鉄と拳の鍛冶場
「家賃の支払いだ! 今月分、耳を揃えて出しな!」
派手なローブを纏った男の指先で、青白い魔法陣が回転していた。朝露に濡れた路地裏に、住民たちの怯えた息遣いが満ちる。
鉄心は拳を握った。
昨夜、あの老婆の鍋から立ち上っていた湯気を思い出す。薄い粥を分け合う暮らし。その中から、さらに搾り取ろうというのか。
「おい、あんた——」
一歩踏み出した鉄心の腕を、横から誰かが掴んだ。昨日マルコと遊んでいた中年の男だ。首を横に振っている。目が必死だった。
「やめてくれ、兄ちゃん。逆らったら、もっと酷いことになるんだ」
「でもよ——」
「前に抵抗した家は、家ごと凍結魔法で潰された」
男の手が震えていた。その震えが、鉄心の腕に伝わってくる。
取立人のローブの男が、住民から銅貨の入った袋をひったくる。足りない分は来週までだ、と吐き捨てて去っていく。鉄心はその背中を、奥歯を噛み締めたまま見送ることしかできなかった。
——前世で、似たような光景を見たことがある。
部活の予算を削られて、道具も買えない弱小チームの生徒たち。職員会議で何度掛け合っても、返ってくるのは「実績を出してから言え」の一点張り。あのときの無力感が、胸の底でじくじくと疼いた。
「……なあ、この辺で力仕事はねえか?」
取立人が消えた後、鉄心は中年の男に尋ねた。殴れないなら、せめて稼いで助けたい。体ひとつでできることを探すしかない。
「力仕事? ノーマジックに仕事なんて——」男は言いかけて、ふと何かを思い出したように眉を上げた。「……街外れの鍛冶場なら、荷運びを探してたかもしれねえ。ただ、あそこの親方は変わり者でな。魔法炉を使わねえんだ」
「魔法炉を使わない鍛冶屋?」
「時代遅れだって笑われてる。ドワーフの頑固者さ」
鉄心の口元が、自然と緩んだ。
「——面白えじゃん」
◇
石畳の坂道を下ると、空気が変わった。
鍛冶場は街の外れ、城壁と丘陵の狭間にぽつんと建っていた。近づくにつれ、熱気が肌を焼く。石炭の焦げた匂いと、金属が打たれる硬い音。規則正しく、重く、腹の底まで響く振動。
鉄心は思わず足を止めた。
——この音、好きだ。
理屈じゃない。体育教師時代、生徒たちがグラウンドを走る足音を聞いたときと同じだ。人の力で何かを動かしている、その実感。
煤けた木の扉を押し開けると、熱波が顔面を殴りつけた。
鍛冶場の中は薄暗く、石炭の炉が真っ赤に燃えている。魔法炉ではない。本物の火だ。火花が散り、鉄を焼く匂いが鼻腔を刺す。
その炉の前に、一人のドワーフが立っていた。
身長は鉄心の胸ほど。だが、腕は丸太のように太い。汗で光る額、煤だらけの革エプロン。振り下ろされるハンマーが、赤熱した鉄塊を正確に叩いている。
——この腕は、本物だ。
鉄心にはわかった。筋肉の使い方が理に適っている。無駄な力みがない。何十年と鉄を打ち続けた体だけが持つ、洗練された動き。
ドワーフが手を止め、鉄心を見上げた。
「なんだ、でけえな。何の用だ」
「荷運びの仕事があるって聞いて来たんすけど」
「ノーマジックか?」
「そうっす」
「……まあいい」ドワーフ——ガルドは顎で奥を示した。「そこの鉄塊を炉の横まで運んでくれ。腰を痛めるなよ、200キロはあるぞい」
部屋の隅に、黒光りする鉄の塊が転がっていた。確かにでかい。普通なら数人がかりで、てこでも使わなければ動かせないだろう。
鉄心は右手を伸ばした。
指が鉄塊の端を掴む。腕に力を込める——というより、いつもの感覚で持ち上げた。片手で。ひょい、と。
「……は?」
ガルドのハンマーが、床に落ちた。甲高い金属音が鍛冶場に反響する。
鉄心は鉄塊を炉の横に置いた。ずん、と床が揺れる。
「ここでいいっすか?」
「ま、待て。今のは——魔法か? いや、お前さんノーマジックだと……」
「魔法じゃないっすよ。普通に持っただけっす」
ガルドが近づいてきた。鉄心の腕を、両手で掴む。太い指が、鉄心の上腕二頭筋をぐいぐいと押した。
「……嘘じゃろ」
目が見開かれていた。瞳の奥で、何かが燃え始めている。
「おおっ! その筋肉、本物じゃねえか!」
ガルドの声が、鍛冶場全体に轟いた。さっきまでの無愛想さが嘘のように、顔がくしゃくしゃになっている。
「魔法なんぞより腕っぷしよ! こんな筋肉、わしは百年ぶりに見たぞい!」
「百年って、ガルドさん何歳——」
「ドワーフに歳を聞くな!」
◇
日が傾く頃、二人は鍛冶場の裏手に座っていた。
ガルドが樽から注いだ琥珀色のエールが、木のジョッキに波立つ。鉄心は一口含んで目を丸くした。麦の香りが濃い。前世で飲んだどのビールより、ずっと旨い。
「うめえ……」
「じゃろう? これも魔法醸造じゃなく、手仕込みじゃ」ガルドがジョッキをぶつけてくる。がつん、と骨太な音。「——お前さん、どこから来たんだ」
「遠いとこっす。ここみたいに魔法がある世界じゃなくて、みんな体を使って生きてた」
「ほう……」ガルドの目が細くなった。「そういう世界が、あるんじゃなあ」
風が炉の煙を運んでくる。石炭の匂いに混じって、夜の草の香りがした。
「ガルドさんは、なんで魔法炉を使わねえんすか」
ガルドはしばらく黙っていた。ジョッキの縁を太い指でなぞっている。
「……曾祖父の代から、うちは手打ちでやってきた。魔法炉が普及してからも、じいさまは頑として変えなかった。『火を操るのは手であって、魔法ではない』——そう言い続けてな」
「かっけえ」
「周りはそう思わんかったがな」ガルドの声が少し低くなった。「今じゃ魔法鍛冶が当たり前。手打ちの武器なんぞ誰も買わん。時代遅れの頑固者——そう呼ばれて久しいわい」
鉄心はジョッキを置いた。
「俺もそうっすよ」
「あん?」
「俺がいた世界でも——筋トレばっかやってる体育教師なんて、時代遅れって言われてた。もっと科学的にやれ、データを使え、って。でも俺は——」
自分の拳を見つめる。
「——体を動かすことでしか伝えられないもんが、あると思ってた」
ガルドが、ふっと笑った。笑い皺が、煤だらけの顔に深く刻まれる。
「似た者同士じゃな、わしら」
二杯目のエールを注ぎながら、ガルドがぽつりと言った。
「そういやな、最近、魔法炉の調子が悪いって鍛冶仲間が嘆いておったぞい。魔力の供給が不安定になっとるらしい。まあ、わしには関係ない話じゃがな」
鉄心には、その言葉の意味するところまではわからなかった。ただ、頭の片隅にひっかかるものがあった。
◇
「よし。お前さん、ちょっとそこに立て」
三杯目のエールを空にしたガルドが、急に立ち上がった。鍛冶場の隅から、厚さ30センチはある鉄板を引きずり出してくる。
「これを——殴ってみろ」
「殴る?」
「お前さんの拳がどこまでやれるか、見たいんじゃ。鍛冶師の目で」
鉄心は鉄板の前に立った。冷えた鉄の表面に、炉の残り火が映っている。
息を吸った。腹の底まで。
そして——振り抜いた。
ドゴォンッ!!
鍛冶場が揺れた。工具が壁から落ち、天井から煤が降る。
鉄板の中央が、拳の形にめり込んでいた。30センチの厚鉄板が、紙粘土のように凹んでいる。
ガルドは凹みに手を当てた。指先が震えていた。
そして——泣いた。
涙が、煤だらけの頬を伝い落ちる。太い腕で目を拭おうともせず、ガルドは嗚咽を漏らした。
「これじゃよ……これが、本物の力じゃ……!」
声が裏返っていた。何十年も認められなかった男の、魂の叫びだった。
「魔法じゃない。道具でもない。肉体だけで——鉄を、曲げおった……!」
鉄心は、何と言えばいいのかわからなかった。ただ、目の前のドワーフが流す涙の意味だけは、はっきりとわかった。
——この人は、ずっと一人で信じてきたんだ。
鉄心は黙って、ガルドの背中にそっと手を置いた。
しばらくして、ガルドが鼻を啜りながら立ち上がった。炉の奥——普段は使わない棚の裏に手を伸ばす。埃をかぶった革の筒を引き出し、中から一枚の羊皮紙を取り出した。
広げられた図面に、鉄心は目を見張った。
拳を包み込むような形状の武具。ナックルガード——拳甲の設計図だ。線は古く、羊皮紙の端は茶色く変色している。
「この設計図は曾祖父の時代のもの——魔法が生まれる前の武具じゃ」
ガルドの目が、炉の火を映して赤く光っていた。
「お前さんの拳に合う武器を——わしが作ってやりたい」
鉄心の胸の奥で、何かが弾けた。炉の奥の暗がりに、見慣れない銀色の金属が鈍く光っているのが目に入った。だがそれについてガルドは何も言わず、ただ設計図を握りしめて、鉄心の顔をまっすぐに見つめていた。




