別位相空間にズレを生じさせるものもあると聞く)
カエデが聞いた結界魔術の話に当てはめても、目の前で起こった現象は結構な規模での干渉であり、それだけイースーチーがハイレベルな術者である事の証明でもある。
「ドウしました? 拘束ハズれましたヨ?」
「いや……」
体は自由になったが、カエデにはその場を動くのに躊躇いがあった。
視界一杯の植物の向こうに埋もれるようにして分かたれたメルセデスと、今ならばまだ手を取り合う選択もできるかもしれない。
<やめておけ小僧>
「……お前もいたのかアンラ」
いつの間にか頭の上に乗っているトカゲに、カエデはうんざりしたように肩を落とす。
<小僧が出来るのは敵を作る生き方だけじゃ。誰かに幻想を抱くのもいいが、我の餌にもならんような相手ならば時間の無駄じゃろう>
「チッ…………」
反抗を態度で示すが、反論する言葉はカエデには無い。
その資格は、アンラ・マンユと契約した過ちによって失っているから。
「サア、早く行くネ。あんまり長くこの結界はモタナイよ」
「……解った」
イースーチーに急かされ、カエデは後ろ髪引かれる気持ちもありながらその場を抜け出した。