口喧嘩
薫が指についたクリームをなめると、
下を向いていた朱里の顔が正面を向いて、薫を見た。
口も聞けないほどびっくりしたのだろうか、と薫は思った。
自分でもなんでこんなことしたのかわからない薫もしばらく朱里を見つめる。
実は薫の実家ではこういうことはわりと自然な行為なのだが、朱里は家族じゃないし、恋人でもない。
ただの取引先の女だ。
酔いがまだ冷めていないんだろう、そろそろ引き上げたほうがいいのだろうか。
そういえば・・・
「あいつ、来週金曜に帰ってくるよ」
「あいつって?」
・・・目が覚めたような顔をして朱里が聞く。
「芦田・・・今日連絡があった、土曜に会社に来て仕事するってよ」
「・・・そうなんだ」
みるみる朱里の表情が変わる。
怒っていた顔の後ろから笑顔が追いついてくるような・・・
ほわんとした表情がはっきりと保への恋心を表していた。
「・・・何、乙女になってんだよ」
そうなったのを見たのは2度目で、1度目はなんとも思っていなかったのに、そのほころんだ朱里の顔が気に入らなくて、つい口調が荒くなってしまった。
「えっ」
朱里はドキッとしたような顔をして正面にいる薫の顔を見た。
「やっぱ芦田が好みなんだ」
「・・・もう、いいじゃん」
「自分はおれのこと、とやかく言っといてこれかよ」
ふうん、とシニカルな表情で薫は朱里を見る。
馬鹿にされたと思ったのだろうか朱里はきっとなった。
「いっ良いじゃない、私が誰かを好きになったら、相手は誰でも迷惑な訳?確かに私に芦田さんは不釣合いかもしれないけど、好きになるくらいいいじゃない。好きになられたって芦田さんの何かが減るわけでもないし・・・ああっもう・・・ダメだ、女度がどんどん下がってくる」
「はっ?」
「あんたと話してるとなんか自分がキツい、がさつな女になる、こういうのダメだ」
「・・・」
また急に訳のわからないことを・・・と薫は思う。
こいつは繊細なのかもしれないけど、たまについていけなくなる。
「芦田さんに会えない・・・こんな私じゃ会えないよ・・・」
どういうお前なんだよ。
今のおまえの何がダメになるんだよ、素のままじゃないか。
「まさか、また酔っ払ったんじゃ・・・」
「またって何よ」
「わかんない、なんか口からでた」
自分でもどうしてそんな言葉が口についたかわからない。
そんな薫のことなど、朱里は気にせずにかぶりをふる。
「もう、やめてよ、もう会いたくない」
「誰とだよ」
「あんたとよ」
「・・・なんだよ、それ、別に会いたいと思って会ってる訳じゃないだろ、おれ等」
「帰る」
「帰れよ、送らないからな」
「結構です、馬鹿にしないでよね」
朱里は席を立つと食事をしたトレイとかばんを手に持って薫をにらみつけるとカウンターのあるほうへ体を向けてスタスタを歩いていく。
店の人に「ごちそうさまでした」と言っているのが見えたが、ごちそうした薫のほうは全く見ないで、そのまま、店を出て行った。
薫は自分で「送らない」と言っておきながら、あいつ本当に道わかってるのか?と一瞬心配になったが、スポーツジムの角を曲がってまっすぐきただけなのだから大丈夫だろう、と判断すると、なんだかなぁとため息をつく。
おれはあいつに振り回されてる気がする。
あいつはなんでも顔に出るから単純でわかりやすいと思わせといて、たまにとっぴでもない所にまで発想が飛ぶから、ついて行くのに必死になる、それでこっちが疲れてしまうんだ。
あいつの話なんてそんなマジになって聞かなくてもいいんだけど、どうも巻き込まれてしまう。
この一週間はあいつの相手ばっかりしていた気がする。
まあでも、明日は週末だしな、と薫は気持ちを切り替えようとする。
上司達との付き合いで、早朝からゴルフだ。
相手に気も使わないといけないのはネックだが、いつもの喧騒を離れて自然の中でスポーツするのも、気分転換になっていいかもしれないな
明日に備えて、そろそろ帰らないと
そう思うと薫は立ち上がる。
自分のコーヒーを手にとって、カウンターへと歩いていった。