英雄と異端のはざまで
石灰と焦げた木材の匂いが、朝の学院に漂っている。
半壊した東棟の壁を、構築魔法の光が少しずつ修復していく。だが、その光は昨日までより明らかに弱い。魔力の消耗が、学院全体に影を落としていた。
そんな中、食堂の一角だけが異様な熱気に包まれている。
「おかわり!」
鉄心が三杯目のシチュー皿を突き出す。厨房のおばちゃんが「まだ食べるのかい」と目を丸くしながらも、嬉しそうに盛りつけていく。
「鉄心、お前さ、自覚ある?」
向かいの席でカイルがパンを千切りながら、にやにやと笑う。
「自覚?」
「お前、今や学院中の英雄だぞ。魔法が効かない魔獣を素手で倒した男——って、王都にまで噂が広がってるらしい」
鉄心はシチューを口に運びながら首を傾げる。
「いや、腹減っただけなんだけど」
「……そこがお前のすごいところだよ」
カイルは呆れたように肩をすくめ、食堂の周囲に目を向けた。あちこちのテーブルから、鉄心へ視線が集まっている。昨日まで「筋肉バカ」と嘲笑していた生徒たちが、今は畏敬と好奇心の入り混じった表情で彼を見つめていた。
食堂の入口に、人影が現れる。
包帯を巻いた右腕を庇うように、マルクスが立っていた。一瞬、食堂の空気が凍りつく。裁定戦での因縁、そして昨日の魔獣襲撃——二人の間に積もった記憶を、誰もが思い出している。
マルクスが鉄心の前まで歩み寄る。革靴の音が、静まり返った食堂に響いた。
何か言いかけて——口を開き、閉じ、もう一度開く。包帯の下の指先が、微かに震えていた。昨夜、瓦礫の下で動けなくなった自分を、この男が片手で引きずり出した。貴族の誇りも、魔法の才覚も、あの瞬間には何の意味もなかった。
「……借りは返す」
声は低く、硬い。だが裁定戦の後に吐いた憎悪の言葉とは、明らかに何かが違っていた。踵を返しかけて——一瞬だけ足を止める。
「次は……筋力以外の力で」
それだけ言い残し、今度こそ歩き去った。その背中は、以前のように傲慢に反り返ってはいない。
「おう」
鉄心は軽く手を挙げ、何事もなかったようにシチューに戻る。
「いや、もうちょっと反応しろよ」
カイルが突っ込むが、鉄心はすでに四杯目を注文していた。
◇
教務棟の一室。分厚い石壁に囲まれた研究室は、朝日が窓から斜めに差し込み、埃の粒子を金色に浮かび上がらせている。
セレナは机に向かい、羽ペンを走らせている。インクの匂いが鼻先をかすめる。
「魔力場への干渉率が、戦闘中に指数関数的に上昇……」
数値の羅列を睨みつけ、眉間に深い皺を刻む。何度計算し直しても、同じ結果が返ってくる。
「これはもう仮説の域を超えている」
彼女の手元には、昨夜の戦闘で観測された魔力場の記録がある。鉄心が変異種を殴った瞬間、物理的な衝撃とは別の何かが甲殻を貫いていた。あの蒼白い光——魔力ではない。しかし魔力場に干渉する、未知のエネルギー。
「……はぁ。これを論文にしたところで、査読を通る気がしません」
溜息を吐き、紅茶のカップに手を伸ばす。口に含んだ液体は、すっかり冷めきっている。いつ淹れたかも覚えていない。
報告書の最後に、彼女はこう書き添えた。
——この現象の解明なくして、学院の安全は担保できない。
ペンを置き、窓の外を見る。修復中の東棟が視界に入る。魔法で直せる壁と、魔法では倒せなかった魔獣。その対比が、彼女の胸に小さな棘を残している。
◇
女子寮、三階の角部屋。白いカーテンが風に揺れ、朝の光が銀髪に柔らかく注いでいる。
リリアーナは窓辺の椅子に座ったまま、動けずにいた。
昨日の戦闘が、瞼の裏に焼きついて離れない。鉄心が負傷した生徒を助けに駆け出した三十秒間——一人で変異種と対峙した、あの時間。
足が竦んでいた。呼吸が浅くなり、指先が凍えるように冷たくなった。逃げることもできた。誰も責めなかっただろう。それでも逃げなかったのは——。
「三十秒だけ持ちこたえてくれ」
あの声が、耳の奥でまだ響いている。迷いのない、真っ直ぐな声。自分を——信じてくれた。
胸の奥が、じんと熱くなる。
魔法の才能を褒められても、試験で首席を取っても、決して湧いてこなかった温度だ。名門貴族の令嬢として当然の結果を出し続けても、誰かに「お前を信じる」と言われたことなど一度もない。
無意識に、自分の二の腕に手が伸びる。秘密の筋トレで少しだけ硬くなった筋肉の感触。口元が——ほんの少しだけ——ほころぶ。
「……何を笑っていますの、わたくしは」
慌てて表情を引き締める。だが頬の熱は、容易には引いてくれない。
◇
学院最上階、円形の大評議室。
高い天窓から降り注ぐ光が、長テーブルを囲む十二人の評議員を照らしている。椅子の軋む音と、囁き声が石壁に反響していた。
上座にヴァルターが座している。白髪を後ろに撫でつけ、両手を組み、沈黙を保ったまま。
「英雄です! あの少年は表彰されるべきだ!」
軍部出身の評議員が拳をテーブルに叩きつける。
「魔法が通じぬ魔獣を単身で倒したのですぞ。この功績を無視するなど——」
「功績?」
冷たい声が遮る。痩せた顔に金縁の眼鏡をかけた貴族議員——カロッサ伯爵が、薄い唇を歪めた。
「ノーマジックの蛮行を功績と呼ぶのですか。あれは管理されるべき危険因子です。……いっそ、見世物にでもして民の気を紛らわせてはいかが」
「カロッサ卿」
ヴァルターの声が、室内の温度を数度下げる。
老いた瞳が、鋭くカロッサを射抜いた。
「その言葉は、撤回なされよ」
カロッサの口が閉じる。ヴァルターの静かな怒気に、隣席の評議員が思わず身を引いた。
——見世物。その一語が、ヴァルターの中で古い傷口を抉っている。鉄心を玩具にすることへの嫌悪。だがそれは、鉄心への好意ではない。かつて同じ言葉を向けられた、自分自身への——。
沈黙が落ちる。ヴァルターは視線をテーブル全体に巡らせ、ゆっくりと口を開いた。
「あの者は……学院の秩序にとって危険な存在だ」
断言する。その声に迷いはない。
「だが」
一拍の間。
「目の前の脅威を排除したのも事実。当面は監視を強化しつつ、在籍を認める。——これを本評議会の裁定とする」
異論を挟む者はいない。ヴァルターの言葉は、この学院では法に等しい。
だが——席を立ちかけた若い評議員が、低い声で呟く。
「魔力至純派の方々が、この裁定に黙っておられますかな」
何人かの顔色が変わる。ヴァルターはその言葉を耳に収めながら、無言のまま退室した。
◇
評議会が散会し、誰もいなくなった書斎。
ヴァルターは一人、革張りの椅子に深く身を沈めている。暖炉の炎が低く燃え、壁にかかった一枚の肖像画を赤く照らしていた。
若い男の絵だ。引き締まった体躯に、意志の強い目。今のヴァルターとは似ても似つかない——いや、目の奥の光だけが、かすかに面影を残している。
机の上には、昨夜禁書庫から持ち帰った文献が開かれている。三千年前の筆跡が、古い羊皮紙の上に几帳面に並んでいた。
——練筋とは、肉体に宿る原初の力の覚醒を指す。魔力に先立ち、すべての生命に備わりし根源の力——。
何度読み返しただろう。一字一句が、若い頃の自分に向けて書かれたかのように胸を刺す。
「……知っておったのだ。儂は」
声は、自分自身に向けられていた。肖像画の若い男に——かつて肉体を鍛え、この道を歩みかけた自分に。
「魔法を選んだのは正しかった。だが——あの道を捨てたのは、正しさゆえではなかった」
嘲笑だった。「見世物」と呼ばれたあの日。魔力の低い少年が拳を握ることを、周囲が笑い、師が諭し、父が禁じた。だから捨てた。正しいと信じたのではない——耐えられなかっただけだ。
その自覚が、昨夜の文献を読んだ後から、喉元に刺さった骨のように消えない。
ヴァルターは立ち上がり、書斎の奥——書棚の裏に隠された小さな棚を開けた。中には一通の手紙が保管されている。
差出人——E・グリムハルト。
禁書の著者と同じ名。そして——ヴァルターの血を分けた者の名。
震える指で手紙を取り出し、暖炉の火に翳す。
炎の熱が、羊皮紙を通して指先に伝わる。あと数寸。それだけで、過去との繋がりは灰になる。
だが——指が止まる。
炎が手紙の端を舐めかけた、その寸前で。
ヴァルターは手を引き、手紙を棚へ戻す。棚の扉を閉じる。だが今度は——鍵をかけなかった。
「……まだ、答えは出せん」
以前なら「認めるわけにはいかん」と言い切れた。今はその言葉が、舌の上で嘘の味がする。
暖炉の炎が、揺らいでいる。老いた魔導士の影が、壁に長く長く伸びていた。
◇
翌朝。
学院の正門脇にある石の掲示板の前に、人だかりができている。
鉄心は朝の筋トレ帰りに通りかかり、汗を拭きながら生徒たちの頭越しに告知を覗き込む。
「第四十七回グランドール学院武闘大会——開催決定」
その文字の下に、深い藍色のインクで一文が書き添えられている。筆跡は厳格で、一画ごとに力が込められていた。学院長ヴァルターの直筆だと、誰の目にも明らかだ。
「今大会より、使用する力の種別に制限を設けない」
ざわめきが波のように広がる。力の種別に制限を設けない——それは、魔法以外の力での出場を公式に認めるということだ。
掲示板の前を通りかかったセレナが、足を止める。藍色の一文を読み、細く長い息を吐いた。
「……これは、試すつもりですね。あの人を」
その呟きに気づく者は、いない。
鉄心は告知を最後まで読み終え、右の拳を左の掌に打ちつけた。乾いた音が、朝の冷えた空気を震わせる。
「武闘大会か」
白い歯を見せて、笑う。
「——よっしゃ、筋トレで優勝だ!」




