筋肉の英雄と、消えた魔法
焼きたてのパンの匂いが、朝もやの残る王都の通りに漂っていた。
石畳を踏む足音に混じって、甲高い子供の声が響く。
「せーの、スクワット! いち、にー、さん——」
「もっと腰落とせって! 鉄心のおっちゃんはこうだったぞ!」
ノーマジック区画の路地裏で、七、八人の子供たちが真剣な顔で屈伸運動を繰り返していた。先頭に立つのは、以前鉄心に肩車してもらったマルコ少年だ。頬を真っ赤にしながら、覚えたばかりの動きを仲間に伝えている。
「おっちゃんはな、百回やっても汗一つかかねえんだぞ」
「うそだー!」
「ほんとだって! 武闘大会で見たろ! 雷くらっても立ってた!」
子供たちの目が輝く。マルコの拳は小さく、腕は枝のように細い。それでも振り上げるその姿には、確かな熱があった。
通りがかった八百屋の親父が、腕を組んで目を細める。
「筋肉の英雄、ねえ。ノーマジックの希望の星ってやつか」
隣の魚屋が鼻を鳴らした。
「希望もいいが、貴族様に睨まれなきゃいいがな」
声を潜めたその言葉が、朝の空気に溶けて消えた。
◇
学院の中庭で、鉄心は石のベンチに腰掛けて空を見上げていた。
武闘大会から三日。決勝戦の結果無効——ヴァルター学院長の一声で、あの死闘はなかったことにされた。鉄心自身には謹慎処分が言い渡され、三日間は訓練場の使用を禁じられている。今日がその最終日だった。
カイルが署名を集めているらしい。「決勝結果の再審議を求める嘆願書」と題されたその紙は、三日で百名を超える署名を集めたが、教師会議では「前例なし」の一言で却下されたと聞いた。一方で、マルクスを中心とする一派は「ノーマジックに武闘大会への出場資格はなかった」として、結果無効を当然とする声明を出している。
学院は、真っ二つに割れていた。
体中に残る打撲痕が、エリオットとの死闘を思い出させる。日差しが心地よい。石のひんやりとした感触が、火照った筋肉に気持ちいい。
「おう、いい天気だな」
誰に言うでもなく呟いて、鉄心は大きく伸びをした。
中庭を横切る生徒たちの視線が、以前とは変わっていた。嘲笑や蔑みだけではない。好奇心、畏怖、そして——ほんの少しの敬意。
「あれが筋肉の英雄だって」
「まぐれだろ。エリオット様が本気じゃなかっただけだ」
「でも、結果無効になったよな。学院長が——」
ひそひそ声が途切れた。鉄心がこちらを向いて、にかっと笑ったからだ。
「よう! いい朝だな!」
生徒たちは気まずそうに足早に去っていく。鉄心は首を傾げた。
「……なんか、俺変なこと言ったか?」
背後から溜息が聞こえた。
「……あなたが変なことを言わなかった日を、私は知りません」
セレナが書類の束を抱えて立っていた。目の下に隈がある。
「先生、顔色悪いっすよ? 体動かせば——」
「動かしません」
即答だった。セレナは鉄心の隣に腰を下ろし、声を落とした。
「貴族議会で、あなたの排除議案が出ています」
「はいじょ?」
「学院から追い出す、ということです」
鉄心は腕を組んだ。眉間に皺を寄せて、数秒考え込む。
「つまり……俺がいると困る奴がいるってことか」
「理解が早くて助かります」
「まあ、なんとかなるだろ!」
言葉は、いつもの調子だった。だが、口にした瞬間、かすかに胸の奥が軋んだ。
——前の世界でもそうだった。
体育教師だった頃。問題を起こした生徒を庇って、職員会議で四面楚歌になったことがある。あの時も「なんとかなる」と笑っていた。実際、なんとかなった。だが、庇った生徒が転校していったことも覚えている。自分は平気でも、周りの人間がそうとは限らない。
カイルが署名を集めてくれている。セレナが隈を作るほど奔走している。この人たちに、迷惑をかけているのだ。
その思いは、しかし、言葉にはならなかった。鉄心は黙って拳を握り、それから笑顔を作り直した。
セレナの眉がぴくりと動いた。
「……なりませんよ、普通は」
だが、その声にはいつもの疲弊だけでなく、微かな安堵が混じっていた。この男の根拠のない楽観が、不思議と嫌いになれない自分がいる。
◇
午後の陽が傾き始めた頃、鉄心が訓練場で一人素振りをしていると、入口に人影が立った。
包帯だらけの体を、杖で支えている。蒼い髪が日差しに透けて、淡い光を帯びていた。
「——よう」
鉄心が振り返った。
エリオット・ヴァン・クレストが、そこにいた。
「退院したのか。体、大丈夫か?」
鉄心は駆け寄ろうとしたが、エリオットが片手を上げて制した。
「近づくな。まだ足が——」
言いかけた瞬間、杖が石畳の隙間に引っかかり、エリオットの体が傾いだ。
鉄心の手が、考えるより先に伸びた。
エリオットの腕を掴み、軽々と支える。間近で見る鉄心の掌は、岩のように硬く、そして驚くほど温かかった。
「……離せ」
「おう、悪い悪い」
鉄心が手を離すと、エリオットは自力で姿勢を正した。蒼い瞳が、真っ直ぐに鉄心を射抜く。
「聞きたいことがある」
「なんだ?」
「あの光——」
エリオットの声が、わずかに震えた。
「お前の拳が光った。あれは魔法じゃなかった。俺の雷を砕いた、あの力は——何だ」
訓練場に風が吹き抜けた。砂埃が舞い、二人の間を通り過ぎる。
鉄心は頭を掻いた。
「正直、俺にもわかんねえ」
「わからない、だと?」
「体が勝手に動いたっていうか……なんつーか、筋肉が『いける』って言ってた気がする」
エリオットの眉が吊り上がる。常識的に考えれば、ふざけているとしか思えない答えだ。
だが——あの決勝戦の最後、意識が途切れる直前に見た光を、エリオットは忘れられなかった。
「……もう一度、戦いたい」
その言葉は、敵意ではなかった。唇を引き結び、包帯の下の拳を握りしめている。プライドを砕かれた蒼雷の天才が、それでも前を向こうとしている。
鉄心の顔に、満面の笑みが広がった。
「おう! いつでも来いよ!」
差し出された拳に、エリオットは一瞬だけ目を見開いた。
そして——ぎこちなく、自分の拳を合わせた。
包帯越しに伝わる鉄心の拳の熱さに、エリオットは無意識に唇の端を持ち上げていた。それが笑みだと、本人は気づいていなかった。
◇
夜。
学院長の書斎は、魔法灯の青白い光に沈んでいた。
古い書物と羊皮紙の匂いが充満する部屋で、ヴァルター・グリムハルトは机に向かっていた。皺だらけの手が、一通の密書を開く。
「——魔力至純派からの要請書です、学院長」
暗がりに立つ密使の声には、感情がない。
「筋力崇拝の風潮は、魔法秩序の根幹を揺るがしかねないと。議会は速やかな対処を求めております」
ヴァルターの目が、書面を走る。
排除。処分。隔離。言葉は丁寧だが、意味は一つだ。
「加えて、こちらが辺境の視察報告です。異常なし、と」
密使がもう一通の書類を差し出した。ヴァルターは受け取り、一瞥して机に置いた。
「……ご苦労」
密使が去り、書斎に静寂が戻った。
ヴァルターは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。脳裏に浮かぶのは、闘技場で黄金の光を纏ったあの男の姿。
認めん。
そう言ったはずだ。筋力ごときが魔法を超えるなど、あってはならない。
だが——。
引き出しを開けた。中に、小さな手甲の欠片が入っている。錆びて、罅が入って、原形をほとんど留めていない。
若い頃の自分が、魔力の低さを補おうと密かに身につけていた護拳。誰にも見せたことのない、恥の記憶。
皺だらけの指が、欠片に触れた。
冷たい金属の感触が、遠い日の記憶を呼び起こす。鍛えても鍛えても魔力が伸びなかった少年時代。嘲笑に耐え、拳を握りしめた夜。
ヴァルターの手が、微かに震えた。
「……認めん」
呟きは、誰に向けたものだったのか。
密書に手を伸ばし——署名の欄で、ペンが止まった。
辺境視察報告の「異常なし」の文字が、不自然に整った筆跡で書かれていることに、老獪な魔導士の目は気づいていた。だが今は、それよりも——。
ペン先が、紙の上で揺れている。
その時だった。
バサバサと激しい羽音が、書斎の窓を叩いた。
伝書鳩だ。辺境からの緊急便を示す赤い脚環をつけた鳩が、ガラスに体当たりしている。ヴァルターが窓を開けると、鳩は力尽きたように机の上に落ちた。羽が数枚散り、息が荒い。何日も飛び続けたのだろう。
脚に括りつけられた小さな筒を外し、中の紙片を広げる。
血文字だった。
震える手で、ただ一行だけ書き殴られている。
——魔法が、消えた。
ヴァルターの顔から、血の気が引いた。
手の中の密書が、音もなく床に落ちた。




