灯火なき街道
砂利を踏む靴底が、やけに大きく響いた。
王都を発って三日目。南へ延びる王立街道は、かつて白い石畳で舗装されていたはずだ。だが今、リリアーナの足元にあるのは罅割れた石と、その隙間から伸びた雑草だけだった。
「……また消えましたわ」
街道の左右に等間隔で立つ魔法灯。王都近郊では柔らかな白光を放っていたそれが、昨日の昼からひとつ、またひとつと暗くなっていった。今では十本のうち一本も灯っていない。
リリアーナは外套の襟を掻き合わせた。朝靄がまだ残っている。いつもなら街道沿いの気温調整魔法陣が快適な温度を保ってくれるはずだが、その恩恵はもう感じられなかった。湿った冷気が首筋に纏わりつく。
「寒いか?」
隣を歩く鉄心が、こちらを見もせずに聞いた。
「……別に」
嘘だった。だが認めるのは癪だった。
鉄心は半袖のままだ。この男はいつも半袖だ。百九十五センチの巨躯が朝靄の中を悠然と進んでいく様は、まるで移動する城壁のようだった。寒さなど概念の外にいるらしい。
「はい、これ」
鉄心が荷物袋からごそごそと何かを取り出した。使い込まれた外套がリリアーナの肩にかけられる。鉄心の体温が染み込んだ布地が、冷えた肌をじわりと温めた。
「っ——勝手に触らないでくださいまし!」
「え? でも寒いんだろ?」
「寒くないと申しましたのに!」
「鼻、赤いぞ」
リリアーナは咄嗟に鼻を手で覆った。鉄心がからからと笑う。
——外套は、返さなかった。
◇
正午を過ぎた頃、最初の転送陣を見つけた。
街道の分岐点に設置された大型転送陣。王都と辺境を結ぶ物流の要だったはずのそれは、完全に沈黙していた。刻まれた魔法文字は色を失い、中央の魔力結晶は罅だらけで、触れれば崩れそうだった。
「セレナ先生、これ——」
リリアーナが振り向くと、セレナは既に転送陣の基部にしゃがみ込み、罅割れた魔力結晶を目を細めて観察していた。古地図と照合しながら、表情を険しくしている。
「転送陣の停止は三十二基目。通信結晶の沈黙は昨日から途切れなし」
セレナは計測器の数値を睨みつけ、唇を引き結んだ。学者の目をしていた——未知の脅威を前にした、恐怖と探究心が同居する目。
「予想を大幅に超えています。この速度は——正直、怖い」
「つまり?」
鉄心が首を傾げる。
「つまり、魔法が死にかけているということです。既存の枯渇モデルでは説明がつかない。何か、私たちが知らない要因が進行を加速させている」
セレナの声に、いつもの余裕はなかった。だがその代わりに、真実を掴もうとする切迫した意志が滲んでいた。
カイルが分岐点の先に立ち、街道の両方向を見渡していた。腰の革袋から取り出した羊皮紙に、分岐路の方角と転送陣の停止位置を素早く書き込んでいく。
「帰りのルートも記録しておきます。枯死域では目印が消えてるかもしれませんから」
「……助かります。頼みましたよ、カイル」
セレナが短く頷いた。
さらに二刻ほど歩くと、道の先に集落が見えた。——いや、集落だったものが。
家屋は半壊し、畑は荒れ果てていた。魔法で建てられた構造物は自重に耐えきれず崩れ、石と木の瓦礫が道を塞いでいる。
その瓦礫の間に、人影があった。
◇
老人は焚き火の傍に座っていた。
魔法ではない、本物の火だ。乾いた枝をくべ、細い煙が灰色の空に立ち昇っている。老人の周りには二十人ほどの避難民が身を寄せ合い、誰もが疲れ切った顔をしていた。
リリアーナは、息を呑んだ。
魔法のない暮らし。頭では理解していた。だが実際に目にするのは初めてだった。水は川から手で汲み、食事は火で炙り、暖を取るのは薪を燃やして。それは——リリアーナが「野蛮」と教えられてきた、全てだった。
しかし、彼らの目は死んでいなかった。
老人が顔を上げた。鉄心の姿を認めた瞬間、濁った瞳が見開かれる。
「……おぬし、その体は」
「おう、旅の者っす。何かあったんすか、ここ」
鉄心が自然にしゃがみ込む。老人と同じ目線になる。リリアーナはその仕草に、一瞬だけ目を奪われた。この男はいつもそうだ。上から見下ろすことを、しない。
「魔法が死んだのじゃ」
老人の声は淡々としていた。もう何十回も繰り返した言葉のように。
「三月ほど前から、少しずつ。魔法灯が消え、井戸の汲み上げ陣が止まり、家の壁が崩れ始めた。若い者は王都へ逃げたが、わしらのような年寄りは——」
枝をくべる。ぱちり、と火の粉が舞った。
「じゃがな、旅の人よ」
老人の声が変わった。低く、どこか厳かに。
「この辺境には古い言い伝えがある。魔法なぞ広まるずっと前——人が己の拳で獣を倒し、己の足で山を越えていた時代の話じゃ」
リリアーナの耳が、自然と傾いた。
「『魔法が滅ぶとき、拳で世界を砕く王が現れる』——拳の王、とわしらは呼んでおる」
老人の視線が、鉄心の腕に注がれた。外套の袖から覗く、鍛え上げられた前腕。この世界では有り得ない、筋肉の鎧。
「おぬしの腕、久しぶりに見たわ。——わしの爺様も、こんな腕をしておった」
鉄心は照れくさそうに後頭部を掻いた。
「いやあ、俺は王とかそういうのじゃなくて。ただの——」
「王様」
小さな声が割り込んだ。
避難民の影から、幼い少女がおずおずと歩み出てきた。手に一輪の花を握っている。野に咲く、名もない白い花。茎は折れかけ、花弁は砂埃を被っていた。——それでも確かに、生きていた。
少女は鉄心を見上げた。その目には、怯えと、それ以上の何かが宿っている。
「王様、村を助けて」
鉄心が固まった。
リリアーナは、自分の胸の奥が締めつけられるのを感じた。花を受け取る鉄心の指が、少女の小さな手を壊さないよう、信じられないほどそっと動く。
「——おう」
鉄心の声は、いつもと変わらなかった。けれど、花を握る指先だけが、わずかに震えていた。
「なんとかする。まかせとけ」
少女が笑った。歯の抜けた、無邪気な笑み。リリアーナは目を逸らした。視界の端が、滲んでいた。
——あなたは、いつも軽々しくそう言いますのね。
胸の中で呟いた言葉は、責める響きではなかった。
◇
日が落ちた。
一行は崩壊した集落を離れ、街道脇の丘に野営を張った。魔法の天幕ではなく、布と杭を手で組んだだけの簡素なもの。リリアーナは慣れない手つきで杭を地面に打ち込みながら、自分の指先が泥で汚れていることに気づいた。
——以前なら、耐えられなかっただろう。
ガルドが革袋から携帯食料を取り出し、人数分に分け始めた。干し肉と硬いパン、乾燥果実。王都を発つ前に詰め込んだ食料だが、五人で三日も歩けば底が見えてくる。
「水は——あと二袋半じゃな。明日のうちに沢か泉を見つけんと厳しいぞい」
ガルドが水袋を持ち上げて中身を確かめた。魔法浄水陣がまだ機能していた頃なら、川水を汲むだけで済んだ。だが今は、煮沸するための薪も自力で集めなければならない。
「枯死域に入れば、水場そのものが枯れている可能性があります」
セレナが地図に目を落としたまま言った。
「戻り分も含めた計算が必要ですわね」
リリアーナは干し肉を小さく噛みちぎりながら呟いた。魔法で温められた食事しか知らなかった口には、塩気の強い保存食は馴染まない。それでも、文句を言うつもりはなかった。
焚き火を囲む。セレナが古地図を広げ、指先で転送陣の停止位置と枯渇域の境界を追っていた。その横顔に、普段の余裕はない。
「計算し直しました」
セレナの声が、炎の爆ぜる音の隙間に滑り込む。
「枯渇の進行速度は、学院の推定よりはるかに速い。境界の拡大速度から計算すると——数ヶ月以内に、王都圏にも届きかねません」
沈黙が落ちた。
カイルの顔から血の気が引くのが、炎の明滅の中でもはっきりとわかった。それでも彼は手元の羊皮紙から目を離さなかった。ここまでの道程で記録した地形と、セレナの枯渇域の推定範囲を重ね合わせている。
「……数ヶ月」
リリアーナは唇を噛んだ。数ヶ月。父が、母が、幼い弟が暮らす王都が——あの集落と同じになる。
「やるべきことは決まってる」
鉄心が言った。
全員の視線が集まる。鉄心の目が、焚き火の向こう側を見ていた。あの少女からもらった白い花を、大きな掌の上に載せて。
「まず枯死域の中心に何があるか確かめる。原因がわかれば、対処の仕方も見えてくる。——セレナ先生、古地図にあったムスケラって遺跡、中心に近いんだよな?」
セレナが一瞬、目を見張った。鉄心がそんなことを覚えていたことに驚いたのか、あるいは彼の口から「原因」と「対処」という言葉が出たことに。
「……ええ。古地図の記述が正しければ、枯死域のほぼ中央に位置します」
「なら、そこを目指す。ただ闇雲に突っ込むんじゃねえ。水と食料の限界を見ながら、一歩ずつだ」
ムスケラでの撤退の記憶が、鉄心の言葉に重みを与えていた。力だけでは届かない壁があることを、あの時学んだ。
「エリオットとレオンハルトには、学院に残って動いてもらっています」
セレナが補足した。
「グリムハルト学院長の目を盗んで、枯渇に関する禁書の調査と、信頼できる教員への根回しを。——内側からの備えも、必要ですから」
「あいつら、大丈夫かな」
「エリオットは度胸だけは一人前でしょう。……問題は隠密行動に向いた性格ではないことですが」
セレナの口元に、わずかに苦笑が浮かんだ。
リリアーナは自分の拳を握りしめた。以前より深く、迷いなく。背筋を伸ばす——いつの間にか身についた、まっすぐ前を見る姿勢で。
「……そうですわね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「なんとか、しなければなりませんわね」
鉄心がこちらを見て、笑った。いつもの、能天気な笑み。
リリアーナは顔を背けた。胸の奥で何かが軋む。この男のまっすぐさに当てられるたび、自分の中の何かが変わっていく——その感覚が、まだ少し怖かった。
ふと、空を見上げた。
この世界には二つの月がある。白銀のルナと、蒼碧のマーレ。幼い頃から見慣れた光景——のはずだった。
目を疑った。
マーレが暗い。蒼碧の光が途切れ途切れに明滅している。まるで消えかけた魔法灯のように、揺らいでいた。
「セレナ先生」
「……ええ、見えています」
セレナの声が掠れていた。計測器を握る指が、強張っている。
「月のマナ光が弱まっている。……枯渇は、地上だけの問題じゃない」
誰も何も言えなかった。風が吹いた。焚き火の炎が大きく揺れ、全員の影が丘の斜面で歪む。
リリアーナは無意識に隣を見た。鉄心の横顔。明滅する月光に照らされたその表情から——あの能天気な笑みが、消えていた。
花を持つ掌が、静かに握り込まれる。
翌朝。
丘を越えた一行の足が、同時に止まった。
地平線の向こうに広がっていたのは——色のない世界だった。
草も、木も、土さえも。全てが灰に塗り潰されたかのように、一面の灰色が果てしなく続いている。風が吹いても砂埃すら立たない。鳥の声も、虫の音も、何もない。命の気配が——完全に消えていた。
「……これが」
セレナが古地図を握る手が震えた。地図の端に消されかけた文字が、朝日に透けて浮かび上がる。
「虚無の大地——」
灰色の世界が、一行を静かに待ち受けていた。




