ー崩れ始めた均衡ー
朝の鐘は、いつも通りに鳴った。
だが、その音を「いつも通り」と感じた者は、もうほとんどいなかった。
王都の空気は重い。
市場は開いている。
人も歩いている。
騎士団の巡回も増えている。
表面だけ見れば、秩序は保たれていた。
だが誰もが知っている。
昨日までとは違う。
どこかで何かが、確実に噛み合わなくなっている。
⸻
城壁外周。
仮設検問所の前で、小さな揉め事が起きていた。
「通行証は?」
騎士が無機質に手を差し出す。
荷車を押していた老人は、震える手で紙を出した。
「昨日まではこれで……」
「昨日まで、です」
騎士は紙を一瞥し、首を振る。
「本日より規定が変更されました。再発行手続きが必要です」
「そんな……孫が、内側に……薬を届けないと……」
老人の声が途切れる。
騎士の表情は変わらない。
「通行は認められません」
淡々とした声。
そこに敵意はない。
同情もない。
ただ、規定だけがある。
後ろに並んでいた人々がざわつく。
「またかよ……」
「昨日も止められたぞ」
「中に家族がいるのに……」
騎士は一歩前に出た。
「列を乱さないでください。秩序維持にご協力を」
その言葉は正しい。
正しすぎて、誰も反論できない。
だが――
誰も納得もしていない。
⸻
少し離れた屋根の上。
レインはその様子を無言で見ていた。
風が外套を揺らす。
視線は検問ではなく、そのさらに奥。
王都中心部。
煙はまだ上がっていない。
爆発音もない。
それでも分かる。
配置が変わっている。
騎士団の巡回間隔。
結界杭の増設位置。
監視塔の向き。
すべてが、
外敵対策ではなく、
内部封鎖の配置だった。
「……守る形じゃない」
小さく呟く。
あれは、閉じ込める形だ。
もし何かが起きたら、
逃がさないための配置。
市民を守るためじゃない。
王都という装置を安定させるための配置。
胸の奥が、わずかに軋む。
合理的だ。
都市機能を守るなら正解。
だがその正解の中に、
人の都合はほとんど含まれていない。
視線を落とす。
右手に握ったままの武器。
不完全な刃を持つ《オムニ・アルケイン》。
内部のルーン骨格が、かすかに回転している。
まるで、
何かが起きるのを待っているように。
「……まだ早い」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
今動けば、確実に“引き金”になる。
まだ、その瞬間じゃない。
⸻
王都南区画。
狭い路地裏。
アッシュは壁にもたれ、静かに呼吸を整えていた。
手には、両手持ちの長銃。
感情反応銃。
金属装甲の継ぎ目から覗く血管状の生体組織が、
鼓動に合わせて、わずかに脈打っている。
ドクン。
ドクン。
心臓と同期して、
銃身がほんのわずかに蠢く。
「……落ち着け」
誰に言うでもなく、吐き出す。
視線の先。
通りの向こうで、
騎士団の小隊が市民を誘導している。
「本日より、この区画は一時封鎖されます」
「指示に従って北広場へ移動してください」
声は穏やかだ。
だが周囲には、すでに結界杭が打ち込まれている。
逃げ道は一方向だけ。
誘導というより、
選択肢の固定だった。
アッシュの指が、無意識に引き金付近をなぞる。
撃てば、崩れる。
この整然とした流れは、一発で瓦解する。
だが撃った瞬間、
ここは戦場になる。
市民も、騎士も、全部巻き込む。
「……まだだ」
歯の奥で呟く。
怒りはある。
だが、撃つ理由としては足りない。
《ハウル》の生体組織が、わずかに脈を強める。
感情を探るように。
もっと強い衝動を。
もっと明確な引き金を。
アッシュは銃をわずかに下げた。
「焦んな……」
その声は、自分自身に向けたものだった。
⸻
王城前広場。
整列した騎士団の中央に、
エリスは立っていた。
白と金の軽装鎧。
腰には《レガリア・レイピア》。
胸元には母の形見のペンダント。
目の前には、騎士団長レオンハルト=グレイヴ。
「各区画の封鎖、完了しました」
「……市民の混乱は」
「軽微です。現時点では」
レオンハルトの声は冷静だ。
だが、その“現時点では”に、
すべてが込められている。
エリスは広場の外を見る。
移動させられる人々。
増えていく検問。
閉じていく通り。
守るための配置のはずなのに、
街全体が、
ゆっくりと檻に変わっていくように見えた。
「団長」
「はい」
「この体制は……いつまで続けるのですか」
一瞬の沈黙。
レオンハルトは、わずかに視線を下げ、
すぐに戻した。
「状況が安定するまで、です」
曖昧な答え。
だが軍人としては、それが唯一の答え。
エリスはペンダントを軽く握る。
冷たい感触。
祈る。
この配置が、
ただの備えで終わるように。
誰も撃たず、
誰も斬らず、
何も起きないまま一日が終わるように。
だが――
胸の奥で、
嫌な予感だけが静かに広がっていた。
⸻
同じ頃。
王都の地下。
誰もいないはずの旧錬金搬送路で、
低い駆動音が響いていた。
ガコン。
ガコン。
古い自動搬送機構が、
ゆっくりと再起動していく。
暗闇の中、
封印されていた扉が、内側からわずかに押し上がる。
隙間から覗くのは、
人の形をした影。
歪んだ呼吸音。
擦れる足音。
管理されず、放置され、
それでも動き続けてしまった存在。
敵性存在。
その最初の一体が、
王都の地下で、静かに徘徊を始めていた。
⸻
地上では、
まだ誰も気付いていない。
騎士団も、
レインも、
アッシュも、
エリスも。
だが確実に、
三つの歯車は同時に回り始めている。
七罪の思惑。
帝国の封鎖。
そして、
制御を外れた存在たち。
どれか一つでも噛み合えば、
均衡は保てた。
だが今、
すべてが同時に動いている。
⸻
遠くで、
何かが崩れる鈍い音がした。
小さい。
だが、はっきりとした破断音。
誰かが思わず空を見上げる。
騎士が周囲を見回す。
市民がざわつく。
その瞬間、
王都のどこかで、
最初の悲鳴が上がった。
⸻
まだ小さい。
まだ局地的。
まだ、抑えられる規模。
だが―
その悲鳴は、
確実に境界線を越えた音だった。
守るための騎士団が、
制圧のために剣を抜くまで、
もう時間は残っていない。
⸻
均衡は、
音もなく、
崩れ始めていた。




