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箱舟に乗せて

大切なものを箱舟に乗せて、過去との袂を断絶する。とある国には、そんな習わしがありました。

振興してたところでしたから、きっと後ろを振り向くのは怖かったんでしょう。

そして彼らは失った、大切なものを。


木魚の音と坊さんがぼつぼつ呟く声だけが、寂寥の波風とひしめいている。今宵箱舟が出港するのだ。

私はおじさんの誘いがあって一応相応しいものを拵えて来たけど、なんだか盛り上がりに欠けるイベントで正直なぜこんな習わしがあるんだろうと奇妙に感じた。まったく、旅立ちを見送るんだからどうせなら華やかにしてほしいものだ。それが敬意じゃないか。

「くぁっ…」

一定のリズムの読経を聞いていると自然と瞼が重くなっていき、意識は波風に攫われた。

ーーーほら、イプレ。終わりだぞ

ぽんと肩を叩かれて私は目を覚ました。急いで目を擦って前を見たが、闇が濃くて何も分からない。しかしおじさんがまだその場に立って闇の先を見ていたから、私も闇を見つめ続けた。

「行こうか」

数秒くらいたっておじさんはぼつりと呟いた。うん、と頷いて手をつなぐ。離れないように。

帰りの畦道にも灯篭なんてなくて、月光だけを頼りにドブに落ちないよう注視しなければならない。

「ところで、何を運んだんだ?」

おじさんの問いに、私は少し考え込んだ。

「……夢、かな」

「夢?」

「うん。小さい頃に描いたやつ。すっごくくだらなくて、誰にも言えなかったやつ」

おじさんはそれを聞いて、ふっと鼻で笑った。

「じゃあ、また新しいのを見つけなきゃな」

「……そういうもん?」

「そういうもんだ。夢も過去も、ひとつ残らず抱えてちゃ船が沈む。あれはそういう習わしだよ、イプレ」

足元の草が夜露を吸って、しゃくりと音を立てた。

「ねえおじさん。ほんとに、大切なものって手放すしかないの?」

おじさんは一歩立ち止まって、月の光を振り返るように頭を上げた。

「手放すんじゃない。預けるんだ。未来っていう海の向こうに、いつかまた拾いにいけるようにな」

私は黙ってその言葉を飲み込んだ。重いような、でもちょっとあったかいような気がした。

そしてもう一度、箱舟が浮かんでいるであろう闇の先を、見た。

の中にぽつり、ぽつりと、何かの灯りが揺れていた。たぶんあれは、誰かの「預けたもの」なんだろう。

そうだといいな、と思った。

「そういえば、なんだか今日はやけに町が暗いね」

「うん、箱舟が空を渡っているからね」

そら…と呟いて頭上に満遍なく広がる漆黒を見つめた。

「箱舟の漆が光を吸い込んで、希望の湯気を沸かせるんだよ」

おじさんはポンと私の頭を撫でてそう言った。

「空は希望で満ちてるね」

そう呟いた私の声が、夜のしじまにふっと溶けていった。

「……でも、見えないんだね、希望って」

「そうだね。希望っていうのは、いつも目に見えない場所でふくらんでる」

おじさんは空を見上げたまま、まるでそれを確かめるみたいに言った。

「箱舟の中では、きっとたくさんの『もう要らないと思ったもの』が、お湯みたいにぐらぐら煮立ってるんだろうな。そしてその湯気が、夜の空をあたためて、光の代わりになるんだ」

私は思わず笑った。

「なんか、お風呂みたいだね」

「そう。世界中の悲しみを、でっかい釜で煮て、希望の蒸気に変えてるんだよ。空っていうのはな、思ったよりあったかいんだ」

しばらくふたりで空を見上げていた。黒いのに、どこかじんわりとした明るさがあった。

「……じゃあ、私の夢も、その中にあるかな」

「あるさ。ちゃんと、空のどこかで湯気になって、明日をあたためてるよ」

おじさんの言葉に、私はもう一度、漆黒の天幕を見た。

光がなくても、希望はある。

そう思える夜は、きっと忘れない。


「んっ…?」

夕闇と溶ける積雲が空に満ちている。きっともう太陽は地平線にしか映ってない。せっかくの休日をあの日の回想が埋め尽くしてしまったらしい。忘れていた子供のころの暖かい感受性に、溺れるような胸の痛みが残っている。またあれを体験できるなら、私はベットに腰かけて背を伸ばし、昨日飲もうとして忘れたゼリーでエネルギーチャージをしながら黒で滲んでく空をぼうっと眺めた。

「そうだ」

ふと今日は箱舟の日だったことを思い出し、おじさんに連絡しようと玄関付近に置いといた電話機迄足を運んだ。

「1…3…」

深層にほっぽられた記憶を引き出しながらダイヤルを回転させて、理由のない不安に苛まれつつもいつか来るはずの彼の応対を耐え忍ぶ。ついに電話口からがちゃっという音が聞こえて、私は受話器に耳を当てた。

「イプレです、そっちは元気?」

「半蔵さんにおかけですか?」

相手はどうやらおじの妻のらしい、腹沿いを捩る嫌な予感に頭を振るようにはいと応えると向こう側で鬱屈な気配を漂わせながら言われた。

「彼は箱舟の舵取りになりました」

言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「あ……そっか」

私はゼリーのパウチを握ったまま、返事のタイミングを逃した。受話器の奥で、風が鳴っていた気がした。電話線の向こうにある現実が、すっと遠のいていく。

「ねえ、それって……戻ってこないって、こと?」

「ええ。箱舟の舵取りは、最後に一人だけ残って航路を描く役目なの。戻ることは……ありません」

淡々とした声に、滲んだものはなかった。でもその静けさが、逆に重たくて、足元が少し揺れるような気がした。

「……なんで、おじさんが」

「彼が選んだのよ。きっと、何かを渡したくなったんでしょう。あの空に」

私は、窓の外を見る。さっきまで濃い夕闇だった空に、いつのまにか大きな雲の切れ間ができていた。そこから、わずかに星が覗いている。

「……見えてるかな、そっちからも」

思わずつぶやいた。

「ええ、見えてますよ。あなたの声も、きっと。箱舟って、そういうものだから」

電話は、それきり切れた。

静かな部屋に、テレビのモノクロ画面だけがぼうっと光っている。

私はパウチを置き、もう一度カーテンを開けた。

そこには黒い空が、希望の湯気をまとうようにして、やさしく広がっていた。

「……ありがと、おじさん」

その言葉が空に届いたかはわからない。でも、あの時と同じように、私は信じてみることにした。

明日も。

明後日も。

**おじさんの舵が描いた航路の、その先に続いているこの日々を。

希望を失ってしまっても、私が笑っていられるように。

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