鍋、鍋、鍋!
十一月も終わる頃、太陽が出ているが空気はとても寒い。
吹く風は冷たく、木々も葉を散らし、枯れた匂いが満ちている。
この街は本格的に冬を迎えようとしていた。
「今日は鍋、と……」
スーパーの野菜売り場で翔子は白菜を手に取り、少し眺めた後でカゴに入れた。
年齢にそぐわない幼い容姿とそれに見合った低い身長。腰まで届く豊かな金髪と相俟って西洋人形のような可愛らしさがある。娘コーディネートの服装もその可愛らしさを引き立てていた。
カゴを持って店内を歩く姿は一見すると親のおつかいに来た少女に見えなくも無いが、迷いのない足取りと商品を見る目の確かさは完全に主婦のそれだった。
まだ買うべき物はたくさんある。
次の食材を買おうと歩き出すと、翔子は見知った姿を見つけた。
「おい、道隆じゃねえか。おまえも買い物か?」
その声に振り向いた男の子、杉村道隆は少しだけ驚いた表情で翔子を見た。
「あれ、翔子さんも買い物ですか?」
杉村道隆。向島家と家族ぐるみの付き合いのある杉村家の一人息子。厚手のコートに包まれた高校生男子として平均的な身長。容姿も特別に良いと言う訳ではない。だが、どこか人好きのする顔立ちは親譲りの不思議な魅力があり、自然と人が周りに集まってくる。変に大人びた性格が玉に瑕だが。
親同士が全員学生時代からの同級生で、社会に出た後も家が近く、更に子供の歳まで同じという偶然が重なり、翔子にとってはまきる同様自分の息子も同然だ。最近、道隆の両親が仕事の都合で海外に行ってしまったこともあり、翔子は殊更に道隆の事を気にかけていた。
「見りゃ判るだろ」
「まあ確かに」
苦笑混じりに返す道隆に、翔子は当然のように言う。
「これから飯だろ? どうせならウチで食ってけ」
「え、良いんですか? いつもご馳走になってばかりで申し訳ないんですけど……」
「んなこた子供が心配することじゃねえよ。ほら、そうと決まったらカゴ持ちな。今日の飯代の代わりだ」
翔子はカゴを道隆に差し出す。
「……喜んでお供します」
道隆がカゴを受け取ったのを確認して翔子は歩き出す。
「んじゃ肉コーナーに行くぞ」
「了解です。今日は何を作るんですか?」
二人で歩く姿は兄と妹が仲良く買い物をしているように見える。だが、実際は色々と真逆だ。
少し遅れてついて来る道隆に翔子は言う。
「寒い日とかけて野菜たっぷりととく。そのこころは?」
「…………鍋、ですか?」
翔子は振り向き、腰に手を当て不敵に笑った。
「おう、鍋だ。美味いもん食わせてやるから、期待しとけよ?」
道隆は立ち止まって笑う。
「翔子さんの料理が美味しくない訳ないですよ。あ、そうそう、昨日何故かまきるが野菜炒めを持ってきたんですけど…………」
ちょっと油っぽくて、と道隆は話しながら歩き出す。翔子も笑いながら隣を歩く。
さっさとこいつとまきるがくっつけば、あたしも安心なんだけど。
翔子はそんな事を思いながら買い物を続けた。
向島家は立派な一軒家だ。光太郎の頑張りもあり、ローンはもう払い終えている。
そんな向島家の玄関を開け、翔子と道隆はリビングへと向かう。
「お母さんおかえりー、って道隆君?」
少しだらしない格好でソファに寝そべっていたまきるは、上半身だけ起こした状態で声を上げた。
黒く滑らかな髪は肩に届くか届かないかくらいで、翔子譲りの整った顔立ちは愛嬌がある。結局部屋着にした冬用の体操服は中学校のものだが、直に見えなくても陸上で磨かれた脚線美は隠せない。
その外見と明るい性格で学校での人気の高いまきるの無防備な姿を見ても、道隆は気にせずに買い物袋を翔子に渡して、その隣の一人掛けのソファに座った。
「いつも通り、今日は晩御飯をご馳走になるようになった」
「ああ、またお母さんに強引に連れて来られたんだ」
「そうとも言う」
今日は鍋だよー、と気の抜けた声を出しながらまきるはまた寝そべる。警戒心の欠片もない姿勢。きっとこの姿を学校の男子が見れば、人生を賭けて突貫してしまうだろう。
洗面所の扉が開く。
「あれ、道隆君じゃないか。今日はウチで晩御飯かい?」
風呂から上がった光太郎は、冷蔵庫から牛乳を取り出しながら言った。
濡れた髪が頬に張り付き、どこか色気の漂う立ち姿。もう何年も焼けていない青白い肌も今は血色が良い。おじさん、と呼ばれる歳だが決してその呼び方は悪い意味ではなく、良い意味で『おじさん』と言える雰囲気を纏っていた。
おじゃましてます、と道隆は頭を下げた。
光太郎は牛乳を入れたコップを片手にテーブルに着く。
「もう聞いたかい? 今夜は鍋だよ」
「はい、聞きました。いつもながらすみません」
「ははっ、『鍋は美味しく楽しく大勢で』が向島家の家訓だからね。むしろ来てくれなきゃ困る」
「そんな家訓あったんですか?」
道隆の言葉に光太郎は茶目っ気のある笑みを向けた。
「今決めた」
「……そんなとこだろうと思ってましたけど」
二人の話し声でまどろみから覚めたまきるは起き上がって伸びをする。
「ん~~~っ、ふぅ。おなか空いたー」
光太郎がそんなまきるを見て優しく目を細める。
「まきる、道隆君が来てるよ」
「うん、知ってるよー」
「リベンジしなくて良いのかい? この前ゲームで負けてなにやらって言ってたじゃないか」
「あっ、そうだった! 道隆君、ご飯出来るまであたしの部屋でゲームしようよっ! 今日は負けないからねっ」
「ふっ、また僕に負けたいのか……って、まきるっ。引っ張るなよっ」
まきるに手を引っ張られ、半ば強引に道隆はリビングから退去させられる。
そんな娘とその幼なじみが二階に上がる足音を聞きながら、光太郎は残りの牛乳を飲み干した。
「おいまきる、ちょっと手伝うか…………っていねえのかよ」
手を拭きながらリビングに来た翔子に光太郎は言う。
「道隆君と自分の部屋に行ったよ」
「ったく。料理の勉強したい、なんて言ってから手伝わせるついでに教えようと思ったのに」
「まあまあ、若い二人の邪魔をしちゃいけないよ」
冗談混じりに光太郎は話す。
出来れば本当になれば良いな、と思いながら。
二人が同じ年に生まれる、と知った時、光太郎はその偶然に驚きと共に柄にもなく運命を感じた。道隆の父親である自分の親友も同じシンパシーを感じたらしく、互いに何も言わずとも行動は始まった。
赤ん坊の頃から一緒に遊ばせ、ことあるごとにペアルックを着せ、大人になった時に『わっ、こんな写真恥ずかしいっ。きゃっ』なんて言わせるつもりだった。自分の親友も『これで幼なじみとしての地位は確定だ。もう後は結婚するだけじゃね?』とか言っていた。親友の妻は幼なじみだし、自分もこれで孫の心配はしなくて良いかな、なんて思っていた。
結果として仲良くなりすぎた二人は、逆に近すぎて互いに意識しない存在になっている。
嬉しいような悲しいような、そんな複雑な気持ちを感じながら光太郎は目の前のノートパソコンを開く。翔子が向かいの椅子に座り頬杖をついた。
「また仕事か?」
「うん、そうだよ。料理は良いのかい?」
「はっ、あたしが失敗すると思うか?」
「いや、まったく」
翔子の自信たっぶりな言葉に光太郎は全幅の信頼で返す。
そしてそんな愛しい妻の横顔を見て、あれもまた愛の形かな、と思い直して光太郎は文章を打ち込み始めた。
――出来たぞ、降りてこーい!
「はーいっ!」
階下から聞こえてきた翔子の声に、まきるは手元のコントローラーを操りながら応える。
画面の中でトラのマスクを被った筋骨隆々の男が、外国人の女性にプロレス技をかけた。
King Win!
「やったっ、リベンジ成功っ」
「くっ、…………最後の最後で投げ技かっ……」
悔しがる道隆とは対照的に、まきるは嬉しそうにゲーム機の電源を切った。
「ふふふっ、もう道隆君なんて恐れずに足らずだよっ」
「っ! まきる、その言葉忘れるなよっ」
まるで三下の捨て台詞のような道隆の言葉。まきるは勝利の余韻と共に立ち上がる。
「へへーっ、リベンジはいつでも受けて立つよ。でも今日は夕ご飯が出来たみたいだし、また今度ねっ」
「最後に投げ抜けさえ出来てれば…………」
ぶつぶつ呟きながら道隆はまきるの部屋を出る。
まきるは蛍光灯のスイッチを消そうとしてドアの近くに移動した。
ふと、自分の部屋を見渡す。
掃除が行き届き、綺麗に整頓された部屋にはあまり女の子らしさは無い。友達の女の子の部屋はピンクやフリルの主張する、女の子らしい可愛さに溢れた部屋だった。
陸上一辺倒な自分の部屋はどちらかというと男っぽい。申し訳程度にぬいぐるみがあるが、ストレッチの器具やテーピングの本がそれを上回ってこの場を支配している。本棚の漫画も少年向けの本がほとんどだ。
もう少し女の子らしくした方が良いかなぁ、とまきるが思っていると、先に出ていた道隆が話しかけてきた。
「まきる、何やってんだ? 早く行くぞ」
「うん」
「あ、そうそう」
道隆はドアの隙間から本棚を指差す。
「あの漫画な、本誌であの御方が復活したらしいぞ」
「えっ、あ、あの御方ってまさか…………」
「もちろんあの御方はあの御方だ。先に降りとくぞ」
「あっ、待ってよー。その微妙な隠し方は卑怯だよっ」
まきるは蛍光灯を消し、先に階段を降りる道隆を追う。
さっきふと考えた事はもう消えてしまった。
「「いただきます」」
向島家ともう一人は鍋を食べ始める。
翔子が注ぎ、まきるが食べ、光太郎は微笑む。
道隆は手元にある野菜たっぷりの小分けされた鍋を食べた。美味い。
翔子が自分のご飯をつつきながら言う。
「道隆、美味いか?」
「ええ、いつも通り美味しいです」
「おう。じゃあ、しっかり食え」
はい、と道隆はまた食べる。やっぱり美味しい。こんなに美味しいのは、最高の調味料を贅沢に使っているからだろう。
「あ、お母さん、醤油とって」
「ほら」
「ありがとー」
まきるが受け取った醤油を自分の鍋に入れる。
「あっ、入れすぎたっ」
「まきる、私のと替えるかい?」
「んー……、いや、大丈夫っ。お父さんも歳だから、摂生しなきゃ駄目だよ?」
「おふっ」
食べ物が変な所に入った光太郎がむせる。それを見て、呆れの入り混じった笑みを浮かべながら飲み物を渡す翔子。
そんな向島家を見て、道隆は自分の両親に思いを馳せる。
「ほら、道隆。はやく食わないと無くなっちまうぞ」
「そうだよ。まきるが全部食べてしまうよ。…………私はもう歳だからあんまり食べないけどね……はぁ」
「お、お父さんっ。さっきのはそういう意味じゃ無いってばっ。み、道隆君も何かフォローしてっ」
が、目の前の騒がしい光景に現実に引き戻された。
家族の関係は血の繋がり。
紛れもない家族に混じって道隆は鍋を食べている。
笑顔の絶えない食卓。みんなで食べる食事。
――どこからどう見ても家族に見える四人が囲むのは、熱く美味しい鍋なのだ。
「美味い」
誰ともなく呟いてまた箸を伸ばす。
今日の晩ご飯は、鍋!
鍋、鍋、鍋! 了