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魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す  作者: ぽんぽこライフ


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23/67

翳る月、響く咆哮

 夕暮れの森は、もう何事もなかったかのように静まり返っていた。


 鉄心は腕を組み、セレナが率いる調査隊の帰還を学院の正門前で待っていた。西日が石造りの門柱を赤く染め、風に乗って湿った土と腐葉土の匂いが漂ってくる。


「結論から申し上げます」


 セレナが調査隊の先頭から歩み出た。いつもの疲れた口調だが、今日はどこか歯切れが悪い。


「痕跡は確認できませんでした。課題で使用した魔法陣が残留マナを放出し、それが野生の低級魔獣を一時的に刺激した可能性が高い、と」


「おう、じゃあ大丈夫だったんすね!」


 鉄心が拳を打ち合わせて笑った。セレナの眉間の皺が深くなる。


「……はぁ。あなたのその楽観主義、一度論文にまとめたいくらいです」


 その隣で、リリアーナが唇を引き結んでいた。銀髪が夕風に揺れる。その碧い瞳は、森の奥——調査隊が引き返してきた方角を、じっと見つめていた。


「リリアーナ、どした?」


「……あの爪痕、低級魔獣のものではありませんわ」


 声が低い。いつもの高飛車な響きが消えている。


「幅、深さ、抉り方。わたくし、文献で見たことがあります。あれはA級以上の魔獣——少なくとも、この森に生息するはずのないものの痕跡ですの」


「ふーん。でっかいやつってことか」


「……あなた、本当に危機感というものがありませんのね」


 リリアーナは溜息をつき、踵を返した。だがその足取りに、普段の優雅さがなかった。



  ◇



 深夜。中庭の芝生は夜露に濡れ、素足で踏むとひんやりと冷たい。


 鉄心は上半身裸で逆立ち腕立て伏せをしていた。百を超えたあたりで、ふと顔——逆さまの顔を上げた。


 空に二つの月が浮かんでいる。


 右の月はいつも通り、青白い光を惜しみなく注いでいた。だが左の月が——おかしい。


「あの月、元気ないな」


 鉄心は逆立ちのまま首を傾げた。左の月は靄がかかったように暗く沈み、輪郭すらぼやけている。昨日まではもう少し明るかったはずだ。体育教師の目は、ああいう微妙な変化を見逃さない。運動場の照明が一つ切れかけているのに気づくのと同じだ。


「まあ、月も疲れる日はあるか」


 納得して腕立てを再開する。二百に到達したとき、頭上から微かな軋みが聞こえた。


 窓が開く音だ。


 鉄心が見上げると——正確には逆立ちなので見下ろすと、寮の三階の窓からリリアーナが身を乗り出していた。銀髪が月光を受けて淡く輝いている。


 彼女もまた、あの翳った月を見ていた。


 その表情に、鉄心の胸がざわついた。リリアーナの顔には、森で爪痕を見つけたときと同じ——いや、それ以上の不安が刻まれている。


「おーい、リリアーナ!」


 鉄心は逆立ちのまま片手を振った。


 リリアーナの肩が跳ねた。こちらを見下ろし、目が合った瞬間、彼女の頬が月明かりの下でもわかるほど赤く染まった。


「なっ——あ、あなた、こんな時間に何を——裸で——っ!」


 窓が乱暴に閉められた。カーテンが勢いよく引かれる音がする。


「……風邪ひくなよー」


 返事はなかった。だが窓の向こうで、カーテンの端がほんの僅かに揺れていた。


 鉄心は笑って腕立てに戻った。


 リリアーナが見ていた月のことが、少しだけ引っかかっていた。あの目。あれは何かを知っている目だった。


 ——「二つの月は世界のマナの均衡を司る。片方が翳る時、地上の魔力に異変が起きる」。


 リリアーナは窓辺に背をつけて座り込み、膝を抱えていた。古い文献の一節が、頭の中で何度も繰り返される。心臓がうるさい。月のせいだ。あの脳筋のせいではない。断じて。



  ◇



「よっしゃ、朝飯前の腕立て五百回完了!」


 翌朝。食堂で鉄心が山盛りのパンを頬張っていると、クラスメイトのカイルが手紙を持ってきた。


「鉄心、お前宛の手紙。鍛冶ギルド経由で届いてたぞ」


「おっ、ガルドのおっちゃんからだ!」


 封を切ると、癖のある太い文字が並んでいた。鉄心は声に出して読む。


「『鉄心よ。元気にしておるか。最近、魔法炉の不調が鍛冶仲間の間で広がっておる。マナの質が落ちているのかもしれん。気のせいかもしれんが、儂の勘は大抵当たるぞい。何かあったらいつでも戻ってこい。儂の鍛冶場はお前さんの家じゃ。——ガルド・ストーンアーム』」


 鉄心は手紙を丁寧に畳み、ポケットにしまった。


「ガルドのおっちゃん、心配性だな。まあ、あのおっちゃんの飯はうまいからいつでも行きたいけど」


 カイルの顔が曇った。パンを持つ手が止まっている。


「……鉄心、魔法炉の不調って、結構やばいんじゃないか?」


「そうなのか?」


「魔法炉は都市のインフラの根幹だぞ。照明も暖房も結界も、全部魔法炉のマナ供給で動いてる。それが各地で不調って——」


 カイルは声を落とした。


「辺境で魔法が効きにくい場所があるって噂、覚えてるか? もしそれが辺境だけじゃなくなってきてるとしたら——」


「つまり……殴っても解決しない問題ってことか?」


「当たり前だろ!」


 カイルが思わず声を上げ、周囲の視線が集まる。


「……お前は本当にブレないな」


「まあ、なんとかなるだろ!」


 鉄心は笑ってパンの最後の一切れを口に放り込んだ。だが、ガルドの手紙の最後の一文が妙に胸に残っていた。


 ——儂の鍛冶場はお前さんの家じゃ。


 あの頑固なドワーフが、わざわざそんな言葉を書く。それだけで、何かが動いているのだと鉄心にもわかった。


 同じ頃。学院長室。


 ヴァルターは結界維持装置の計器を睨んでいた。水晶球に映し出される数値が、三日前から断続的に低下している。


「……出力が七パーセント落ちている」


 白髪の老人の声は、誰にも聞かれないよう絞り出された。


「結界の強化を命じろ。最優先だ。——そして、この件は口外するな」


 傍らに控えた副学院長が頷く。


「しかし学院長、原因が——」


「原因は追って調査する。今は結界を維持することが最優先だ」


 ヴァルターの視線が窓の外に向いた。曇天の向こうに、昨夜翳っていた月がうっすらと見えている。


 指が無意識に机の引き出しへ伸びた。革袋の中の手甲の欠片に触れようとして——途中で、止めた。


 最近、あの欠片に触れる回数が増えている。自分でもわかっていた。魔力の低下を示す数値を見るたびに、捨てたはずの過去が首をもたげる。まだ「ヴァルター」ではなく「ただの魔力不足の少年」だった頃。素手で薪を割り、拳を岩にぶつけて鍛えた日々。あの少年を殺して、今の自分がある。


 ——だが、もしあの少年の方が正しかったとしたら?


 その問いが脳裏をよぎった瞬間、ヴァルターは椅子から立ち上がった。乱暴に、まるで何かを振り払うように。


「副学院長。結界強化に加え、学院周辺の魔力濃度の定点観測を開始しろ。過去十年分のデータとの比較分析を、三日以内に」


 副学院長が目を見開いた。そこまでの措置は、前例がない。


「……了解いたしました」


 足音が遠ざかる。一人になった学院長室で、ヴァルターは窓に背を向け、両手を机についた。


 否定するだけでは足りない。それは薄々わかり始めていた。だから、数値を集める。データを揃える。魔法の優位性を証明するために——あるいは、証明できなかったときに備えるために。


 その二つの動機が自分の中で共存していることを、老人はまだ認めようとはしなかった。



  ◇



 深夜。


 鉄心は寮の自室の窓辺に腰掛けていた。眠れないわけではない。ただ、体が何かを感じ取って起こしたのだ。前世で震度一の地震でも目が覚めた体質は、この世界でも健在らしい。


 二つの月を見上げる。右の月は変わらず青白い。左の月は——昨夜よりさらに暗い。もはや闇に溶けかけている。


 空気が、変わった。


 肌がざわつく。産毛が逆立つ。体育教師時代、校舎の裏で不審者を見つけたときと同じ感覚だ。本能が、理性より先に反応している。


 そして——


 学院の結界が消えた。


 一瞬だった。瞬きよりも短い、ほんの刹那。だが鉄心の肌は確かに感じた。いつも薄いヴェールのように学院を包んでいた魔力の膜が、完全に途切れた瞬間を。


 直後。


 森の奥から、音が来た。


 咆哮、と呼ぶには低すぎた。地鳴りのような、腹の底を震わす重低音。壁が微かに振動し、窓枠がカタカタと鳴った。


 鉄心の全身の筋肉が、一斉に緊張した。


 これは知っている。体が覚えている。獣の声だ。だが、今まで森で遭遇したどの魔獣とも違う。桁が違う。根本的に、何かが違う。


 咆哮は数秒で止んだ。沈黙が戻る。学院の結界も復活している。


 鉄心は窓枠を握る自分の手を見下ろした。指が白くなるまで力が入っている。


「……でっかいのが、いるな」


 呟きは、いつもの軽さを装っていた。だが拳が、勝手に震えていた。恐怖ではない。鉄心はこの震えを知っている。


 強い相手を前にしたときの、高揚だ。


 翌朝。


 学院は平常通り動き出した。生徒たちは談笑し、魔法の授業が始まり、食堂からはパンの焼ける香ばしい匂いが漂う。


 だが教師たちの様子がおかしい。廊下ですれ違うたび、その表情が硬い。目の下に隈を作った者もいる。笑顔を浮かべていても、その奥に何かを押し隠している。


 鉄心がそれに気づいたのは、体育教師の勘だった。職員室の空気が重い日は、大抵何か問題が起きている。


「剛田くん」


 昼休み、廊下でセレナが鉄心を呼び止めた。


 いつもの疲れた溜息がない。背筋が伸びている。その目が、真っ直ぐに鉄心を見据えていた。


「近日中に、あなたの力が必要になるかもしれません」


 鉄心は目を瞬いた。セレナの声には、普段の皮肉も諦観も含まれていない。


「——理論的に説明はできませんが」


 セレナはそれだけ言い残して、足早に去っていった。


 鉄心はその背中を見送り、右の拳を開いて、閉じた。


「よし」


 何がよしなのか、自分でもわからない。ただ、拳を握ると落ち着く。それだけは確かだった。


 窓の外で、昼の空に翳った月がうっすらと浮かんでいた。

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