回避
カタカタカタ、と朱里が自分のデスクでさっき頼まれた書類を仕上げるキーボードを打つ音と、商談席で時々話す上川と薫の仕事の会話以外は音のしない静寂な夜だった
週末だからだろうか、人は殆ど残っていなくて、入力を終えて印刷ボタンを押すと、いつもはあまり気づかないプリンターの音だけが響いた。
そんな中、急に電話が鳴る。
「上川さん、1番お電話です」
薫の会社の上司からだった、確か・・・部長だっけ?
そう思って上川に相手の名前を告げて商談席の2人を見ると薫は一瞬真顔で朱里を見ていた。
どうしたんだろう・・・
上川が自席に戻り電話で対応している間、薫は朱里が印刷し終えた書類に目を通していく。
ふっと薫が微笑んだような気配がして顔を上げると、薫は
「五十嵐さん、この部分の数字、さっきこれに変更したから直してくれるかな?」
と書類を差し出す。
「はい」
「それとさ、上川さんこれから飲みに行くよ、多分」
「えっ」
「うちの部長の1人が上川さんを気に入っててさ、早速連れ出そうとしてるみたいだな、電話の話聞いてたら」
「そうなんですか」
「今のうちのグループとの取引がなかったら次の仕事もきっと上川さんを指名したかったんだろうけどね」
すると今の会話に呼応するかのように、上川の声が響いた
「石橋さん?はい、今来ていますよ、彼もですか?ああちょっと待ってください」
「上川さん、僕はやってしまいたいことがあるので今日は無理だと伝えてください、上川さんはどうぞ、行って来て下さい、代わりに五十嵐さんに残業してもらいますから」
電話の向こうの部長にも聞こえるようにわりと大きな声で薫は言った。
部長は飲みが好きだといっても第一に好きなのは仕事だと知っていたからこれで大丈夫だろう、と薫は思った。
「はい・・・はい、わかりました、それではまた後ほど・・・はい・・・失礼します」
そういって上川が電話を切ると頭をかきながら商談席に帰ってくる
「石橋さん、すみません」
「いえ、いいですよ、うちの部長のお誘いですし・・・上川さん、うちの部長に気に入られてますから、お相手お願いします、僕達も適当に切り上げますから会社に戻ってこなくても大丈夫ですよ」
「そうですか、それじゃまた月曜ですかね」
「そうですね、また朝メールします」
「それじゃあ、五十嵐宜しくな」
「はい」
そういうと、上川は慌しく自分の周りを片付けて帰っていってしまった。
「ちょうど良かった、これについて、五十嵐さんに説明しとかないとって思ってたんだ」
そういいながら薫は自分のブリーフケースから書類を出す。
「これ、昨日の御社の倉庫の空き状況に対応してできた、うちの入庫予定、まだ大体でしかないけど、これでいくつもりだから、みっちゃんにも連絡しておいてくれる?ちなみにこれがさ・・・」
と、書類説明を始めて、どういう対応をしてくれたらいいか、どういう時に連絡を誰と取ればいいか、こうなった場合どうしたらいいか、など指示していくが、その内容がきめ細かくて慌てて、メモを取る。
大体のことは把握できたかと思って一段落すると、ほーっとため息が出た。
これ以上はもう今日は頭に入らない気がする。
もう限界・・・今にも頭から数字が転がり落ちそう・・・
「まだ、こんな時間か・・・」
薫が時計を見ながらいう。
げーやめて~
そんな朱里の心の声を聞いたのか薫は朱里の顔を見て笑った。
「飯、行こうか、うまいの食わせてやるよ」
・・・仕事をオフにした、薫のその笑顔に朱里は引き込まれた。
ずるいな、それ、疲れてるときには予防線張れないからモロにくらってしまう。
好きじゃない相手ってわかっていながら、翻弄されてしまう。
「・・・あんたの顔見てたらきっとおいしいものもおいしくなくなるんじゃない」
そういう自分に悔しくなってつい、きついことを言ったら
「なに言ってんだよ、どういう状況でも、うまいものはうまいんだよ、時間なくなるから急いで着替えて来いよ、下で待ってるから」
そういいながら、薫も自分の書類を片付け始めた。