拳が覚えている
頭上で、金属が悲鳴を上げていた。
タイヤの焦げる匂い。アスファルトを引き裂くブレーキ音。校庭の隅で準備運動をしていた生徒たちの、凍りついた表情。
剛田鉄心の体は、考えるより先に動く。
「——どけぇっ!」
飛び出した瞬間、視界の端を白いトラックの鼻面がかすめた。フェンスを突き破り、まっすぐ校庭に突っ込んでくる。運転席に人影はない。暴走だ。
三人の生徒を突き飛ばし、鉄心は両手を前に出す。
受け止める。
そんな不可能を、体が選んでいた。
鉄とガラスの塊が胸に激突する。肋骨が軋む音。肺から空気が絞り出される。それでも——腕は下がらない。地面に踏ん張る足が、アスファルトに二本の溝を刻んでいく。
トラックが、わずかに減速する。
ありえない光景だ。素手で、暴走車両を押し返そうとしている人間がいる。
だが、質量の暴力には抗えない。鉄心の体は弾き飛ばされ、フェンスの支柱に叩きつけられた。
視界が白く染まっていく。
——ああ、生徒は無事か。
それだけを思い、意識が途切れた。
◇
草の匂いが、鼻孔をくすぐる。
甘く、青臭い。校庭の芝生とは違う、もっと野性的な香りだ。頬に触れる地面は柔らかく湿っていて、どこか遠くで聞いたことのない鳥の声が響いている。
鉄心はゆっくりと目を開けた。
広がっていたのは、見渡す限りの草原だ。腰の高さまで伸びた緑の穂が、風に揺れてざわめく。
「……ここ、どこだ?」
上半身を起こす。体は無傷だ。トラックに轢かれたはずなのに、痛みが一切ない。制服代わりのジャージも、破れ一つなく体を包んでいる。
ふと、空を見上げて——息を呑む。
月が、二つある。
一つは見慣れた白銀の満月。もう一つは、やや小ぶりで青みがかった月が寄り添うように浮かんでいる。その青い月が、不規則にちらちらと明滅を繰り返していた。蛍の最期の灯のように、弱々しく。
さらに地平線の彼方には、岩の塊のような都市がまるごと空中に浮かんでいる。その周囲を、光の粒子がゆっくりと回っていた。
「……夢、にしちゃリアルだな」
頬をつねる。痛い。もう一度。やっぱり痛い。
「夢じゃない。よし」
状況がまるで飲み込めない。だが、鉄心の思考回路はシンプルにできている。
わからないことがあるなら——体を動かせ。
その場で腕立て伏せの姿勢を取り、黙々と数え始める。
「いち、にっ、さん——」
草原のど真ん中で、腕立て伏せに没頭する男。異世界転生の第一歩が筋トレという人間は、おそらくこの男だけだろう。
「——九十八、九十九、百っ!」
額の汗が草の上に滴り落ちる。体が温まり、思考がクリアになっていく感覚が心地いい。
「よし。とりあえず、人を探すか」
立ち上がると、草原の中を一本の土色の道が貫いているのが見えた。道があるなら、人がいる。体育教師十年のカンがそう告げている。
◇
道を歩くこと約三十分。
背後から蹄の音と車輪の軋みが近づいてきた。振り返ると、一頭の馬に引かれた幌馬車がゆっくりとこちらに向かっている。
御者台に座っているのは、恰幅のいい中年の男だ。日に焼けた顔に、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「おーい! そこの大きいの! こんなところで何してるんだ?」
「助かった! 道に迷ってるんすけど、近くに街ってあります?」
男は鉄心の体格を上から下までゆっくり眺め、わずかに眉をひそめる。が、すぐに笑顔に戻った。
「カルデンの街なら、この道をまっすぐ行けば半刻ほどだ。乗っていくかい?」
「マジっすか! ありがとうございます!」
鉄心が幌馬車に飛び乗ると、車体がぎしりと大きく沈み込む。馬が不満げにいなないた。
「……重いな、あんた」
「よく言われるっす」
行商人はマルコと名乗った。各地の街を巡り、魔法道具を売り歩いているという。
「魔法道具?」
「ああ。ほら、こいつなんかどうだい」
マルコが指を軽く振る。すると荷台の奥から木箱がふわりと浮き上がり、糸も仕掛けもなく空中をすいすいと移動して、マルコの手元に着地した。
鉄心は目を丸くする。
「すっげぇ! 今の、どうやったんすか!?」
「どうって……浮遊魔法だが。あんた、魔法を知らないのか?」
「いやー、俺のいたところだと筋肉で持ち上げるのが普通で」
「筋肉で……?」
マルコが怪訝な顔をする。鉄心は構わず身を乗り出した。
「俺にもできるかな、それ!」
「できるかって——魔力がなけりゃ無理に決まってるだろう」
マルコは鉄心を改めて見つめた。常識を知らない様子、異様な筋肉量、そしてこの世界では見慣れない衣服。
「あんた……まさか、ずいぶん遠くから来たのか」
「まあ、かなり遠いっすね」
嘘は言っていない。異世界は確かに、途方もなく遠い。
馬車に揺られてしばらく。マルコが不意に声をひそめた。
「——最近、変な噂があってな」
「噂?」
「辺境のほうで、魔法が効きにくい場所が出てきてるらしい。魔法陣を展開しても、途中で霧散しちまうんだと」
「へぇ」
「笑い事じゃねえんだ。この世界じゃ魔法がなくなったら、何もかもが止まる。飯も作れなけりゃ、水も汲めない」
鉄心には実感が湧かない。だが、マルコの握る手綱が微かに震えているのは見てとれた。
「そりゃ大変っすね。でもまあ、魔法が使えなくても手足は動くんだし、なんとかなるんじゃないすか」
「…………」
マルコは口を半開きにし——やがて、乾いた笑いを一つ漏らした。
「あんた、変わってるな」
「それもよく言われるっす」
◇
カルデンの街は、石造りの城壁に囲まれていた。
壁面を走る淡い青の紋様が、午後の陽光を受けて脈動している。魔法による防壁だとマルコが教えてくれた。門前には十人ほどの行列ができていて、一人ずつ何かの検査を受けている。
門番は鎧を纏った長身の女性だ。手に持った水晶の杖を、入門者の胸元にかざしている。杖をかざされた人間の体から、淡い光の粒子が立ち上る。光が強いほど、門番の態度が丁寧になるのが見て取れた。
鉄心の番が来る。
「身分確認を行う。動くな」
冷たい声。水晶の杖が胸に向けられる。
数秒の沈黙。
光は——出ない。
何も。一粒たりとも。
門番の目が細まる。杖を二度、三度と振り直す。それでも反応はゼロのままだ。
「……ノーマジック」
その一言で、周囲の空気が一変する。
行列に並んでいた人々が、露骨に距離を取った。ひそひそと囁き合う声が耳に届く。「魔力なし」「珍しいな」「あの体つき、やはり……」。視線に含まれているのは好奇心ではない。冷えきった軽蔑だ。
「入門は許可する。ただし、問題を起こせば即追放だ」
門番は鉄心のほうを見ようともせず、顎で門の奥を示した。
マルコが気まずそうに視線を逸らす。
「……すまんな。この世界じゃ、魔力がないってのは——」
「ん? 別にいいっすよ」
鉄心はけろっと笑った。いつもの顔だ。
だが——門をくぐる瞬間、ちらりと背後を振り返る。行列の人々がまだこちらを見ていた。あの目。汚いものでも見るような、冷たい目。
前の世界にも、似た目があった。
体育教師になりたての頃。周りの教師たちが「体育なんて脳筋の担当」「進学に関係ない科目」と笑っていたのを、鉄心は覚えている。職員室で自分の椅子の周りだけ、微妙に間隔が広かったことも。
あのときは——少しだけ、堪えた。
今も、少しだけ。ほんの少しだけ、胸の奥がちくりと痛む。
だが鉄心は、その痛みに蓋をする方法を三十五年かけて身につけていた。背筋を伸ばす。肩を開く。呼吸を深く吸い込む。体を正しい姿勢に戻せば、心もついてくる。体育教師の信条だ。
「まあ、なんとかなるだろ!」
声に出して言い切った。そうすれば本当にそうなる気がするから。そういうふうに、この体はできている。
マルコは何か言おうとして——結局、小さく首を振るだけに留めた。
門をくぐると、石畳の大通りが広がっていた。空中に浮かぶ文字の看板、魔法の光で照らされた街灯、指先一つで商品を浮かせて陳列する露店商。行き交う人々の体は一様に細く、鉄心のような筋肉質の体格は一人として見当たらない。
すれ違う人間が振り返り、その巨体を二度見する。母親が子供の手を引き、反対側の歩道へ渡っていく。
鉄心はきょろきょろと街並みを眺めている。表情は変わらない。だが、さっきまで無意識に振っていた腕が、今は体の横にぴたりと止まっていた。少しでも場所を取らないように——そんな意図すら自覚しないまま、体がそう選んでいた。
そのとき——通りの角に、一枚の看板が目に入った。
古びた木板に、青い文字が刻まれている。
『冒険者登録局——ステータス鑑定承ります』
足が止まる。
「ステータス……鑑定?」
ゲームで聞き覚えのある単語だ。自分の能力が、数値で見えるということか。
胸の奥で、何かが疼く。
魔力はゼロ。それは今しがた思い知らされた。門番の冷たい目も、周囲の軽蔑の視線も、全てがそれを突きつけている。
だが——筋力は?
三十五年間、一日も休まず鍛え続けてきたこの体は。暴走トラックを、一瞬でも素手で押し返したこの腕は。
数値にしたら、どうなる。
鉄心は右の拳を握りしめた。ごきり、と骨が鳴る。
ふと、その拳を見下ろす。トラックを受け止めたとき——確かに一瞬、トラックが止まった。人間の腕力では絶対に不可能なことを、この体はやってのけた。あれは本当に、ただの筋力だったのか。
わからない。だが、わからないことは体に聞けばいい。
鉄心はゆっくりと、登録局の扉に手をかけた。




