公爵令息は毒蛙になるのが宿命だった
これは、とある異世界の物語。
愛と魔法、魔獣と剣が交差する世界――。
公爵家〈ヴェルンハイト〉は、代々美貌と強大な魔力、そして圧倒的な剣技を受け継いできた名門である。
王家に忠実であり、王家からも絶対的な信頼を寄せられていた。
しかし、その直系には“誰も逃れられない宿命”があった。
それは、特異な魔法の祝福を得る代償として、人外へと変異するというもの。
ヴェルンハイト家の先代――現当主である父、ガイゼル・ヴェルンハイト公爵は、条件が揃った時、――漆黒の毛並みに銀の角を持つ“角狼”へと変貌する。
その姿は威厳と恐怖を併せ持ち、王国最強の守護者として畏れられた。
そして、その宿命は当然のように息子にも受け継がれた。
公爵家嫡男、レオンハルト・ヴェルンハイト。金髪に蒼い瞳、誰もが振り返る美貌を持つ青年だが――彼が受け継いだ“祝福の代償”は父のものとはまったく異なっていた。
レオンハルトは十五の儀式を終えた頃から、奇妙な兆候を見せ始める。
肌に淡いぬめりを帯び、瞳は瞬間的に丸く広がり、そして――水辺に近づくと、鼓動が異常に早まった。
医師や魔導師が調べた結果、判明した事実はただ一つ。
「……レオンハルト様の変異形態は、“巨蛙”です」
その言葉を彼は黙って受け入れた。
父が威厳ある角狼であったのに対し、自分は巨大な蛙――。力は強大だが、決して“優雅”とは言い難い姿である。
だが問題はそこではない。
ヴェルンハイト家の伴侶となる者は、この変異を心から受け入れ、恐れず愛せる者でなければならない。
しかしレオンハルトが婚約していた令嬢は、
変異の事実を知った翌日、青ざめた顔で屋敷を訪れた。
「申し訳ありません……っ。どうしても、想像してしまって……」
二人目の婚約者候補も、三人目の婚約者候補も同じだった。
「巨蛙に変わる公爵家嫡男を、愛せるはずがない」
――それが世間の本音だった。
レオンハルトはただ静かに、苦笑すら浮かべて言う。
「大丈夫だ。気にするな。……俺の方が慣れている」
そう言いながらも、水面に映る自分の瞳が変質していくのを見るたび、胸が痛んだ。
だが魔獣の脅威が増すこの時代、彼の力は必須である。逃げることはできない。
それでも、レオンハルトには、父の強い勧めで、婚約を前提に話を進めていた令嬢がいた。
ミリアーナ・フロイス。温和で優しいと評判の、辺境伯家の娘だ。
「……私は、大丈夫です。レオンハルト様がどんな姿でも、あなたのお力は尊いものですわ」
そう微笑むミリアーナに、レオンハルトは胸の底がじんわりと温かくなるのを感じた。
(もしかしたら……彼女なら)
淡い期待が、生まれはじめていた。
そして、運命の日――。
魔獣討伐の帰還途中、怒りを引き金に変異が始まり、彼はミリアーナの目の前でその姿を見せることになった。
皮膚は艶めき、身体は膨れ上がり、
黒紫の毒を含む巨大な蛙――毒蛙形態へ。
その姿を見た瞬間。
「ひ……ぁ……!」
ミリアーナの顔が恐怖で引きつり、声にならない悲鳴を漏らす。次の瞬間、彼女はスカートを掴んでめちゃくちゃに持ち上げながら、
後ろも見ずに逃げ出していった。
「待っ……ミリアーナ!」
声を上げたが、その喉から出たのは低く湿った蛙の鳴き声。
追えば毒で彼女を傷つけてしまう。
その場に取り残されたレオンハルトは、しばらく時間が過ぎた後に、ゆっくりと変異を解いて膝をつく。
(……結局、誰も……)
胸の奥で何かが静かに崩れる音がした。
しかし、その悲しみに浸る暇はなかった。
魔獣の群れが、王都へと迫っているという急報が入ったのだ。
レオンハルトは立ち上がった。
心は傷ついたままでも、彼には“力”があった。
その日の戦場は、地獄と呼ばれた。
二百を超える魔獣の群れ。
その中には上級魔獣すら混じっている。
だがレオンハルトが怒りを胸に変異した瞬間――戦況は一変した。
毒蛙の脚は大地を砕き、跳躍は音速の如く。
飛び散る毒液は魔獣たちを瞬時に腐蝕させ、
毒息は上級魔獣ですら息をする暇もなく倒していく。
もはや“駆逐”という言葉すら生ぬるい。
存在そのものが戦場を支配していた。
討伐が終わったとき、兵士たちは呆然と立ち尽くした。そして叫んだ。
「ヴェルンハイト様だ! 英雄だ!!」
「救われた……レオンハルト様がいなければ……!」
凱旋の道で浴びる歓声は、耳が痛いほどだった。
しかし――彼の胸は、一片も満たされなかった。
(英雄、か……)
誰も、毒蛙の姿を愛さない。
自分の力は畏れられ、称えられ、利用されるだけ。
英雄視されればされるほど、
人としての孤独は深く沈んでいく。
王都の夜風が吹き抜ける中、レオンハルトはひとり、そっと目を閉じた。
(俺を……“俺のまま”見てくれる人は……どこにいるんだろう)
その問いだけが、闇に溶けていった。
戦いの功績によって“英雄”と呼ばれるようになってから数日。レオンハルトは、人目を避けるように王都郊外の公爵家別荘へ移っていた。
静かな森の中に立つ白い別荘。本来なら、疲れた心を休めるには最適の場所だ。
……しかし。
(……結局、心は休まらない)
英雄と讃えられても、変異した姿を恐れられれば意味がない。
誰も近づかず、誰も理解しようとしない。
「……癒しってやつは、どこにあるんだろうな」
独り言が森に溶けた、そのときだった。
……ガルルル……!
森の奥から複数の魔獣の気配が、圧し掛かるように迫ってきた。
瞬く間に木々が揺れ、巨大な影の群れが姿を現す。
「ここ最近、魔獣が活性化してる……か。面倒だな」
剣を抜いて応戦するか――そう考えた瞬間、
背後の村から悲鳴が上がった。
「きゃあああっ! 魔獣が!!」
(……仕方ない)
レオンハルトは静かに息を吸い、胸の奥に沈めていた怒りを、ほんの少しだけ解き放った。
次の瞬間。
彼の身体は大地を跳ね、膨張し、
――巨大な毒蛙へと変貌した。
敵意を察知すると、魔獣の群れは一斉に襲いかかる。
だが、それは間違いだった。
毒を帯びた舌は閃光のように延び、魔獣を叩き伏せる。跳躍の衝撃で地面が陥没し、三体がまとめて吹き飛ぶ。
口から放たれた毒息が触れた瞬間、上級魔獣すら崩れ落ちていく。
戦いは――一瞬だった。
村人たちは呆然とした表情で立ち尽くす。
「……す、すげぇ……」
「でも……近づくのは……」
勝利の後も、人々は誰一人としてレオンハルトに近寄ろうとしない。
彼の毒が恐ろしいからか、それとも巨大蛙という異形そのものに怯えているのか。
どちらでも同じだった。
(……やっぱり、俺は“こう”なんだな)
孤独が、またひとつ胸に重なろうとしたその瞬間――。
「――ありがとうございます」
鈴のように澄んだ声が、背後から届いた。
レオンハルトが振り返ると、そこには小柄な少女が立っていた。白いワンピースに身を包み、薄茶の髪が風に揺れている。
十代半ばほどだろうか。
恐怖の色はまったくない。
むしろ、穏やかな微笑みをたたえていた。
(……近づいてきた? 俺に?)
巨大蛙の姿のまま、レオンハルトは戸惑いを隠せない。
少女は、そっとスカートをつまんで礼をした。
「あなたが守ってくれたおかげで、私たちは無事でした。本当に……ありがとうございました」
その口調は礼儀正しく、真心がこもっていた。
変異を解き、人間の姿に戻ったレオンハルトは、思わず低い声を漏らした。
「……俺が、怖くないのか」
少女は首を傾げた。
「何故? どうして怖がる必要があるのですか?」
「俺は……蛙だぞ。毒を撒き散らす怪物だ」
「怪物?」
少女はくすっと微笑む。
「さきほどまで村を襲っていたのは“魔獣”でしょう?あなたは村を守ってくださいました。なら……どうして、あなたが怪物なんです?」
レオンハルトは、言葉を失った。
その少女は名乗った。
「私は、エリシア・ローベル。
この土地を治める伯爵家の四女です」
そして、穏やかに微笑みかけてきた。
――その笑顔は、彼の胸の奥に、確かに光を落とした。
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エリシアが十歳のとき――。
森を進む馬車を、突然魔獣の群れが襲った。牙が軋む音。馬が悲鳴をあげ、馬車が横転する衝撃。恐怖で体がすくむエリシアを、母はすぐに抱きしめた。
「大丈夫よ、エリシア。絶対に……」
その言葉は最後まで聞けなかった。
母は彼女を守るように覆いかぶさり、襲いかかる魔獣の爪と牙を一身に受けたのだ。
――その温度と重さは、十年経っても消えない。魔獣は恐ろしく、残酷で、容赦がない。 その事実を、エリシアは誰よりよく知っていた。
だからこそ。
別荘近くで魔獣の大群と対峙した“彼”の戦いは、あまりにも異様で、そして――神々しかった。
怒りを引き金に変異した彼は、巨大な毒蛙となった。だがその瞳は、獣ではなく、人を守る者のものだった。
魔獣たちは彼の毒息に触れるだけで膝を折り、跳躍一つで群れごと薙ぎ倒されていく。
圧倒的な勝利。
だが周囲の人々は、彼を称えも近づきもしなかった。
毒――それは誰にとっても恐怖の象徴だ。
彼がどれほど人のために戦おうと、彼の姿は“怪物”としてしか映らない。
その孤独が、痛いほど伝わってきた。
だからエリシアは、震える膝を押さえながら、一歩踏み出した。
母を奪った“魔獣”の姿に似ている。
怖い。胸が苦しい。呼吸が浅くなる。
それでも――あのとき母が守ってくれた命を、今度は誰かを守るために使いたかった。
「……守ってくれて、ありがとうございます」
エリシアは彼のそばまで歩み寄り、深く頭を下げた。
蛙の巨躯が、小さく震えた気がした。
「……俺が、怖くないのか」
低く、戸惑う声。周囲では誰も近づこうとしないのに。
エリシアはゆっくり顔をあげ、震えながらも微笑んだ。
「怖いですよ。魔獣は……ずっと、怖い」
「でも、あなたは違う。だって、私たちを守ってくれたじゃないですか」
彼は言葉を失い、ただエリシアを見つめた。毒をまとう怪物の姿でありながら、その瞳だけは――ずっと孤独を叫んでいた。
その瞳に、初めて光が宿る。
それから二人は、ゆっくりと、確実に距離を縮めていった。エリシアは彼の優しさを知り、彼はエリシアの勇気に救われた。
孤独に閉ざされていた彼の世界に、ようやく温かさが戻る。
彼がふと見せた微笑みは、どんな祝福よりも柔らかかった。




