出立前夜の鉄と炎
鍛冶場の炉が、低く唸っていた。
赤く灼けた鉄の匂いが鼻腔を焼く。夜風が裏口の隙間から忍び込み、炎の舌先を揺らしている。壁に掛けられた無数の工具が、炉の光を受けて琥珀色に染まっていた。
ガルドは拳甲を万力に固定したまま、小さなハンマーで関節部を叩いている。カン、カン、と規則正しいリズムが、静かな夜の鍛冶場に響く。
「おう、ガルドさん。呼ばれたから来たっす」
鉄心が入口の梁に頭をぶつけながら入ってきた。いつものことだ。この鍛冶場はドワーフの体格に合わせて作られている。
「座れ、鉄心。拳甲の最終調整じゃ」
ガルドは振り返らずに言った。ハンマーの音が止まり、代わりに鑢で関節の噛み合わせを整え始める。金属の粉が微かに舞い、炉の光を受けて星屑のように煌めく。
「辺境への調査隊じゃと聞いた。セレナ先生がようやく上を動かしたか」
「みたいっすね。俺はよくわかんねえけど、セレナ先生が『行きなさい』って言うから」
「……はん」
ガルドの太い指が、拳甲の星鉄鋼を撫でた。鉄心が初めてこの鍛冶場を訪れた日のことを、ガルドは覚えている。魔法鍛冶が当たり前の世界で、火と鉄と腕力だけで鍛える自分を「すげえ」と目を輝かせた、あの馬鹿みたいに真っ直ぐな男。
「ほれ、嵌めてみろ」
差し出された拳甲を、鉄心が両手に装着する。拳を握り、開く。握り、開く。以前より滑らかに動く関節部に、鉄心の目が丸くなる。
「おお! すげえ、前より軽い!」
「軽くはしとらん。関節の可動域を広げただけじゃ。お前さんの拳の振り方に合わせて削り直した」
ガルドは棚から革袋を引っ張り出し、鉄心の前に置いた。ずしりと重い。
「携帯食料じゃ。干し肉と、儂の特製パン。辺境じゃ魔法で食料を保存できんかもしれん。昔ながらの塩漬けと燻製が頼りになるだぞい」
「ガルドさん……」
「何じゃ、その顔は。湿っぽいのは嫌いだぞい」
ガルドはそっぽを向いて、炉に炭をくべた。炎が勢いを増し、二人の影を壁に大きく伸ばす。
「いいか、鉄心」
炉を見つめたまま、ガルドの声が低くなる。
「何かあったら、いつでも戻ってこい。儂の鍛冶場は——お前さんの家じゃ」
同じ言葉を、前にも聞いた。学院に入る前の夜だった。あの時も炉の前で、同じ火の色に照らされて。
鉄心は拳甲を嵌めたまま、ガルドの肩をぽんと叩いた。ドワーフの身体が揺れるほどの力で。
「おう。行ってくるぜ、親父」
「……親父言うな。儂はまだ二百歳だぞい」
ガルドの口元が、かすかに歪んだ。笑っているのか、泣いているのか。炉の明滅が、その表情を曖昧にしていた。
◇
翌朝。王都の東門に、調査隊の馬車が三台並んでいた。
石畳を踏む軍靴の音、馬の鼻息、荷を括る革紐の軋み。早朝の空気は冷たく、吐く息が白い。春はまだ遠かった。
セレナが出発前の点呼を取っている。若手魔導士が五名、護衛が二名。そして——
「あ、リリアーナ?」
鉄心が目を瞬かせた。三台目の馬車の陰から、銀髪の少女が姿を現す。旅装に身を包んだリリアーナは、いつもの学院の制服とは違い、実用的な革のコートを羽織っていた。
「……何ですの、その間の抜けた顔は」
「いや、お前も来るのか? 知らなかったぞ」
「わたくしが志願しましたの。辺境の魔力異常を、この目で確認しなければ——」
言葉が途中で止まる。リリアーナの視線が泳いだ。
「……研究のためですわ。それ以外の理由は、ございません」
セレナが書類を捲りながら、小さく溜息をついた。
「フォン・アルカディア。ご実家への連絡は?」
「……必要ありませんわ」
「つまり、内緒で来たと」
リリアーナの沈黙が、答えだった。セレナは溜息をもう一つ重ね、書類に何か書き足した。
「……はぁ。問題が増えましたね。想定通りですが」
馬車の割り振りが決まると、鉄心とリリアーナは最後尾の三台目に乗り込んだ。他の隊員たちが前方の馬車に詰め込まれたのは、鉄心の体格が二人分の座席を占拠するからだ。
馬車が動き出す。車輪が石畳を噛む振動が、座席越しに伝わってくる。
リリアーナは窓の外を見つめていた。朝日に照らされた王都の尖塔が、少しずつ小さくなっていく。生まれてから一度も離れたことのない街並みが、馬車の揺れとともに遠ざかる。
「家の人、心配するんじゃねえか?」
「……お父様には、学院の延長授業だと伝えてありますわ」
「嘘じゃんそれ」
「嘘ではありません。延長——された授業、ですもの」
鉄心が声を上げて笑った。馬車が揺れる。リリアーナの頬がわずかに緩む。
しばらく沈黙が続いた。車輪の音と、馬の蹄の音だけが規則正しく刻まれる。窓から入る風が、リリアーナの銀髪をさらう。
鉄心が腕を組んだまま、目を閉じ始めた。この男は、どこでも寝られる。
リリアーナは横目でその寝顔を見た。無防備な横顔。日焼けした肌に、鍛冶場でついたのか小さな火傷の跡がある。起きている時は嵐のような男が、眠ると子どものように静かになる。
唇が、勝手に動いた。
「……あなたと一緒なら、辺境でも怖くない」
声は、馬車の軋みに紛れるほど小さかった。
鉄心の返事はない。規則正しい寝息だけが返ってくる。
リリアーナは自分の頬に手を当てた。熱い。窓の外に顔を向けて、唇を噛む。
「……聞いていないのなら、いいですわ。聞いていたら——困りますもの」
◇
王都を離れて三日が過ぎた頃、景色が変わり始めた。
最初に気づいたのは、街道沿いの照明魔法だった。等間隔に設置された魔法灯が、三つに一つの割合で消えている。残った灯も光が弱く、昼間だというのに薄暗い影を落としていた。
「セレナ先生、あの橋——」
先頭の馬車からリリアーナが声を上げた。馬車を止めて全員が降りる。
石造りの橋を覆っていた強化魔法の膜が、蜘蛛の巣のようにひび割れている。魔法陣の紋様が所々剥落し、素の石材が露出していた。指で触れると、ぽろぽろと砕ける。
「これ、いつからこうなんだ?」
鉄心が橋の欄干を掴んだ。ミシ、と嫌な音がする。
「定期的に魔法省が維持管理しているはずですが……」
セレナの眉間に皺が寄った。手帳に何か書きつけている。
「王都から三日の距離で、これほどの劣化。辺境だけの問題ではありませんね」
若手魔導士の一人が、不安げに仲間と顔を見合わせた。
橋を渡り終えた先に、小さな宿場町があった。ここが辺境への最後の中継地点だ。セレナが隊員を集め、地図を広げた。
「ここから先は魔力の異常が報告されている地域です。全員で突入するのはリスクが高い。護衛二名と魔導士二名はこの町に残り、中継拠点を確保してください。万が一の連絡と補給を担当していただきます」
護衛の騎士が頷き、若手魔導士の二人も——不安と安堵の入り混じった顔で——承諾した。馬車も二台をここに残し、一台だけで先に進むことになる。
「先発隊は、わたくしと鉄心、フォン・アルカディア、それから——」
セレナは残る三名の若手魔導士を見渡した。
「あなた方三名。計六名で行きます」
馬車が再び走り出す。一台になった車列は、三台の時より心もとない。午後になると劣化はさらに目立ち始めた。道路の舗装魔法が剥がれて土がむき出しになった区間。枯れかけた街路樹——成長魔法が切れたのか、葉が茶色く縮れている。
鉄心は窓から腕を出して風を受けながら、隣のリリアーナをちらりと見た。
「なあ、リリアーナ」
「何ですの」
「お前の魔法、最近なんか変わったか?」
リリアーナの肩が跳ねた。
「な、何のことですの」
「いや、なんつーか……前より元気っていうか、パワフルっていうか」
「ぱ——パワフル?」
リリアーナの声が裏返った。脳裏を、夜中にこっそり腕立て伏せをしている自分の姿がよぎる。握りしめた拳が以前より硬い。革コートの下で、以前より引き締まった二の腕が微かに震えた。まさか、気づかれた?
「武闘大会の時もそうだったけどよ、お前の魔法、前と威力が違う気がするんだよな。なんか、こう——ドンッて感じが増した」
「ドンッ、ですの……」
「言語化できねえけど、身体でわかるんだよ。お前の魔法が当たった時の衝撃が、前より重い」
リリアーナは必死に表情を取り繕った。扇を広げたいが、旅装には扇がない。代わりに革コートの襟を引き上げて口元を隠す。
「き、気のせいですわ。わたくしは日々の鍛錬を欠かしませんもの。魔法の精度が上がるのは当然のこと」
「ふーん。まあ、強くなってんなら良いことだよな」
鉄心はあっさり納得して、また目を閉じた。
リリアーナは胸の奥で渦巻くものを押し殺しながら、窓の外を睨んだ。心臓がうるさい。このまま筋トレを続けていいのか。いや、やめる理由がない。結果は出ているのだから。
——だけど、この男に知られるのだけは。
握りしめた拳の感触が、以前より硬くなっていることに、リリアーナ自身も気づいていた。
◇
夕暮れが近づいていた。
目的地の村まで、あと一刻ほど。西の空が茜色に染まり、馬車の影が長く伸びている。風が冷たさを増し、枯れた草原の匂いが鼻をつく。
街道の魔法灯は、もう一つも点いていなかった。
「そろそろ村が見えるはずですが——」
セレナが地図を広げた瞬間、馬車の御者が手綱を引いた。馬が嘶き、馬車が止まる。
「先生、なんか……頭が」
若手魔導士の一人が、こめかみを押さえて座り込んだ。顔色が青白い。
「わたくしも……急に、眩暈が」
リリアーナが馬車の壁に手をついた。額に汗が浮かんでいる。さっきまで何ともなかったのに、突然足元が揺れるような感覚に襲われた。
セレナが馬車から降りようとして、よろめいた。膝が折れ、地面に手をつく。
「全員——全員の状態は?」
声を絞り出すセレナに、馬車から次々と苦悶の声が返ってくる。若手魔導士たちが頭を抱え、残る二人も壁にもたれかかっている。馬さえも脚を震わせ、不安げに首を振る。
鉄心だけが、立っていた。
「おい、どうした? みんな大丈夫か!?」
リリアーナの肩を支え、セレナに駆け寄り、倒れかけた魔導士を抱き起こす。鉄心の動きに淀みはない。眩暈も吐き気も、何一つ感じていなかった。
「鉄心、あなたは——平気、なの……?」
リリアーナが鉄心の腕にしがみつきながら、信じられないという目で見上げた。
セレナが地面に片膝をつきながら、震える声で呟く。
「……マナ枯死域。文献でしか、読んだことが——」
その言葉の意味を理解する前に、鉄心は気づいた。
空気が、違う。
王都にいた時から常に肌に触れていた、あの微かな魔力の気配。水の中にいる魚が水を意識しないように、当たり前すぎて気づかなかったもの。
それが——ない。
まるで、世界から何かが抜け落ちたように。
「ここから先は、魔法が——」
セレナの声が途切れた。意識を失いかけている。
鉄心は倒れゆく仲間たちを見渡した。自分以外の全員が、見えない力に膝を折られている。
前世の記憶が、不意に重なった。猛暑の体育祭。生徒が次々に倒れ、自分だけが立っていたあの日。倒れた子を保健室に運ぶことしかできなかった——あの時の無力感が、喉の奥に込み上げる。
だが、今は違う。
昨夜、あの中庭で自分が言った言葉が蘇る。——前に立つってのは、一番の仕事なんすよ。
あの時は体育教師の経験として口にした。けれど今、魔法が消えた世界の中で自分だけが立っているこの瞬間——あの言葉は、過去の話じゃなかった。今ここで、自分がやるべきことそのものだ。
倒れている仲間を運ぶだけじゃない。この先に進める人間が、俺しかいない。なら——前に立つ。道を切り開く。それが、この身体を持って生まれた意味だ。
鉄心は立ち上がった。拳甲を嵌めた両手を見下ろす。殴るためだけの拳じゃない。守るための拳でもない。前に立って、道を作るための拳だ。
その視線の先——夕闇に沈む街道の向こうに、目的地の村の輪郭が、かすかに見えた。




