噂の拳、銀髪の懐疑
鉄を打つ音が、朝靄の残るカルデンの街に響き渡っていた。
ガルドの鍛冶場には、焼けた鉄と炭の匂いが満ちている。炉の熱気が頬を舐め、額に浮いた汗が顎先から滴り落ちる。鉄心は素手で真っ赤に焼けた鉄塊を掴み上げ、金床の上に乗せた。
「おい坊主、そろそろ鉄槌使え。見てるこっちの手が痛いわい」
「いや、素手の方がこう、微妙な力加減がしやすくて——」
ドゴォン。
鉄心の拳が鉄塊を叩くたびに、鍛冶場全体が揺れる。ガルドは髭を撫でながら呆れたように笑った。
「まあ、実際綺麗に伸びとるから文句は言えんがのう」
障壁破壊事件から五日。カルデンの街は、ひとつの噂で持ちきりだった。
——ノーマジックが、A級魔法障壁を素手で破壊した。
信じる者は目を輝かせ、嘲笑する者は「酒場の与太話だ」と鼻で笑い、一部の者は得体の知れない恐怖に顔を青くした。
そして今日も、鍛冶場の前には人だかりができている。
「ガルドさん、また見物人増えてるっすね」
「おかげで包丁の注文が三倍じゃ。ありがたいことだぞい」
ガルドは算盤を弾きながら上機嫌だった。だが、ふいに声を低くする。
「じゃがな、鉄心。面倒な連中も来るぞ。噂を聞きつけた腕自慢がな」
言い終わるより早く、鍛冶場の入口に影が差した。
「おい、お前がその噂の筋肉バカか?」
革鎧を纏った冒険者が三人、腕を組んで立っている。先頭の男は傷だらけの顔に獰猛な笑みを浮かべていた。
「C級冒険者のバルガだ。お前がノーマジックのくせにA級障壁を壊したっていう——」
「おう! よく知ってるな!」
鉄心は満面の笑みで振り返った。汗だくの上半身が朝日を浴びて光っている。バルガの目が一瞬、その規格外の筋肉に釘付けになった。
「……で、でかいな。まあいい。腕相撲で勝負だ。俺は素手で岩熊を仕留めたこともある。魔法なしの力比べなら負けねえ」
「腕相撲! いいな、久しぶりだ!」
鉄心の目が少年のように輝いた。ガルドが作業台を間に置き、二人が腕を組む。バルガの腕も太い。冒険者として鍛え上げた筋肉が血管とともに浮き上がっている。
「始め」とガルドが合図した。
バルガが全力を込めた瞬間——
ぱたん。
まるで枯れ枝が折れるような、あっけない音だった。バルガの腕が作業台に叩きつけられていた。鉄心の表情は変わっていない。
「え、もう終わり? もう一回やるか?」
バルガは自分の腕を見つめたまま、言葉を失っていた。
その後、残りの二人も挑んだ。結果は同じだった。三人とも右腕の感覚がなくなったと言いながら、しかし不思議と怒りはなかった。鉄心があまりにも屈託なく笑うので、毒気を抜かれたのだ。
「お前……本当にノーマジックなのか?」
「おう。魔力ゼロだぞ。でもまあ、なんとかなるだろ!」
バルガは首を振りながら去っていった。その背中を見送りながら、ガルドが低く呟く。
「また噂が加速するのう。良いことばかりじゃないぞい」
鉄心は首を傾げたが、ふと何かを思い出したように立ち上がった。
「ガルドさん、ちょっと出てくるっす」
「どこ行くんじゃ」
「この前の障壁んとこ。あそこで荷物ぶちまけられてたおっちゃんたち、その後大丈夫かなって」
ガルドは目を丸くし、それから小さく笑った。
「……行ってこい。夕方までには戻れよ」
カルデンの東区画。ノーマジックが多く暮らす一角は、表通りとは打って変わって狭い路地が入り組んでいた。鉄心が歩くと、すれ違う人々が足を止める。恐怖、驚き、そして——ほんの少しの期待が入り混じった視線。
「あ、あんたは……あの時の」
荷車の修理をしていた老人が、鉄心を見て腰を浮かせた。障壁事件の時、商品を蹴り飛ばされていた商人のひとりだ。
「よう、おっちゃん! 体は平気か?」
「お、おかげさまで……ありがとうございました」
老人は深く頭を下げた。鉄心は照れくさそうに頭を掻いて、壊れかけた荷車の車軸に手をかけた。
「重いもんは任せてくれ。こういうの、筋トレのついでだ!」
歪んだ車軸を素手でぐいと矯正する。老人が目を丸くする横で、近隣の住人たちが一人、また一人と集まってきた。壊れた棚を直し、重い水瓶を運び、崩れかけた壁の石を積み直す。鉄心は汗を光らせながら、次から次へと力仕事を片付けていった。
「あの……本当に、お礼なんて」
「いいっていいって! 体動かすの好きだし、困った時はお互い様だろ!」
東区画に、久しぶりの笑い声が響いた。
◇
グランドール魔法学院。大陸最高峰の魔法教育機関は、白亜の尖塔が雲を突く威容を誇っている。
その図書室は、古い羊皮紙と魔法インクの甘い匂いに満ちていた。高い天井からは魔法の光球が静かに浮かび、無数の書架を淡く照らしている。ページをめくる音と、遠くから聞こえる講義の鐘の音だけが、静寂を満たしていた。
銀髪が、光球の明かりを受けて淡く輝く。
リリアーナ・フォン・アルカディアは、分厚い書物に目を落としていた。碧い瞳が活字の上を滑るように動く。その手元にある本の背表紙には——『魔力特性と身体能力の相関関係・異端の仮説集』と刻まれていた。
「リリアーナ様、聞きました? カルデンの街で、ノーマジックが魔法障壁を壊したって」
隣の席に座る友人——侯爵家の令嬢マリエルが、興奮気味に身を乗り出した。
「馬鹿馬鹿しい」
リリアーナはページをめくる手を止めなかった。
「筋力で魔法を超えるなど、あり得ませんわ。酒場の与太話を真に受けるなんて、アルカディアの学徒として恥ずかしいですわよ」
「でも——教務主任のレヴィン先生が直接見たって話ですわよ?」
ページをめくる指が、一瞬だけ止まった。
「……レヴィン教務主任が?」
「ええ。報告書も提出されたとか。A級障壁を——素手で。それと、その場に分家のレクス様もいらしたそうですわ。アルカディアの名を出して随分と騒ぎを起こしたとか」
リリアーナの眉が、険しく吊り上がった。
「……あの愚か者。分家の者が宗家の名を笠に着て恥を晒すなど。叔父上にはわたくしから報告しておきますわ」
苛立たしげに息を吐いてから、視線を本に戻した。表情は完璧に制御されている。だが、碧い瞳の奥で何かが揺れていた。
——あり得ない。あり得るはずがない。
A級魔法障壁。それは上位魔導士三人がかりで編む、最高強度の防御結界だ。それを筋力で破壊する? 物理的に不可能だ。魔法理論の根幹を否定する行為だ。
——けれど、レヴィン教務主任は嘘をつく人ではない。
「それにしても、リリアーナ様」
マリエルが首を傾げた。
「その本、珍しいですわね。『異端の仮説集』なんて、首席の方が読むような本ではありませんわ」
「……たまたま目についただけですわ」
リリアーナは本を閉じた。その拍子に、自分の細い腕が目に入る。白磁のように白く、華奢で、力を込めても浮き上がる筋はない。
貴族として完璧な腕だ。魔導士として理想的な体型だ。
——なのに、どうしてだろう。
リリアーナは無意識にその腕を反対の手で包み込んだ。すぐに自分の行動に気づき、何事もなかったかのようにペンを取り上げた。
「それよりマリエル、明日の講義の予習は終わりまして?」
「あ、そうでしたわ! リリアーナ様、ノートを見せて——」
「自分でなさい」
冷たく言い放ちながらも、リリアーナの意識はまだ——カルデンの街の噂に引っ張られていた。
◇
学院長室は、最上階の尖塔にある。
窓から差し込む夕陽が、重厚な執務机の上に広げられた報告書を赤く染めていた。古い木と蝋燭の匂いが漂う室内で、白髪の老人が書類に目を通している。
ヴァルター・グリムハルト。大陸最強と称される大魔導士にして、グランドール魔法学院の学院長。
その鋭い目が、報告書の一行一行を舐めるように追っていた。
「——素手による打撃でA級障壁の結晶構造が崩壊。破壊時、対象者の右拳に微弱な光が観測された。魔力反応は検出されず、現時点で原理不明」
ヴァルターは報告書を机に置いた。節くれだった指が、額の皺を押さえる。
「ノーマジックの筋力が、魔法を超える——」
独白が、薄暗い学院長室に落ちた。
「そんなことがあってはならん」
沈黙が降りる。壁に掛かった古い肖像画が、蝋燭の炎に揺れていた。描かれているのは痩せ細った若者だ。骨が浮き出るほど華奢な体に、それでも燃えるような意志を宿した目。画の隅に小さく記された年号は、六十年以上前のものだった。
現在の威厳に満ちた白髪の老人と、肖像画の痩せた青年。同一人物だと気づく者は、この学院にはいない。
ヴァルターの視線が、一瞬だけ肖像画に向いた。すぐに逸らされた。
再び報告書に手を伸ばし、最後のページを開く。レヴィン教務主任の所見が、几帳面な文字で綴られていた。
「『当該人物は魔力を持たないが、その身体能力は既存の理論では説明不能。放置した場合、民衆への影響は予測困難。管理下に置くことを進言する』」
ヴァルターは報告書を閉じた。
長い沈黙の後、呼び鈴に手を伸ばす。数秒で、秘書官が扉を開けた。
「学院長、お呼びでしょうか」
「レヴィンを呼べ」
「は、ただちに」
秘書官が去り、再び静寂が戻る。ヴァルターは椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。
——排除するのは簡単だ。だが、それでは何も分からん。
扉が開き、灰色の瞳の男が音もなく入室した。レヴィン教務主任は一礼し、指示を待つ。
「報告は読んだ」
「はい」
「特例入学試験を実施する」
レヴィンの瞳が、かすかに見開かれた。それはこの感情の薄い男にしては、驚愕に等しい反応だった。
「あの男を——この学院に引き入れろ」
ヴァルターの声は静かだった。だが、その目の奥には——かつて痩せ細った青年が宿していたのと同じ、燃えるような光があった。
「……ありえん。魔法理論の根幹が揺らぐなど、ありえんのだ。だからこそ——この目で確かめねばならん」
夕陽が沈み、学院長室に闇が満ちていく。
大陸最強の魔導士と、魔力ゼロの筋肉男。
二つの世界が交差する瞬間が、静かに近づいていた。




