ー王女の空席ー
王女エリスの姿が、公の場から消え始めたのは、誰もが気づくには遅すぎるほど静かな変化だった。
最初は式典の欠席だった。
体調不良と発表され、代わりに側近が読み上げた祝辞は完璧だったが、声には温度がなかった。
次は視察の延期。
その次は、市民との謁見の縮小。
やがて、宮廷の回廊でさえ、王女の足音は聞こえなくなった。
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「最近、王女殿下を見たか?」
騎士団詰所の片隅で、若い騎士が小声で尋ねる。
「いや。団長会議にも顔を出していないらしい」
「病気って話だが……」
「本当にそうか?」
沈黙が落ちる。
誰も口には出さないが、
全員が同じことを考えていた。
――王女は、何を知った?
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宮廷では、もっと露骨だった。
侍女たちは噂話をやめない。
「中央機構の地下に入ったらしいわ」
「違う、騎士団長と口論したとか」
「七罪に関わる資料を見たって……」
扉が開くたびに話は途切れ、
閉じるたびに再開する。
真実は誰も知らない。
だが、不在そのものが真実より雄弁だった。
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市街では、別の形で広がっていた。
「王女は帝国に反対しているらしい」
「いや、むしろ中央側に付いたんだ」
「騎士団を切るつもりだとか」
酒場の卓、工房の片隅、露店の裏。
噂は形を変え、
やがて一つの問いに収束していく。
――王女は、どちら側なのか。
帝国か。
民か。
それとも――別の何かか。
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レインはその日、騎士団の訓練場の端に立っていた。
蒸気兵装の試運転音が、空気を震わせる。
金属と蒸気の匂い。
統制された掛け声。
だが、彼の意識は別の場所にあった。
「……殿下、来てないのか」
近くにいた古参騎士が短く答える。
「ここ最近はな。団長ですら会えていないらしい」
「そんなに?」
「王女が姿を見せないと、上は余計に強硬になる」
古参は低く笑った。
「象徴が沈黙すると、命令だけが残る」
その言葉は、妙に重かった。
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同じ頃。
宮廷の奥、
普段は使われない小さな謁見室。
エリスは一人で立っていた。
窓は閉ざされ、
外の音は届かない。
机の上には、封印印付きの文書が広げられている。
回収報告。
適性者リスト。
地下封鎖区画の観測記録。
そして――
「……これを、“必要”と言うのね」
かすれた声が、静寂に溶ける。
紙の上には、
人名の横に記された小さな符号。
保管
転用
失効
まるで物資の分類だった。
エリスはゆっくりと文書を閉じる。
その指先は震えていたが、
目だけは揺れていなかった。
「父上は……知っている」
問いではない。
確認でもない。
理解だった。
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扉の外で、侍従が控えめに告げる。
「殿下。騎士団より、式典出席の最終確認が……」
短い沈黙。
エリスは答えない。
代わりに、机の上のペンダントを握りしめた。
「……今日は、出ないわ」
「ですが――」
「伝えて。体調不良と」
声は静かだった。
だがその静けさは、
逃避ではなく、
決断の前の沈黙だった。
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その日の夕刻。
宮廷広場では予定通り式典が始まった。
王族席の中央、
本来エリスが座るはずの椅子は――空だった。
ざわめきが波のように広がる。
誰も大声は出さない。
だが全員が見ている。
空席を。
そこにあるはずの、
帝国の未来の象徴を。
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遠くからその光景を見ていたレインは、
無意識に呟いた。
「……どうしたんだ、王女」
答えはない。
だがその空席は、
ただの欠席ではなく、
帝国のどこかに生まれた
見えない亀裂を示していた。
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夜。
宮廷の高塔の一室。
エリスは灯りもつけず、
窓辺に立っていた。
遠くに見える広場の灯火。
小さなざわめき。
彼女は小さく息を吐く。
「私は……どちら側なのか」
その問いは、
外から向けられたものではなく、
すでに彼女自身の中にあった。
沈黙の中で、
彼女はゆっくりと目を閉じる。
やがて、静かに言った。
「……まだ、決めない」
それは保留ではない。
選ぶために、
距離を置くという選択だった。
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その夜。
帝国の命令系統には、
王女の署名がないまま、
一つの新しい回収作戦が追加された。
誰も気づかない。
だが確実に、
王女の不在は、
帝国を少しだけ冷たい方向へ傾けていた。
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空席は、
まだ埋まらない。




