封印の奥、喰らう闇
修練三日目の朝は、足の裏から目が覚めた。
石床が脈動している。心臓のように。いや、何か巨大な生き物の呼吸のように、一定の間隔で地面が膨らみ、沈む。
「……また、強くなってやがる」
鉄心は寝袋から上体を起こし、素足で地面に触れた。昨日は微かだった振動が、今朝は骨の芯まで響いている。拳甲が手の甲に張り付くように重かった。金属の温度が、昨日より明らかに高い。
朝靄に霞むムスケラの遺跡街路。遠くで水が石を打つ音だけが、等間隔に響いている。
「セレナ先生、起きてるっすか?」
「……寝られるわけがないでしょう」
数歩先の柱の陰から、セレナが顔を出した。目の下に薄い隈。手帳を胸に抱え、すでに何かを書き留めている。
「振動の間隔が昨夜から三割短くなっています。周期は約十二秒。そして——」
セレナが鉄心の拳甲を指差した。
「その紋様の発光パターンが、振動と完全に同期しています」
「ああ、こいつか」
鉄心は拳甲を持ち上げ、眉を寄せた。地面の振動に引かれるように、腕の筋繊維が微かに痙攣する。練筋術の修練を始めてから、この体は地の底の脈動にまで反応するようになっていた。
「……はぁ。つまり、あなたの練筋術が何かを刺激している可能性がある」
「すんません、俺のせいっすか?」
「因果関係はまだ不明です。ですが——」
セレナは手帳を閉じ、遺跡の中心部へ視線を向けた。街路の奥、螺旋状の建造物が霧の中に沈んでいる。
「最深部を調査すべきです。振動の発生源を突き止めないと、修練の継続すら危険になりかねません」
「おう。行くっす」
鉄心は立ち上がり、拳甲を嵌め直した。金属が肌に触れた瞬間、じわりと熱が広がる。
——嫌な予感がする。
体育教師時代の勘だ。校庭で生徒が怪我をする直前、空気が一瞬だけ重くなる。あの感覚に似ていた。
◇
螺旋階段は、終わりが見えなかった。
一段降りるごとに空気が重くなる。温度が下がり、吐く息が白く染まっていく。壁面の古代紋様が鉄心の接近に反応して次々と点灯し、薄暗い階段を青白い光で照らした。
「鉄心さん、壁を見てください」
セレナの声が反響する。鉄心は足を止め、壁に目を向けた。
石壁に刻まれた紋様——それは、グランドール魔法学院の地下書庫で見たものと同じだった。渦を巻く幾何学模様。中心に据えられた拳の意匠。ただし規模が桁違いで、壁一面を覆い尽くしている。
「学院の、あの扉と同じ紋様だ」
「ええ。ということは——」
セレナの声が張り詰めた。
「学院そのものが、この封印機構の一部として建てられた可能性があります。学院の結界が消失した理由、マナの枯渇——全てが、この場所と繋がっている」
鉄心は黙って階段を降り続けた。二百段、三百段。やがて足が平坦な石床を踏んだ。
封印の間だった。
天井は見えない。闇が無限に広がっているようだった。だが壁面の紋様が鉄心の接近に反応して順々に発光し、空間の全容が浮かび上がる。
巨大な円形の部屋。直径は闘技場の三倍はある。床、壁、そして見えない天井——あらゆる面に幾何学紋様が刻まれ、その全てが一つの中心点に収束していた。
部屋の中央に、封印がある。
高さ十メートルはある石柱が林立し、その間を紋様の光が蜘蛛の巣のように走っている。紋様は本来、眩いほどの光を放っていたのだろう。だが今、その半分近くが黒く変色していた。
「……罅が入ってる」
鉄心は呟いた。封印の表面を走る亀裂。黒い変色は罅に沿って広がり、まるで血管のように封印全体を蝕んでいる。
壁面に古代文字が浮かぶ。セレナが強張った手で手帳を開き、解読を始めた。
「大いなる喰らい手、ここに封じられし——」
声が詰まる。
「——目覚めの時、すべてのマナは喰い尽くされん」
言葉が途切れた。天井から石粒が零れ落ち、硬い音が封印の間に長く反響した。
「虚魔。マナイーター」
セレナが手帳を握りしめた。指の関節が白い。
「第四十八話の——いえ、あの地下書庫の文献にあった名前です。鉄心さん、覚えていますか。古代の記録に残されていた、全てのマナを喰い尽くす存在」
「ああ。忘れるわけねえ」
「これが——これこそが魔力枯渇の根本原因なのでは」
セレナの声は、もはや学者のそれではなかった。恐怖を押し殺した、か細い声。
鉄心は封印に近づいた。一歩、また一歩。
◇
三歩目で、全身の毛が逆立った。
封印の向こう側から、圧力が漏れ出している。魔力ではない。鉄心は魔力を感じ取れない。だがこれは——肉体が、本能が、全力で警鐘を鳴らしている。
背筋を這い上がる悪寒。膝が笑う。胃の底が冷たくなる。
鉄心の足が、無意識に半歩下がった。
「……っ」
生まれて初めてだった。この世界に来てから、魔法を受けても、魔獣と戦っても、エリオットの最上位雷魔法を食らっても——一度たりとも退いたことはなかった。
なのに、体が勝手に退く。
拳甲から甲高い軋みが走った。紋様の光が消え、金属全体が氷のように冷たくなる。これまで熱を帯びることはあっても、冷えたことは一度もなかった。まるで自らの力を封じて「逃げろ」と告げているように。
「鉄心さん!」
セレナが駆け寄ろうとして、足を止めた。彼女もまた、その圧力に当てられて膝が折れかけている。
「……こいつはヤベえ」
鉄心の声は、低かった。いつもの快活さが消えている。
「今の俺じゃ、この向こうにいる奴には勝てねえっす。練筋術も制御しきれてねえし——準備が足りねえ」
セレナが息を呑んだ。鉄心が——あの、何でも筋肉で解決できると信じて疑わない男が、限界を認めただけでなく、冷静に状況を分析している。
「退きましょう。情報は十分です。学院に戻って——」
「ああ。退くっす」
鉄心は素直に頷いた。セレナの提案に、一切の抵抗なく。それが逆に、この場の異常さを物語っていた。
二人は記録を取りながら後退を始めた。セレナは壁面の古代文字を手帳に写し、鉄心は封印の亀裂の位置と規模を目に焼き付ける。
螺旋階段の入口まで戻ったとき、鉄心が足を止めた。
「先生、先に行っててくれっす」
「……何をする気ですか」
「一言だけ、言っておきてえ」
セレナは何か言いかけて、口を閉じた。数秒の沈黙の後、小さく頷いて階段を上り始める。
鉄心は封印に向き直った。
黒く変色した石柱。罅割れた紋様。その向こうに蠢く、途方もない存在。
右の拳を、ゆっくりと掲げた。
「待ってろ」
声は静かだった。だが、封印の間全体を満たすほどの重みがあった。
「必ず強くなって戻ってきてやる」
拳甲の紋様が、一瞬だけ強く輝いた。応えるように——あるいは、約束を刻むように。
鉄心は拳を下ろし、踵を返した。
その刹那。
封印の罅から、黒い霧が噴き出した。
音もなく。蛇のように床を這い、鉄心の足元に到達する。
鉄心が一歩踏み出した場所——たった今まで立っていた石床が、黒い霧に触れた瞬間、灰に変わった。
石が。数千年を耐えた古代の石床が。触れただけで、砂のように崩れ落ちる。
鉄心の背中を、冷たい汗が伝った。
——こいつは、マナだけを喰うんじゃない。
灰になった石床の跡を見つめる。生命そのものを喰らう力。魔法で対処できる次元の話ではない。
黒い霧が、罅の奥へゆっくりと引いていく。まるで味見を終えた舌のように。
鉄心は無言で階段を駆け上がった。
拳甲が、まだ冷たいままだった。




