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魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す  作者: ぽんぽこライフ


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沈む月、途絶えた魔法

 王都グランディアの東門に、土埃の匂いが立ち込めていた。


 馬車の車輪が石畳を軋ませる音。子供の泣き声。力なく引きずられる荷物が地面を擦る、乾いた音。


 セレナ・ミスティカは門の脇に立ち、その光景を黙って見つめていた。


 避難民だった。三十人はいるだろうか。痩せこけた頬、焦点の定まらない目。魔法文明の恩恵を享受しているはずの王国民とは思えない、原始的な疲弊がそこにあった。


「辺境のレイムフォード村から来た者たちです」


 門番の報告を受けながら、セレナは避難民の一人——中年の女性に歩み寄った。


「状況を聞かせていただけますか」


 女性の目が、セレナの学院教師のローブを捉えた。魔法使いだと認識した瞬間、その瞳に希望と絶望が同時に宿る。


「——魔法が、消えたんです」


「消えた?」


「ある朝目が覚めたら、何もかも動かなくなっていて。井戸も、保存庫も、防壁も……」


 女性の声が震えた。隣にいた男が引き継ぐように口を開く。


「魔法炉が死んだんだ。冷たい鉄の塊になっちまった。食料の保存魔法も切れて、三日で全部腐った。五日目に防壁が消えたとき、魔獣が——」


 男は言葉を切った。その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。


 セレナの背筋を、冷たいものが這い上がる。


 ——やはり、来たか。


 その言葉を、彼女は飲み込んだ。



  ◇



 学院の研究室に戻ったセレナは、机の上に過去三ヶ月分の報告書を広げた。


 蝋燭の炎が紙の束を照らし、インクの匂いと古い羊皮紙の乾いた香りが混じり合う。窓の外では、避難民に配られた毛布を運ぶ学生たちの足音がまだ続いていた。


 辺境からの魔法不調報告。最初は月に一件。先月は五件。そして今回——村一つが丸ごと魔法を失った。


 指先で報告書の日付をなぞる。点と点が、線になりつつある。


「……ここと、ここ。そしてレイムフォード」


 地図上に印をつけると、不調の報告地点が緩やかな弧を描いていることに気づく。王都を中心に、辺境から内側へ向かって——侵食するように。


 ノックの音。振り返ると、ガルドが太い腕を組んで立っていた。


「セレナ先生、避難民が来たってのは本当かい」


「ええ。レイムフォード村です。魔法が完全に機能停止したと」


 ガルドの顔が強張った。太い眉が中央に寄り、髭に覆われた口元が引き結ばれる。


「……やっぱりか。鍛冶仲間のドルクから聞いとったんじゃ。辺境の魔法炉がおかしくなっとるって。あいつの炉も先月、二日間まったく火が入らんかったそうだぞい」


 セレナの手が止まった。


「それは——いつ頃の話ですか」


「ひと月と少し前じゃ。『魔法なんぞより腕っぷしよ』と笑っとったが、さすがに気味が悪いとこぼしておったわい」


 ガルドの言葉が、もう一つの記憶と繋がる。学期初めの頃、行商人が酒場で語っていた噂——「辺境では魔法が効きにくい場所がある」。あの時は与太話だと切り捨てた。誰もがそう思った。


 だが現実は、噂を追い越していた。


「ガルドさん、ドルクさんの鍛冶場はどこですか」


 地図を指す。ガルドが太い指で一点を示した。


「ここじゃ」


 セレナが印をつけると、弧の線上にぴたりと乗った。


 ——偶然ではない。これは拡大している。


 報告書を束ね、セレナは立ち上がった。椅子が鳴る音が、静まり返った研究室に響く。


「……ガルドさん。もし今後、鍛冶仲間から似た話があれば、すぐに知らせてください」


「おう、任せとけだぞい。だが先生——」


 ガルドが言い淀んだ。視線を落とし、腕を組み直す。


「……あの坊主に話したのかい。鉄心に」


 セレナは答えなかった。ただ報告書を抱え直し、研究室を後にした。



  ◇



 学院長室の扉は、重かった。


 物理的な重さではない。この扉の向こうに座る人物が纏う権威が、空気そのものを重くしている。


「失礼します、学院長」


 ヴァルター・グリムハルトは執務机の向こうで、銀縁の眼鏡越しにセレナを見た。鋭い目つきは変わらない。だが最近、その目の下に以前はなかった翳りがあることに、セレナは気づいていた。


 磨き上げられた机の上に、報告書と地図を広げる。


「辺境のレイムフォード村から避難民が到着しました。魔法の完全停止による被害です」


 ヴァルターは書類を受け取り、一瞥した。


 一瞥だけだった。


「辺境の魔法基盤は元より脆弱だ。季節的な魔力変動の範囲内であろう」


「季節変動で防壁が消失し、村が壊滅することはありません」


 セレナの声は静かだった。だが一歩も引く気はなかった。


「過去三ヶ月の報告を時系列で並べると、不調地点は辺境から王都に向かって弧状に拡大しています。個別の事象ではなく、同一の原因による連鎖的な——」


「些末な地方の問題を、大事のように語るのは教師の悪癖だな」


 ヴァルターの声が、セレナの言葉を断ち切った。


 沈黙が降りる。暖炉の薪が爆ぜる小さな音だけが、広い部屋に響いた。


 セレナはヴァルターの横顔を観察した。彼は報告書を「一瞥した」のではない。最初の一行で内容を把握し、意図的にそれ以上読まなかったのだ。


 脳裏に、先日見かけた書類の断片がよぎる。魔力至純派の密使がヴァルターに渡した紙——「辺境視察報告——異常なし」。


 異常だらけの辺境で、「異常なし」。


 指先が、かすかに冷たくなる。


「……調査隊の派遣を具申します」


「却下だ」


「では、せめて偵察を」


 セレナは一呼吸置いた。次の言葉の重みを、自分自身が受け止めるために。


「魔法が機能しない領域での活動が前提になります。通常の魔法使いでは対応できません」


 ヴァルターの眉が動いた。微かに——だが確かに。


「しかし、一人だけ。魔法に一切依存せず行動できる者がこの学院にいます」


 名前は出さなかった。出す必要がなかった。


 ヴァルターの瞳が、初めてセレナを正面から捉えた。


「……あの男を、か」


「剛田鉄心。魔法が効かない領域で活動できるのは、彼だけです」


 自分の口からその名前が推薦として出ることに、セレナ自身が一番驚いていた。つい数ヶ月前まで「筋肉では魔法に勝てない」と証明しようとしていたのは、他でもない自分だ。


 ——まさか自分の口から、あの人の名前が出るとは。随分と変わったものです、私も。


「認めん」


 ヴァルターが低く唸った。長い指が机の上で組み直される。


「あの者の力を公式に認めることは——」


「公式である必要はありません。非公式の調査で構いません」


 一拍。言葉を選ぶ。


「ただ、現地の状況を確認できる目が必要なんです。避難民の証言だけでは、原因の特定も対策も立てられません」


 ヴァルターは長い沈黙の後、窓の外に目を向けた。夜空に浮かぶ二つの月が、執務室の窓ガラスに映り込んでいる。


「……下がれ。検討する」


 却下ではなかった。セレナはそれ以上食い下がらず、静かに一礼して退室した。


 廊下に出た瞬間、張り詰めていた肩から力が抜ける。壁に背を預け、長く息を吐いた。


 ——検討する、か。あの人の「検討する」は、半分以上「否」を意味するのですが。


 それでも、扉は完全には閉じなかった。それだけで十分だった。



  ◇



 夜の中庭は、秋の冷気に沈んでいた。


 石畳に落ちる二つの月の影。セレナは足を止め、空を見上げた。


 ——おかしい。


 双子月のうち、小さい方の「ミノル」が明らかに暗い。いつもなら白銀に輝くその表面が、くすんだ灰色に沈んでいる。まるで内側から光が漏れ出しているかのような、不吉な翳り。


 入学式の夜にも、あの月は一瞬だけ明滅した。あの時は見間違いだと思った。


 今は、違う。


「……やはり、気のせいではなかったのですね」


 独り言が白い息になって消える。


「お、セレナ先生じゃないっすか!」


 明るい声に振り返ると、鉄心が中庭を横切ってくるところだった。この寒空の下、薄着一枚。しかも両手にレンガ大の石を持って、腕を上下させている。


「……夜に中庭で筋トレですか。なぜ寮の自室でやらないんですか」


「外の方が気持ちいいっすから! 夜風が筋肉に染みるんすよ!」


「……もう聞くだけ無駄でしたね、私は」


 溜息をつきながらも、セレナの視線は鉄心の広い背中に留まった。魔力ゼロ。だからこそ、魔法が消えた世界でも変わらず立っていられる男。


 ——この人を、推薦した。私が。


 その事実の重さを、まだ噛み砕けていない。


「あの、鉄心くん。一つ聞いてもいいですか」


「おう、なんすか」


「もし——魔法がまったく効かない場所に、調査に行ってほしいと言ったら」


 鉄心は石を下ろし、首を傾げた。数秒の沈黙。そして——


「まあ、なんとかなるだろ!」


 その顔には、迷いの欠片もなかった。だが石を地面に置いた手が、一瞬だけ避難民の宿営地の方を向いた。


「……ただ、さっきの避難民の人たちさ」


 鉄心の声が、ほんの少しだけ低くなった。


「俺は魔法使えねえから関係ねえけど、あの人たちは昨日まで当たり前だったもの全部なくしたんすよね。飯も、水も、身を守る壁も」


 脳裏に、遠い記憶がよぎった。災害の避難所を手伝いに行ったことがある。狭い場所に敷かれた毛布の上で、何もかも失った人たちの目。あの目と、さっきの避難民の目が重なった。


 あの時、瓦礫を片付けるだけじゃ足りなかった。怯えた子供たちの前に立って「大丈夫だ、俺がいるからな」と言った瞬間、強張っていた小さな肩がほんの少しだけ下がった。力だけじゃない。その力で前に立つこと——「俺がいるから安心しろ」と背中で示すこと。あの日学んだのは、そういうことだった。


「俺だけ平気ってのは——なんつうか、座りが悪いっすね。だから行くっす。俺にしかできねえなら、なおさら」


 鉄心は拳を開き、閉じた。殴るためだけの拳じゃない。あの避難民たちの前に立つための拳だ。


「それにさ、先生。強えやつが『大丈夫だ』って言やあ、ちょっとは安心するじゃないっすか。昔学んだんすけど——前に立つってのは、一番の仕事なんすよ」


 セレナは何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐く。


 ——筋肉馬鹿だと思っていたのに。この人は、ちゃんと見ている。それだけじゃない。「前に立つ」という言葉——それは、導く者の言葉だ。


「……ありがとうございます。まだ正式な話ではないのですが」


「おう! なんかあったら言ってくれっす!」


 鉄心が再び石を持ち上げ、筋トレを再開したその時——背後で気配がした。


 避難民の宿営地の方から、一人の老人がこちらに向かって歩いてくる。白い髭に覆われた顔。杖に縋るように立つ、痩せ細った体。


 老人の目は、鉄心に釘付けだった。


「おう、じいちゃん大丈夫か? 寒いなら上着貸すぞ」


 鉄心が笑顔で近づいた瞬間——老人の膝が折れた。


 崩れるように石畳に膝をつく。枯れ木のような両手が、止められない震えに支配されていた。


「こ、拳の……王……?」


 掠れた声が、夜の中庭に落ちた。


「伝承の……まさか……」


 鉄心が目を丸くする。セレナの体が凍りついた。


 拳の王——聞いたことのない言葉だった。学院の文献にも、どの歴史書にも記載のない名称。だが老人の目に浮かぶものは、恐怖でも、畏怖でもない。


 ——救い、だ。


 沈みゆくミノルの下。老人の涙が石畳に落ちる微かな音が、やけに大きく響いた。


 ---


 修正箇所の要約(3箇所):


 1. 「前世で体育教師をしていた頃、災害の避難所を手伝いに行ったことがある。体育館に敷かれた毛布の上で」→「脳裏に、遠い記憶がよぎった。災害の避難所を手伝いに行ったことがある。狭い場所に敷かれた毛布の上で」— 地の文の内面描写から「前世」「体育教師」の直接的言及を削除。「体育館」も異世界に存在しない施設のため「狭い場所」に変更。


 2. 「大丈夫だ、先生がいるからな」→「大丈夫だ、俺がいるからな」— 「先生」だと前世の職業を示唆するため、汎用的な一人称に変更。


 3. 「体育教師ん時に学んだんすけど」→「昔学んだんすけど」— セリフ中の前世情報の直接開示を、曖昧な言い回しに変更。第38話で秘密にしている設定との整合性を確保。

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