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魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す  作者: ぽんぽこライフ


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鏡に映る、小さな反逆

 夜風が、開いた窓からレースのカーテンを揺らした。


 リリアーナは自室の鏡台の前に座り、髪を梳く手を止めた。銀髪の隙間から覗く自分の目が、いつもと違う色を帯びていた。


 明日は——準決勝。


 対戦相手は、剛田鉄心。


「……なんで、よりによって」


 呟きが唇から零れた。お嬢様口調が剥がれた素の声。誰も聞いていないことを確認して、リリアーナは深く息を吐いた。


 鏡台の引き出しに手を伸ばす。奥に押し込んだ一冊の本——『魔力特性と身体能力の相関関係・異端の仮説集』。禁書指定こそされていないが、学院の図書館では「非推奨棚」に分類された異端の研究書だ。


 ページを開く。付箋が貼られた箇所には、自分の筆跡でびっしりと書き込みがあった。


『筋繊維の微細な収縮がマナ導管に物理的圧力を加え、魔力伝達効率を向上させる可能性がある——』


 リリアーナは自分の掌を握り、開いた。腕立て伏せを続けたことで、握力が明らかに変わった。以前は杖を長時間握ると指先が痺れたのに、今は柄を握る手が震えない。前腕の内側に、貴族令嬢には不似合いな薄い筋が浮いている。


 だが。


 事実として、筋トレを始めてから魔力の消費効率が改善された。同じ威力の攻撃魔法を、以前より少ないマナで発動できるようになった。理屈は分からない。分からないが、身体が覚えた感覚は嘘をつかない。


「認めたくないけれど……」


 本のページを指でなぞる。古い羊皮紙の匂いが鼻腔をくすぐった。


「あの人の方法にも、理がありますのね」


 窓の外では、二つの月が薄い雲越しに輝いていた。——いや、左の月だけが先月より明らかに暗い。前話の試合で見上げた空よりも、さらに光が痩せている。リリアーナは眉をひそめかけたが、今は明日のことで精一杯だった。本を閉じ、ベッドの脇に立った。


 周囲に気配がないことを確かめる。


 静かに、床に両手をついた。腕立て伏せの姿勢。以前はすぐに腕が震えたのに、今は体幹が安定して、肘の角度を深く取れるようになった。


 一回、二回、三回——。


「明日の……最後の、仕上げ……ですわ」


 息を切らしながら、リリアーナは自分に言い聞かせた。これはアルカディア家の魔法を極めるための、補助的なトレーニングに過ぎない。決して、あの筋肉馬鹿に感化されたわけではない。


 ——断じて。


 十五回を終えて仰向けに倒れ込む。天井の装飾魔法が描く星座が、汗で滲んだ視界の中できらめいた。


 心臓が速い。筋トレのせいだけとは、思えなかった。



  ◇



 鉄を打つ音が、夜の鍛冶場に規則正しく響く。


 炉の炎が放つ熱気が肌を焼き、溶けた星鉄鋼の甘い金属臭が空気に溶け込んでいた。ガルドが槌を振るうたびに、火花が橙色の尾を引いて闇に散る。


「ほれ、嵌めてみろい」


 ガルドが差し出した拳甲を、鉄心は受け取った。両手に装着し、拳を握る。開く。また握る。星鉄鋼が炉の光を受けて、鈍い銀色に輝いた。


「おお、前よりしっくりくるな!」


「当たり前じゃ。お前さんの拳の形に合わせて、接合部を三度打ち直したんだぞい」


 ガルドは樽型の体を椅子に沈め、炉の火を眺めた。髭に絡んだ金属粉が、炎の色を映して光る。しばらくの沈黙のあと、低い声で言った。


「明日の相手——あの銀髪の嬢ちゃんじゃろう」


「ああ、リリアーナだな」


「あの嬢ちゃんは本気で来るぞい」


 ガルドの目が、炎越しに鉄心を見据えた。酒焼けした声に、珍しく真剣な響きが混じった。


「お前さんも本気で応えてやれ。手ぇ抜くのが一番の侮辱じゃ」


 鉄心は拳甲を掲げ、炉の明かりに翳した。星鉄鋼の表面が、鍛え抜かれた鉄特有の深い光沢を見せた。


「当たり前だろ。手を抜いたら失礼じゃねえか」


 その声には、一片の迷いもなかった。


「あいつ、すげえ努力してんだ。魔法の腕もそうだけど——最近、なんつうか、構えが安定してきたっていうか」


「ほう? 魔法使いの構えが分かるんかい」


「いや、身体の使い方の話だよ。重心がブレなくなった。足腰が——」


 鉄心は言いかけて、首を傾げた。


「……なんでだろうな。魔法使いが足腰鍛えるわけねえし」


 ガルドは髭の奥で、にやりと笑った。だが何も言わなかった。分厚い腕を組み、椅子の背にもたれる。


 鉄心は拳甲を外し、自分の掌を見た。ふと、前世の記憶が過ぎった。体育教師だった頃——運動が苦手な生徒が、ある日突然フォームを掴む瞬間。あれを見るのが、何より好きだった。


 今のリリアーナに感じた変化は、あの時と同じだ。誰かが変わろうとしている兆し。


 ——俺は前世で、それを見届ける側だった。


 この世界に来てからは、ただ自分が強くなることしか考えていなかった。だが今、周りには——あのドワーフの親父も、セレナ先生も、レオンハルトも、鉄心の拳を見て何かを感じ始めた奴らがいる。


 ただ殴るだけじゃ、足りないのかもしれない。


「……ガルドさん」


「なんじゃ」


「俺さ、前より——なんつうか、勝つだけじゃなくて、ちゃんと見せなきゃいけねえ気がすんだよな。筋肉で何ができるか。拳一つでも、諦めなくていいんだって」


 ガルドは目を丸くし、それから深く頷いた。


「お前さんにしちゃ、えらくまともなことを言うじゃねえか」


「まともなこと言ったか? 俺」


「言ったぞい。忘れるなよ」


 ガルドが笑い、鉄心も笑った。


「まあ、理由なんぞどうでもええわい。大事なのは、お前さんが全力で拳を振ること。それだけじゃ」


「おう! そこだけは任せとけって!」


 鉄心が拳を打ち合わせると、星鉄鋼が澄んだ金属音を響かせた。炉の炎が、一瞬だけ大きく揺れた。



  ◇



 魔法学院の研究棟、最奥の個室。


 セレナ・ミスティカは、机に広げた三枚の記録紙を順番に指でなぞっていた。紅茶はとうに冷め、窓の外ではとっくに日が落ちた。だが眼鏡の奥の目は、鋭い光を失っていなかった。


 一枚目——鉄心の戦闘記録。筋力による物理攻撃が、魔法障壁を突破した際のマナ波形データ。


 二枚目——リリアーナの最新の魔力測定値。総量は変わらないのに、伝達効率が三パーセント向上した異常値。


 三枚目——学院の一般書庫に埋もれていた古い研究論文。禁書庫の文献とは異なる、閲覧制限のかかっていない資料だ。だがその中に、『肉体練成者』と呼ばれた魔法以前の時代の戦士たちについて、断片的な記述があった。


 セレナは眼鏡を外し、レンズの曇りを拭いた。


 三つのデータを重ね合わせると、一つの仮説が浮かび上がる。鉄心の筋力が魔法に干渉するメカニズム——それは古代の肉体練成者たちが用いていた『肉体練成術』と、本質的に同じものではないか。


 筋繊維の収縮が、マナの流れに物理的な方向性を与える。魔力に頼らず、純粋な肉体の力でマナを「導く」技術。魔法文明が成立する以前、人類が魔物と戦うために編み出した、失われた体系。


 ヴァルター学院長の書斎で見た、あの古い羊皮紙。そこに記されていた概念と、自分が独自にたどり着いた結論が——一致した。


「……まさか、ここまで綺麗に符合するとは思いませんでしたよ」


 セレナはペンの軸を指先で叩きながら、天井を仰いだ。


「……説明できてしまいそうなのが、一番困るんですよ」


 冷めた紅茶を一口含む。苦い。だが、頭の芯に溜まった熱を、わずかに冷ましてくれた。


 この仮説が正しければ、鉄心は単なる「筋肉馬鹿」ではない。三千年前に失われた古代の力を、無意識のうちに再現した存在ということになる。


 記録紙の余白に、セレナはペンを走らせた。


『鉄心の戦闘パターンにおける無意識の体重移動——古代の肉体練成術との類似性について。要検証。』


 ペンを置き、窓の外を見た。闘技場の方角から、淡い光が漏れていた。明日の準決勝に備えて、結界術式の最終点検が行われているのだろう。夜空に浮かぶ左の月が、先週よりもさらに翳って見える。結界の点検頻度が増えたのも、大会のためだけではあるまい。


 そのとき——。


 轟音が、夜空を裂いた。


 蒼い閃光が闘技場の上空に迸り、結界の膜を内側から叩いた。一瞬、結界全体が揺らぐ。セレナは椅子から立ち上がり、窓に駆け寄った。


 闘技場の中央に、蒼い雷を全身に纏った人影が立っていた。もう一つの準決勝——エリオットの試合が、今まさに決着を迎えたのだ。


 対戦相手の上級生魔法剣士が、膝から崩れ落ちる。一撃。たった一撃で、勝負がついた。


 結界が——揺らいだ。エリオットの蒼雷が、闘技場の防御結界に想定以上の負荷をかけた痕跡。セレナの背筋を、冷たいものが走り抜けた。


「あの出力……結界の許容値を超えかけましたね」


 結界を支えるマナは大地から汲み上げている。その大地のマナ自体が痩せてきているとすれば——結界の余裕は、見かけよりずっと少ない。


 呟きは、誰にも届かなかった。



  ◇



 鍛冶場の外に出た鉄心は、夜空に走った蒼い光を見上げていた。


 遠い闘技場から、歓声がかすかに風に乗って届く。鉄心の目が、子供のように輝いた。


「ガルドさん、見たか今の!」


「見えとるわい。派手な小僧じゃのう」


「あれが決勝の相手か……」


 鉄心は拳甲を嵌めたまま、拳を握りしめた。掌の中で、使い込まれた星鉄鋼の感触が手に馴染む。


 口元に、押さえきれない笑みが浮かんだ。


「すっげえワクワクすんな!」


 その視線の先——蒼い雷光の残滓が、夜空にゆっくりと溶けていった。

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