ー静かな前兆ー
選択には、やり直せるものと、やり直せないものがある。
そして人は、
取り返しがつかなくなってから初めて、
どちらだったのかを知る。
正義を選んだ者。
怒りを選んだ者。
祈りを選んだ者。
それぞれの選択は間違いではなかった。
だが正しかったとも限らない。
この世界では、
正しさは結果で測られる。
守るための剣は、誰かを傷つけ、
救うための力は、何かを壊し、
止めるための沈黙は、崩壊を早める。
交差した因果は、もうほどけない。
ここから先にあるのは、
可能性ではなく確定した未来。
帝国は動き出し、
騎士団は役割を変え、
七罪は狩る側として姿を現す。
そして三人は知る。
もう戻れないという事実を。
物語は、決断の先へ進む。
朝の空気は、昨日と同じはずだった。
同じ街。
同じ城壁。
同じ鐘。
それでも――
何かが、決定的に違っていた。
広場の処理陣が稼働してから一夜。
王都は、生きている街というより
稼働を続ける装置の内部のようになっていた。
通りには、既に規定線が引かれている。
通行許可の札がなければ、先へ進めない。
各区画の入口には結界杭。
騎士団の兵は、巡回ではなく配置として立っている。
守っているのではない。
維持している。
誰もがそれを理解していた。
だから声を潜め、
足音を抑え、
余計なことを言わない。
沈黙が、最も安全な行動だった。
⸻
レインは屋根の縁に腰を下ろし、街を見ていた。
昨日と同じ位置。
同じ視界。
だが、見えるものはまるで違う。
処理陣は解体されていない。
むしろ拡張されている。
新しい資材。
追加の封印箱。
番号管理の帳簿。
一時的な措置ではない。
長期運用だ。
「……ここで終わりじゃない」
思考が静かに結論へ辿り着く。
昨日は“対応”だった。
今日はもう“運用”だ。
つまり帝国は、
この状態を異常ではなく
正常として扱い始めている。
屋根の下の路地で、兵が二人通る。
「第三区画、素材搬送完了」
「了解。次は検査対象の再分類だ」
会話に、感情がない。
仕事の報告。
それだけだ。
レインは視線を逸らす。
合理的だ。
秩序は保たれている。
暴動も起きていない。
だが――
この秩序は、
明らかに“人のため”じゃない。
「……敵性存在」
小さく呟く。
自分に向けられた呼称。
だが昨日の光景を見た今、
その言葉の意味は少し変わっていた。
排除対象。
危険因子。
管理外。
もしこの街の秩序が
人間を素材として成立しているなら、
そこから外れる存在はすべて
同じ分類に入る。
レインは、拳をゆっくり握る。
助けるか。
壊すか。
無視するか。
まだ決めていない。
だが一つだけ確かなことがある。
このまま何もしなければ、
状況は確実に進む。
しかも――
自分が望まない方向へ。
⸻
別の区画。
崩れた建物の影。
アッシュは壁にもたれ、
街の動きを眺めていた。
騎士団の巡回。
搬送される封印箱。
静まり返った住民。
全部、昨日見た続きだ。
だが今日の空気は違う。
「……もう慣れてやがる」
誰にともなく呟く。
昨日は恐怖だった。
今日は諦めだ。
人は、思ったより早く順応する。
感情反応銃を軽く持ち上げる。
血管状の生体組織が
心臓の鼓動に呼応するかのように脈打っている。
怒りに反応している証拠。
だが暴発するほどじゃない。
中途半端な温度。
それが余計に苛立つ。
「撃てば簡単だろうな」
騎士を一人。
二人。
十人。
やれる。
だがその瞬間、
この街は完全な戦場になる。
それは望んでいる展開じゃない。
まだ、違う。
まだ早い。
「……どこだよ」
低く呟く。
探しているのは騎士団じゃない。
レインだ。
あいつも、この状況を見ているはずだ。
同じ街にいる。
同じ現実を見ている。
だから――
どこかで必ず動く。
その時は、
避けられない。
「……次は逃がさねえ」
銃を握る手に、力が入る。
敵だ。
もう疑いようもなく。
思想も、選択も、立場も。
交わる余地はない。
⸻
城の高塔。
エリスは報告書の束を閉じた。
机の上には、
検査対象数。
搬送済素材。
封鎖区域拡張計画。
数字ばかりが並んでいる。
名前は、ない。
「……人の記録ではないのですね」
小さく呟く。
昨日、広場で見た光景。
母親の叫び。
連行される少女。
団長の言葉。
必要なことを行うだけ。
その言葉は、まだ胸に残っている。
扉がノックされる。
「王女殿下。騎士団長がお見えです」
「……どうぞ」
入ってきたレオンハルト=グレイヴは、いつも通りの姿だった。
整った鎧。
乱れのない姿勢。
感情を抑えた目。
「本日の封鎖計画についてご報告に参りました」
「……聞きましょう」
説明は簡潔だった。
追加封鎖。
検査強化。
外部への情報制限。
すべて合理的で、
すべて帝国を守るための手順。
「反対する理由はありません」
エリスはそう答えた。
王女としては、正しい返答。
だが。
言葉を発したあと、
胸の奥に小さな痛みが走る。
レオンハルトが一瞬だけ視線を落とした。
「……殿下」
「はい」
「本日中に、敵性存在の行動予測が更新されます」
その単語に、指先がわずかに止まる。
「複数の未確認個体が、依然として市内に潜伏している可能性があります」
未確認個体。
その中にはきっと――
レインも含まれている。
「発見した場合は」
エリスが言葉を待つ。
レオンハルトは迷わなかった。
「規定に従い、無力化します」
静かな声。
だが、揺れはない。
エリスは目を閉じ、
ゆっくり開いた。
「……分かりました」
それが王女としての答えだった。
⸻
同じ空の下。
屋根の上で、レインは街を見下ろし。
瓦礫の影で、アッシュは銃を握り。
塔の窓辺で、エリスは遠くを見ていた。
三人とも、
まだ動かない。
まだ交わらない。
だが確実に、
互いを排除対象として認識し始めている。
昨日までは、可能性があった。
誤解かもしれない。
回避できるかもしれない。
別の道があるかもしれない。
だが今日、
街の空気はそれを否定していた。
この世界はもう、
誰かの善意で止まる段階を過ぎている。
必要なのは選択。
そして選択には、
必ず犠牲が伴う。
風が吹き、旗が鳴る。
その音だけが、
異様に大きく響いた。
静かな朝だった。
だがその静けさは、
嵐の前のものじゃない。
もう始まってしまった嵐の、
中心にいる静けさだった。
ここから先、
誰かが一歩踏み出せば―
すべてが連鎖する。
不可逆の連鎖が。




