第三話 ウルスラグナ
<さっきから腹の虫がうるさいぞ小僧>
胸ポケットから顔を出したトカゲ姿の悪神アンラ・マンユにそう言われ、カエデは噛んでいたガムを包み紙に吐き出した。
「せっかくガムで空腹を紛らわせようとしているのに、お前のせいで台無しだ」
<情けない奴だ。悪神と契約せし名誉ある者が銭無しとは……昨日潰した者達ならば、金など腐るほど溜めこんでいたろうに、今頃は豪遊だって出来ただろう>
「悪人が汚い手段で稼いだ腐った金には手を付けたくないな」
<妙な正義感を持ちおって、どう足掻いても小僧も奴らと変わらぬ悪だというのに。殺しはするのに盗みや嘘を否定する、我には未だに理解できん>
「アンラに理解されていない内は、俺にもまだ人としての価値が残っているって事だな。そうやって俺に悪徳を積ませようとするのも、負の業が足りてないからだろ?」
<さあな>
そう言ってまたポケットの中に引っ込むアンラ。
解りやすいなとカエデは思うと共に、もう一枚新しいガムを取り出して噛みながら、周囲に注意を払った。
ここはひと気のない寂れた港の埠頭、カエデがスリーシックスから聞いた薬の売人が取引に使う場所である。
街灯の明かりも届かぬ暗さは、裏の住人が隠れて悪さをするのに適した場所であった。
(しかし恥ずかしいくらい解りやすい場所を取引に使っているな。もう少しひねりをきかせてもいいだろうに)
なんとなく昔見ていた刑事ドラマを思い出しながら、ものさびしく味の無くなったガムを噛み続けて待つ。
防波堤に波が緩い波がぶつかる音が響くほど辺りは静か、時折思い出したように文句をつけてくるアンラの小言が、うるさく感じるほどである。
(聞いていた時間は過ぎている……ガセネタ掴まされたか?)
スリーシックスの持っている情報網を疑うわけでもないが、何事も完全完璧がありえないのが世の常。
もう一時間待って誰も来なければ、カエデは帰る事にしようと決めた。
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(ん、来たか……帰ろうとするとこういう事があるんだよな)
三十分が経過し、そろそろ待ちくたびれてきたカエデの視界に人影が映る。
待っていた甲斐があったかどうか、カエデは歩いてくる人物が自分の標的かを見極める為物陰から観察する。
(背は結構小柄……そういえば女の可能性もあるのか。持っているトランクはカギが厳重そうな代物……いかにも、らしいと言えばらしい)
そうして現れた人物を見ていくとカエデは妙な事に気が付いた。
どう目を凝らしても、カエデの眼に映るはずの『あるもの』が見えないのだ。
「……おいアンラ、どういう事だ? 業視の魔眼が機能していないぞ」
<何!?>
カエデの言葉に驚いたように、アンラは胸ポケットから勢いよく顔を出した。
業視の魔眼はそれが映す者が積んだ善行や悪行を見抜き、その業を可視化する。
カエデが意識的に見ようとすれば、善人は白いオーラ悪人は黒いオーラに包まれて見ることができ。
更に詳しく見ようとすれば、その者がどうやってその業に至ったのかまでを、詳細に読み取ることが出来る。
異常だとカエデが感じたのは、その業視の魔眼の機能が今初めて機能していなかったからだ。
<まずいぞ……おい小僧、ここは逃げるのが身のためだ>
アンラの慌てようもカエデの眼の異常が杞憂ではない事を示す。
不確定要素に加え、悪神のお墨付き、直感的に何かヤバイと感じたカエデは、現れた人物から逃げるように身を翻した。
「何処に行こうというの?」
「――!?」
息を詰まらせそうになったカエデの鼻先に、先程まで視界の遠くにいた正体不明の人物が立っていた。
スーツ姿の女性、セミロングのブロンド髪を片手でかき上げながら、もう片方の手では拳銃の銃口をカエデに向けている。
「ホールドアップ」
言われてとりあえず両手を自分の顔の横まで上げるカエデ。
銃口を向ける女性は、抵抗する意思がカエデに無いかどうか判断するように、じっくりとその全身を眺めた。
「私は国連警察機構の捜査官、メルセデス・アッカーソン」
そして唐突に告げられた所属と姓名。
メルセデスと名乗る女性とは初対面であったが、その所属だけはカエデにも聞き覚えがあった。
「国連警察機構……犯罪者を国の垣根にとらわれず捕まえる為の国際組織だったか……こんなところでいったい何をしてるんだ?」
「決まっているでしょ? 貴方を捕まえる為。世界各国で起こった多くの殺人事件の容疑者である貴方をね」
「……どうして俺の事を知った?」
偽るのは主義に沿わない。
カエデはしらばっくれたりもせず、ただどうやってここにメルセデスが行き着いたのかという疑問にのみ問いかける。
今までに起こした事件が国連警察の目に留まることは解るが、悪神に借り受けた超常的な力によって引き起こしたそれらは、普通の人間には捜査のしようも無いはずだから。
「貴方のような犯罪者の中に異能を持つ者がいるように、警察の中にだってそれはいる。私はこれでも魔術や魔法、あるいは悪魔などに対するスペシャリストなの、お解り頂けた?」
「なるほどな、それは盲点だった」
黄金の夜明け団との関わりで、自分だけは特別ではないと解っていても、表の社会にまでそういうのが存在しているとは知らなかったカエデ。
今の状況はそういった隙が招いた事だ。
「私のシックスセンスは、これまでの事件現場から貴方の情報を読み取っていたわ。多くの犠牲を出してしまったけれど、こうしてようやく行き着くことが出来た」
「犠牲ね……俺が殺したのは死んで当然な奴ばかりだが」
「そうかもしれないわね」
以外にもメルセデスは、カエデを言葉の上では肯定する。
「でも多くの人間を殺したという貴方の罪は、法の裁きを受けねばならない。でも今の世の法律では貴方の立件は難しい」
「だろうな」
立証は不可能、法廷で争うまでもなくカエデの罪は裁かれずに終わる。
だからこそメルセデスのような捜査官と、彼女の所属する組織が存在する。
「法によって裁かれない者は、法に守られる事も無い。この言葉の意味が解るかしら?」
「――開け、闇の翼」
聞きたい事は聞けた、後は先手を打つべく行動に出る。
カエデはその背より闇の翼を開き、それは触手のように伸びてメルセデスを捕まえようとする。
だが一陣の風のようにしなやかな動きで、彼女は全て回避した。
「残念だわ、もう少しだけ貴方と話したかったのに」
「……く」
地面に血の雫が落ちる。
それはカエデの脇腹から流れ出していた。
その傷を負わせたのは、メルセデスの持つ拳銃から放たれた空砲。抉れた傷口を押さえ、カエデは苦悶表情を浮かべる。
「もう少し耐えられそうね」
「――が!?」
今度は右肩に穴が開き、続けて左足、カエデは闇の翼で障壁を作るが、それすらも貫通してメルセデスの持つ拳銃から放たれる力は傷を与え続ける。
悪神と契約してから、こうまで一方的に傷を負わされたのはカエデにとっては初めての事。
「すごいでしょこの武器。あなたのような相手にはこれくらい用意しなきゃね」
カエデは自分の表情が、今まで自分と対峙してきた者達と同じ顔になっている事に気付いていない。
自分の常識では計れないモノと対峙した時、人が作る表情。
「神器・ウルスラグナ」
メルセデスは、自分の構えた拳銃を指して言った。
障害を打ち破る者を意味するその名は、十の化身を持つ英雄神を冠したもの。
「では、署までご同行願えるかしら?」
体中が穴だらけになって倒れたカエデに向かって、メルセデス・アッカーソンは涼しい顔でそう告げた。