魔法なき荒野を歩く者
足元の草が、枯れていた。
つい数歩前まで青々としていた街道脇の雑草が、境界線を引いたように灰色に変わっている。踏みしめると、乾いた音を立てて砕けた。土の匂いすらしない。生命の気配を根こそぎ吸い上げられたような、空虚な大地の感触だけが靴底に伝わってくる。
鉄心は膝をついたセレナに駆け寄った。
「セレナ先生! 大丈夫っすか!」
返事はなかった。セレナは額に脂汗を浮かべ、両手で地面を掴むようにして身体を支えている。呼吸が浅い。その隣で若手魔導士の一人が完全に意識を失い、もう一人は嘔吐していた。
魔力が、消えたのだ。
水の中にいた魚が突然陸に打ち上げられるように、生まれてから常に身体を巡っていた魔力の流れが断たれた。彼らにとってそれは、心臓が止まるのと大差ない衝撃だったのだろう。
「リリアーナ!」
振り返ると、リリアーナは立っていた。——かろうじて。
銀髪が夕風に揺れている。その白い手が、小刻みに震えていた。唇を引き結び、必死に膝が折れるのを堪えている。碧い瞳の奥に、鉄心は見たことのないものを見た。
恐怖だ。
「……大丈夫ですわ」
声が掠れていた。嘘だとわかる。でも鉄心は、それ以上は訊かなかった。
「おう。じゃあ頼むぜ、しっかり掴まっててくれ」
鉄心は意識を失った若手魔導士を左肩に担ぎ上げ、嘔吐している魔導士を右脇に抱えた。セレナの腕を自分の首に回させ、背中に負ぶった。合わせて三人。総重量は二百キロ近い。
ふと、胸の底がざわついた。前世で、猛暑の体育祭の日を思い出す。生徒が次々に倒れて、自分だけが平気で立っていた。倒れた生徒を保健室に運ぶことしかできない——あの焦りと同じものが、今、喉の奥に込み上げてくる。
星鉄鋼の拳甲が、鈍い金属光沢を放っている。枯死域に入っても、その輝きに一切の変化はなかった。魔力を通さない星鉄鋼は、魔力がなくなっても何も変わらない。当たり前だが——この場において、その「当たり前」は奇跡に等しかった。
「村まで、十五キロ以上あるか。——よっしゃ、ちょうどいいトレーニングだな!」
声を張った。わざと笑った。背中のセレナを不安にさせたくなかった。
鉄心は歩き出した。
◇
乾いた風が頬を撫でる。温度はあるのに、どこか生気を欠いた風だった。
鉄心の足取りは、三人を担いでいるとは思えないほど安定していた。街道の石畳は罅割れ、ところどころ陥没している。魔法で維持されていた道が、魔力を失って崩壊したのだ。鉄心は無言で段差を避け、倒れた街路樹を跨ぎ、ひたすら前へ進んだ。
「……っ」
背中でセレナが小さく呻いた。意識はあるが、身体が言うことを聞かないのだろう。
「先生、無理に喋らなくていいっすよ。俺の背中、広いんで。寝ちまっても落ちないっす」
「……はぁ。こんな時まで、筋肉自慢ですか」
かすれた声で、いつもの調子を返そうとする。それだけで、鉄心は少し安心した。
リリアーナが、少し遅れて歩いている。
足取りが覚束ない。普段なら身体強化魔法で長距離行軍もこなせる彼女が、数キロも歩かないうちに息を切らしていた。額の汗が顎を伝い、ぽたりと灰色の土に落ちる。
鉄心は足を止めた。
「リリアーナ。俺の肩、まだ空いてるぞ」
「……結構ですわ」
即答だった。碧い瞳が、真っ直ぐ鉄心を見上げる。
「自分の足で、歩きますの」
その声には震えがあった。でも、意地があった。鉄心は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「そうか。じゃあ、ゆっくり行こう」
歩幅を合わせた。三人分の重さを感じさせない自然さで、鉄心はペースを落とした。
身体は何ともない。二百キロを担いで十五キロ歩くくらい、筋肉にとっては日課の延長だ。——だが、この静寂の中を歩いていると、別の重さが胸に沈む。みんなが苦しんでいるのに、自分だけが息一つ乱れない。その「何ともなさ」が、誰とも分かち合えないものだと気づいた時——前世の体育教師の記憶が重なった。運動が苦手な生徒の気持ちは、どれだけ寄り添おうとしても、本当には分からなかった。今は、その逆だ。
沈黙が続いた。枯死域には虫の声もない。風が枯れ草を撫でる音と、二人の足音だけが街道に響いていた。
「——ねえ」
リリアーナが、前を向いたまま口を開いた。
「あなたは、怖くないの?」
「ん? 何が?」
「この場所。魔法が、何も使えない場所。私たちにとっては——」
言葉が途切れた。唇を噛んでいる。
鉄心は少し考えた。正直に答えることにした。
「怖くはねえな。——っていうか、なんか空気が澄んでて気持ちいい」
「…………」
「あ、いや、悪い。みんなが辛い時にそういうこと言うのは——」
「いいの」
リリアーナの声が、不思議と穏やかだった。
「あなたはそうなんでしょうね。魔法なんて最初から、あなたの世界にはなかったんですものね」
鉄心は答えなかった。代わりに、街道の先を見た。夕闇に沈みかけた空の下、村の輪郭が少しずつ近づいていた。
「——知ってます?」
リリアーナが、独り言のように続けた。
「私、六歳で初めて魔法を使った日のこと、今でも覚えていますわ。父が『さすがアルカディアの血だ』と笑って。母が泣いて喜んで。——私の価値は、あの日から始まったの」
灰色の街道に、二つの影が長く伸びていた。
「もし魔法がなかったら。最初から、何も使えなかったら。父は——」
声が震えた。鉄心は振り返らなかった。振り返ったら、彼女は泣いてしまうだろうと思ったから。
「俺の昔の話、したっけ」
唐突に、鉄心は言った。
「昔、別の場所でガキどもに身体の動かし方を教えてたんだ。走り方とか、ものの投げ方とか。魔法なんか関係ない、身体の使い方だけ」
「……」
「でもな、それだけで十分だったんだよ。走れなかったやつが走れるようになった時の顔とか、できなかったことができた時の叫び声とか。——魔法がなくても、人は変われる。俺はそれを、ずっと見てきた」
鉄心は少し黙った。自分でも驚いていた。普段こんなに長く喋ることはない。でも今、リリアーナには伝えなければならない気がした。
「だからさ。お前が魔法使えなくたって、俺には関係ねえよ」
リリアーナの足音が、一瞬止まった。
——すぐに、また聞こえた。さっきより少しだけ、力強い足取りで。
「……馬鹿」
小さな声だった。でも、震えはなかった。
◇
村の入り口に辿り着いたのは、空が完全に暗くなる直前だった。
鉄心は最初、何かがおかしいことに気づかなかった。街道の報告書では、この辺境の村にはまだ百人近い住民がいるはずだった。煙突から煙が上がり、窓に魔法灯の明かりが灯っているはずだった。
煙はなかった。明かりもなかった。
村は、暗闇の中に沈んでいた。
「——ここ、枯死域の境界から何キロだ」
背中のセレナが、かすれた声で問うた。
「さあ……境界の入り口から、三十キロ近くになるっすかね」
「おかしいですね」
セレナの声に、教師の冷静さが戻りかけていた。
「十年前の調査報告では、枯死域の半径は五キロ程度だったはずです。この村は遥か圏外だった。——つまり」
「広がってるってことっすか」
「……ええ。しかも、想定を遥かに超える速度で進行しています」
鉄心は拳甲を握りしめた。星鉄鋼の冷たさが、妙に心強かった。
村の広場に足を踏み入れた瞬間——鉄心は立ち止まった。
人がいた。
十数人の村人が、広場の中央に固まって立っていた。いや、立っているというより——立ち尽くしている。誰一人として動かない。腕を垂らし、肩を落とし、まるで糸の切れた操り人形のように。
月明かりに照らされたその目は、虚ろだった。
一人の老婆が、鉄心たちに気づいて首を動かした。動作がぎこちない。魔法で補助されていた関節が、生身の動きを思い出せずにいるかのようだ。
「——水が、出んのじゃ」
枯れた声だった。
「火も起こせん。飯も炊けん。魔法灯も消えた。三日じゃ。三日、何も——」
老婆の膝が折れた。鉄心が咄嗟に駆け寄り、枯れ枝のような身体を支える。老婆の肌は氷のように冷たかった。三月の辺境の夜、暖房魔法なしの三日間。
「おい、しっかりしろ、ばあちゃん!」
鉄心は担いでいた仲間たちをそっと地面に降ろし、老婆を抱き起こした。周囲を見回す。子供が母親の脚にしがみついている。その母親の目も虚ろだ。井戸の横で、水汲み魔法の代わりに縄を垂らそうとして、縄の結び方がわからず途方に暮れている男がいた。
——魔法しか知らない人間が、魔法を失ったらどうなるか。
その答えが、ここにあった。
リリアーナが鉄心の隣に立った。唇が白い。自分と同じ——いや、もっと深刻な状態の人々を前にして、碧い瞳が大きく見開かれている。
「私は——」
声が漏れた。誰に向けたものでもない、自分自身への問いかけだった。
「魔法がなければ——何もできないの?」
その問いに、誰も答えなかった。
鉄心だけが、拳を握りしめて立っていた。拳甲の星鉄鋼が、月光を受けて静かに光っている。
魔法は使えない。だが、腕はある。足はある。
——さっきまで感じていた、自分だけが平気であることへの落ち着かなさ。それが今、別のかたちに変わった。自分だけが動ける。だったら、自分が動くしかない。体育教師は、倒れた生徒を前にして立ち尽くしたりはしない。
「——おう」
鉄心は上着を脱ぎ、腕まくりをした。
「まずは火だ。薪を集めて、火を起こす。それから水を汲む。飯を炊く。簡単だろ。——魔法なんかなくても、人間はずっとそうやって生きてきたんだからな」
虚ろな目の村人たちが、鉄心を見た。
その中の何人かの目に、微かな光が戻りかけていた。




