沈黙の裏側
先頭の騎士が振り下ろした剣から、紫黒の雷撃が迸った。
紫電が視界を灼いた。髪の毛が逆立つほどの魔力が、調査隊の正面に叩きつけられる。
「——おう」
鉄心が一歩前に出た。
それだけだった。
右手を開き、雷撃の軌道を見極めた。真正面ではなく、半歩横に踏み込む。掌が紫黒の電流を斜めに受け流し——地面へ叩き落とした。石畳が爆ぜ、衝撃波が低く広がって騎士団の馬脚を掬う。
黒い外套が砂塵の中で翻る。馬が嘶き、数名の騎士が体勢を崩して鞍から落ちた。
「な——」
先頭の騎士が、兜の奥から掠れた声を漏らした。剣の切っ先が、宙で定まらなくなっている。
「悪ぃな。通してくれ」
鉄心は笑っていた。だがその笑みの裏で、足元の地面に亀裂が走っている。踏みしめた片足が、石混じりの街道を陥没させていた。
——圧。
言葉ではなく、肉体そのものが放つ威圧。魔力ではない。純粋な質量と力が生み出す、原始的な恐怖。
粛清騎士団は、道を開けた。
誰一人、剣を向けられなかった。
◇
王都グランドールの尖塔が夕闇に溶け始めた頃、調査隊は正門をくぐった。
石畳を踏む足音が、門番の詰所に跳ね返る。秋の終わりの風が、旅の汗と埃の匂いを攫っていった。
「——学院長室に直行します。全員、ついてきなさい」
セレナの声には、旅の疲れを押し殺した硬さがあった。外套の内側で、金属板が肋骨に当たるたびに冷たい感触を返す。
学院長室の重い樫の扉が開く。
蝋燭の灯りが、室内を琥珀色に染めていた。古い羊皮紙と蜜蝋の匂い。壁一面の書架には、何百年分もの魔法研究書が並んでいる。
ヴァルター・グリムハルトは、執務机の向こう側に座っていた。
白髪を後ろに撫でつけた長身の老人。鋭い目が、入室した調査隊の一人一人を射抜くように見据える。その視線が鉄心の上で一瞬止まり、すぐに逸らされた。
「報告を」
短い一言。だがその声は、いつもの威厳とは違う何かを纏っていた。乾いている。喉の奥で、何かが詰まっているような。
セレナが一歩前に出た。
「マナ枯渇域の実測データです。半径三リーグにわたり、大気中のマナ濃度が基準値の七パーセントまで低下していました」
報告書を机上に置く。ヴァルターの視線が、数値の羅列を追った。
「古代地下遺跡を発見しました。推定三千年以上前の文明遺構です。魔法に依存しない技術体系——『練筋術』と呼ばれる身体強化の記録が残されていました」
ヴァルターの指が、報告書の端を掴んだ。指の関節が白くなっている。
「さらに、文献の著者に『E・G』というイニシャルが——」
「十分だ」
遮るように、ヴァルターが言った。
蝋燭の炎が大きく揺れ、壁に映る影が歪む。どこか遠くで、夜番の鐘が鳴った。
「……その報告書は提出するな」
声が低い。地の底から這い上がるような響き。
「学院長」セレナの眉が跳ねた。「これは学術調査の正式な——」
「魔力枯渇などという妄言が広まれば、王国は混乱する」
ヴァルターは立ち上がった。椅子が軋む音が、静まり返った室内に響く。
「秩序を守るためだ。この報告書は存在しなかったものとする」
「しかし、データは——」
「データがどうした」
ヴァルターの声が、一段上がった。蝋燭の炎が大きく揺れる。
「測定器の誤差。遺跡の年代推定の誤り。いくらでも説明はつく。セレナ教諭、君は優秀な研究者だ。だからこそ分かるだろう。一つの調査結果で三千年の魔法文明を否定することが、どれほど——」
「否定ではありません」
セレナが食い下がった。その声は平坦だったが、握りしめた爪が掌に食い込んでいた。
「事実の記録です。マナ濃度は実測値であり、誤差の範囲を逸脱しています。あの遺跡の規模と精度は、少なくとも現代と同等以上の——」
「知った気になるな!」
ヴァルターが叫んだ。
リリアーナが半歩後ずさり、セレナの肩が石のように固まった。
学院長が、声を荒らげた。大陸最強の大魔導士と称される男が、顔を紅潮させ、拳を机に叩きつけた。インク瓶が倒れ、黒い液体が報告書の上に広がっていく。
「儂がどれだけの歳月をかけて——」
そこで、ヴァルターは口を噤んだ。
まるで自分の声に驚いたかのように。吐き出しかけた言葉を、無理やり喉の奥に押し戻すように。
室内に、インクが机の端から滴り落ちる音だけが響く。
誰の喉からも、声が出なかった。
「……あんた」
鉄心の声が、沈黙を破った。
静かだった。いつもの能天気な響きはない。低く、真っ直ぐな声。敬語も砕けた口調も剥がれ落ちた、剥き出しの言葉だった。
「知ってたんだな。全部」
ヴァルターの手が震えた。
机の上に置かれた両手。皺の刻まれた、老魔導士の手。拳を握ろうとして、握りきれずにまた開く。それを繰り返している。
「枯渇のことも。古代文明のことも。練筋術のことも」
鉄心は一歩も動かなかった。ただ立って、ヴァルターを見つめている。百九十五センチの巨体が、蝋燭の影を背負って揺るがない。
「だから俺を学院に入れた。違うか」
ヴァルターは答えなかった。
答えられなかった。
白髪の老人は、じっと自分の手を見下ろしていた。書架の蝋燭が一本、燃え尽きて消えた。煙の細い筋が、天井に向かって立ち昇る。
「……下がれ。全員」
絞り出すような声だった。
「学院長——」
「下がれと言っている」
二度目の命令に、もはや威厳はなかった。ただ、疲弊した老人の懇願があった。
セレナが静かに一礼し、踵を返す。リリアーナが唇を噛みながら続く。鉄心は最後まで動かず、やがて小さく頷いて背を向けた。
扉が閉まる直前、リリアーナは見た。
ヴァルターが、机の引き出しを開けるのを。中にある古びた手甲の欠片——星鉄鋼と同じ光沢を放つそれを、震える手で掴み上げ、額に押し当てるのを。まるで祈るように。あるいは、許しを乞うように。老人の唇が微かに動いたが、その言葉は扉の向こうへ届かなかった。
◇
廊下を歩きながら、セレナは外套の内側に手を当てた。金属板の冷たさが、まだそこにある。
「……報告書とは別に、個人的な研究ノートとして全データを保全してあります」
小さな声で、セレナは呟いた。誰に言うでもなく。だが隣を歩くリリアーナの耳には、確かに届いていた。
「セレナ先生」
「何ですか」
「記録の抹消は——隠すべき真実があることの、証明ですわ」
セレナは足を止めなかった。ただ、微かに頷いた。
鉄心は二人の後ろを歩きながら、学院長室の方を振り返った。閉ざされた扉の向こうに、一人残された老人の姿を思い浮かべる。
——あの手の握り方は。
鉄心は知っていた。前世で、何度も見てきた。
生徒を守れなかった教師の手。正しいと信じたことが、正しくなかったと気づいた瞬間の手。長い年月をかけて積み上げたものが、根元から揺らいだ時の手。
そして——あの手を、ただ見ているだけだった自分も知っている。職員室で同僚が追い詰められていた時、「俺の担当じゃないし」と目を逸らした。体育教師にできることなんてない、と。
だが今は違う。
あの枯死域で、マナを失った村人たちが鉄心を見上げた目を思い出す。魔法なしで生きる術を、教えてくれないかと問うた老婆の声。自分の拳が誰かを守れることを、この世界に来て初めて知った。
守れるなら——導くこともできるはずだ。
「……おっさん」
誰にも聞こえない声で、鉄心は呟いた。
「待ってろ。あんたが握り潰せなかったもん、俺が受け取ってやるから」
◇
翌朝。
秋の朝霧が学院の中庭を白く覆う中、セレナの研究室の扉に一通の封書が差し込まれていた。
学院長印の赤い封蝋。中の文面は短かった。
『調査隊報告書第七三二号は、記録の不備により公式記録から抹消された。なお、セレナ・ミスティカ教諭に対し、以後の独自調査行為は学院規則第十七条に基づき反逆罪として処断する旨、通達する』
セレナは便箋を机に置いた。呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。
だがその目は、怯えてはいなかった。
引き出しを開ける。中には、調査データの全てが記録された研究ノートが収められている。金属板から書き写した練筋術の図解。マナ濃度の実測値。古代遺跡の構造図。E・Gのイニシャルについての考察。
セレナは引き出しを閉め、鍵をかけた。
「——反逆罪、ですか」
静かな声が、朝霧の中に溶えた。
「真実を記録することが反逆なら——この国の秩序とは、一体何を守っているのでしょうね」
窓の外で、学院の鐘が朝を告げた。
だがその音は、いつもより重く、どこか軋んでいるように聞こえた。




