ー世界はもう戻らないー
朝は、静かすぎた。
騎士団が到着した翌朝。
本来なら、避難の声や、指示の怒号が飛び交うはずだった。
だが――
街には、整然とした沈黙が落ちていた。
規則正しく並ぶ騎士団の兵。
無機質に展開される結界杭。
広場には、既に仮設の錬成陣が組まれている。
救助のためではない。
処理のためだ。
⸻
レインは屋根の上から、それを見ていた。
担架に乗せられる負傷者。
だが、運ばれている先は治療所ではない。
検査所、と書かれた仮設幕。
そこへ入った者が、
戻ってくる様子はなかった。
代わりに出てくるのは―
番号を刻まれた箱。
封印された、素材容器。
「……早すぎる」
思わず呟く。
昨日まで、人だった。
昨日まで、助けを求めていた。
それが、もう――
物として扱われている。
⸻
下の通りで、泣き声が上がった。
「待ってください! この子はまだ――!」
母親が、騎士にしがみついている。
腕の中には、小さな少女。
騎士は、無表情だった。
「感染判定が出ています。規定に従ってください」
「違うの! まだ話せるの、ほら、ねえ――」
少女は、かすかに動いた。
唇が震えた。
何かを言おうとしている。
だが騎士は、それを確認しようともしない。
淡々と、少女を引き離した。
母親の叫びが、街に響く。
それでも―
誰も動かない。
誰も止めない。
止められない。
⸻
レインの手が、無意識に震えていた。
助けようと思えば、助けられる。
飛び降りて、騎士を排除し、少女を奪い返す。
それくらい、出来る。
だが―
その後は?
少女はどうなる。
この街は?
帝国は?
世界は?
頭の中で、計算が回る。
最適解。
損失。
波及。
確率。
結論は、一つしか出ない。
今ここで動くのは、最悪だ。
「……っ」
歯を食いしばる。
合理的だ。
正しい。
だが――
その正しさが、
吐き気がするほど冷たい。
⸻
別の通り。
アッシュは、壁にもたれて座っていた。
感情反応銃を握ったまま。
目の前を、騎士団の部隊が通過していく。
整然と。
迷いなく。
まるで、既に終わった戦場を片付ける清掃員のように。
「……ちっ」
舌打ちが漏れる。
撃とうと思えば撃てる。
何人か倒すくらい、簡単だ。
だが撃った瞬間――
ここは、完全に敵地になる。
今ですら危うい均衡が、
一瞬で崩れる。
「怒れよ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「怒れよ、俺」
だが胸の奥にあるのは、
燃え上がる怒りじゃない。
もっと重い、
どうしようもない現実感だった。
――遅かった。
昨日じゃない。
一昨日でもない。
もっと前から、
もう取り返しはつかなかったんだ。
⸻
その頃。
広場の中央。
エリスは騎士団長の前に立っていた。
レオンハルト=グレイヴ。
彼は静かに報告書を閉じる。
「封鎖は完了しました」
「……そうですか」
「王都への影響は最小限に抑えられる見込みです」
その言葉は、
救済の報告ではない。
被害管理の報告だ。
エリスは、広場を見渡した。
連行される人々。
組み上がる処理陣。
泣き声。
沈黙。
守るための騎士団。
そのはずだった。
だが今――
ここにいる彼らは、
世界を守る装置として正しく機能している。
人を守るためではなく。
世界を壊さないために。
「……団長」
「はい」
「これは……正しいのですか」
レオンハルトは、一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに、いつもの冷静な表情に戻る。
「正しいかどうかは、我々の任ではありません」
「……」
「我々は、必要なことを行うだけです」
その言葉は、
刃より鋭くエリスに刺さった。
⸻
必要なこと。
その言葉を、
昨日までの自分も使っていた。
王女として。
帝国の一員として。
だが――
今、目の前で行われている“必要”は、
明らかに誰かを切り捨てている。
エリスは、胸元のペンダント
《レクイエム・クラウン》を握った。
冷たい。
何も答えない。
祈っても、
もう世界は止まらない。
⸻
遠くの屋根の上で、
レインはその光景を見ていた。
別の通りで、
アッシュも同じ空を見上げていた。
広場の中央で、
エリスは静かに目を閉じていた。
三人とも、
違う場所にいる。
だが、
同じことを理解していた。
⸻
もう、元の場所には戻れない。
昨日の選択。
その前の選択。
もっと前の、小さな判断。
全部が積み重なって、
今ここに辿り着いている。
誰か一人のせいじゃない。
だからこそ、
取り消しも出来ない。
⸻
広場の処理陣が、起動した。
淡い光が走る。
空気が震える。
人々のざわめきが、波のように広がる。
その光を見た瞬間――
レインは理解した。
これは、終わりじゃない。
始まりだ。
ここから先は、
選択を間違えたら終わる世界じゃない。
選択そのものが、
取り返しのつかない結果を生む世界だ。
⸻
風が吹く。
灰が舞う。
誰かの祈りが、
どこにも届かないまま消えていく。
⸻
レインは、静かに立ち上がった。
アッシュは、銃を握り直した。
エリスは、目を開いた。
⸻
その日、
三人はまだ出会わない。
まだ言葉も交わさない。
だが確実に、
同じ地点へ向かい始めていた。
⸻
世界はもう戻らない。
それだけが、
はっきりしていた。
世界は、音を立てて壊れるわけじゃない。
多くの場合、それはもっと静かだ。
誰かの小さな選択。
言わなかった言葉。
引かなかった引き金。
守れなかった一人。
その積み重ねが、ある瞬間を境に、
「戻れない過去」へ変わる。
レインは理解し始めている。
アッシュは止まれなくなっている。
エリスはもう、見ないふりが出来ない場所に立っている。
誰も望んでいなかったはずの未来は、
気付けばもう、すぐそこまで来ている。
騎士団は動き、
帝国は静かに軋み、
七罪は観測を終えた。
ここから先は、選択の物語ではない。
選択の結果を、受け取る物語だ。
次巻――
交差する因果Ⅲ。
物語は、不可逆へ進む。




