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ふわー

倦怠感の募る陰気臭い夏の風、夜は皆蚊帳の中に閉じこもって陽の光をじっと待っている。

掛け布団をオッかぶさって小刻みに震える身体を温めている俺の背中に、母が話しかけて来た。

「ねえ、桔平聞いた?湯音ちゃんの話」

「…聞いた、何度も」

母はそう…と曖昧な返事をやって、そのまま何も言わなくなった。自分でもきつい言い方をしてしまったと嫌悪して布団に顔を二度と戻ってこれないくらいに深く蹲る。

志村湯音、あの日彼女が俺に遺した台詞は、今でも記憶の先頭で佇んで消せないノイズになっている。

ーーー世界はくすんでる。

 湯音がああ言ったのは、きっと最後のつもりだったのだろう。

 世界がくすんで見えるのは、彼女の目が濁っていたからじゃない。俺たちが、見ようとしなかったからだ。

 あの川の向こう岸にある廃工場。錆びついた鉄骨が夕陽に染まると、まるで燃えているみたいに見えるあの場所に、湯音はよくいた。スケッチブックを膝に置いて、空や橋や、何もないコンクリの壁を、ずっと描いていた。

「世界がくすんでるなら、塗り直せばいいんだよ」

 そう笑っていた彼女の指先には、いつも青がついていた。空の青でも、海の青でもない。どこにもない、湯音だけの青。

 その指先が、あの日を境に途絶えた。

 蚊帳の中、母の寝息がやわらかく重なってくる。夜の底で俺はまぶたを閉じ、もう一度あの日のことを思い返す。

瞼に残った柔らかい月の光輪が、彼女の輪郭を朧げになぞらえていくーーー


木陰に隠れて絵を描くだけで日が見えなくなる迄共にいる。快活な空模様がビーチの様で眩しかった、と謳える感性を持っていた。藍色の窓に漏れるいつもの彼女は珍しいことに今日は神妙な面持ちで空を眺めていた。いつになく不穏な気配を腹の奥底で抱きながらも、藍色の窓を覗くような顔もちの彼女の言葉を好奇とかの感情で待っていた。暫くすると、彼女はまだラフも終わっていないのに腰元の草むらにそっとペンを置いて描くのをやめてしまった。俺は惚けながら鑑賞してるだけの餓鬼だったからどうしたとも言えだせずにいると、彼女はそっと口を開いた。

「不思議だよね、空の色も山の色も、絵の中じゃ追えないなんて」

 風が、ふっと梢を鳴らした。

 それに反応するように、彼女の肩がわずかに揺れる。まるでため息のように、微かに笑った。

「何色で描いても、ぜんぶ足りない。ほんとうの色にはならないの。どれだけ絵の具を重ねても、あの空の“うつくしさ”には届かないの」

 俺は返す言葉を見つけられなかった。

 それまで湯音の言葉は、いつも未来に向かって跳ねていた。絵の中に夢を詰め込み、空白に希望を残していた。

 でもその日だけは違った。

 彼女の声は、まるでどこかへ還っていくような響きを帯びていた。

「くすんでるんじゃないんだよ、世界が」

 彼女は俺のほうを見ずに続けた。

「私のほうが、透明になってるだけ。何にも、触れられなくなってるだけ」

 藍の影が、彼女の輪郭を奪っていく。目の中に焼き付いた彼女の姿形が虚空に零れていかないように、僕は彼女に願っていた。

「絵、描いてもいい?」

「…なんかいい題材浮かんだ?」

そういって彼女は辺りに散らかった画材をまとめてやってくれた。俺はもらったチューブをパレットにひねり出しながら、ぽつぽつと浮かんでくる言葉を紡いで彼女の手綱をたぐってみる。

「俺、絵なんてちっともわかんなくてさ、美術の時間とかでも、どんだけすごい絵か説明されても全くわかんない。きっと………馬鹿なんだろうな、普通に。」

パレットの青色は黄色が溶け込み、青っぽいミント色になっていく。筆をペットボトルに入れて湿らせてからそいつらを掬い上げた。

「でも、湯音の絵はすごかった。何っていうのは、うまく言えないけど、それでも、俺は好きで」

ザラザラなスケッチブックを一枚ひっぺ剝がし、イーゼル代わりに俺の大腿に置いて、色を乗せていく。

「美術の先生言ってたんだよ、世界はあなたの世界でしか見れないって。意味わかんないけどさ、多分、人の顔色伺った物を作んなくてもいいって言いたかったんじゃねえかなって」

「…」

何か言いたそうに俺の絵を見る彼女に更に語り掛ける。

「さっき、湯音が言ってたろ。空の色も、山の色も、絵の中じゃ追えないって」

 筆を走らせながら、俺は自分の声が震えていないか気にしつつ、続けた。

「でもさ、たとえ追えなくても、描こうとするその気持ちは、絶対に“本物”だと思う。俺、うまく言えないけど──それが、湯音の絵にいつも感じてた“強さ”なんだ」

 言い終えると、彼女はほんの一瞬だけ目を細めて、静かに視線を落とした。パレットの上の水が、にじんで色を変える。

「……それさ」

 彼女がぽつりと漏らす。

「もっと早く言ってくれたら、よかったのにね」

 言葉の意味を測りかねて、俺は筆の動きを止めた。

 湯音は膝を抱えたまま、草のさざめく音に耳を澄ますようにして、続けた。

「私、たぶんずっと探してたんだと思う。“誰か”にわかってほしかった。下手でもいいから、追いかけてる途中のこの気持ちを、誰かに」

 その声には、滲んだ色鉛筆みたいな、濁った透明感があった。

 そしてそれが、どんな名画よりも、胸に響いた。

「じゃあさ、今からでも言うよ。俺、ずっと見てる。湯音の絵も、気持ちも。だから、もう……消えるみたいな顔、すんなよ」

 風が、ふっと吹き抜けて、彼女の髪をさらった。

 藍に染まった空の下で、彼女は少しだけ照れたように笑って、そして小さく呟いた。

「……ありがと、桔平」

微々たるものだが影の傾きは変わっていて、俺の顔に日が差し込む。

「あのね」

陽光に飲み込まれる俺にもうひとつ彼女は言った。

「明日もそう言ってね」

その言葉は、優しすぎて、怖かった。

 言葉の温度が、胸の奥で膨らんで、痛いくらいにあたたかい。

 俺は答えたかどうかさえ覚えていない。ただ、うなずいたような気がする。

 もしくは、それすらできなかったかもしれない。

 けれどその瞬間、確かに俺は、「明日」という言葉を信じようとした。

 湯音の横顔が、陽光に半分溶けていく。影の濃さが増していく。

 もうすぐ夕暮れだ。

 彼女は再びペンを握って、スケッチブックのページをめくる。

 その姿を見て、俺はまたひとつ、彼女の輪郭を記憶に焼き付けた。

 明日も。

 明後日も。

 その先も。

 俺が「見てる」と言ったことが、どうか、彼女の中に灯る明かりになりますように。

 俺の拙い言葉が、彼女の中で、絵よりも先に溶けて消えてしまいませんように。

 そう願いながら、俺は、筆を握ったまま空を見た。

 湯音が追いかけていた、届かない“うつくしさ”が、今だけはすぐそこにあるような気がしていた。

で結局湯音は死んだの?

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