虹がかかる
我々の住む闇の中には数多もの星屑がある。そいつ等の匂いはまた格別で、故に海賊どもは全てを乱獲しようとする。星屑が集まるのは虹がかかった島の何処か。神々の照らす七色の光の下にて奪うもの、守るものの血漿が飛び散るその閃光が、また星屑を大量に集めてくる。
カーテンの隙間から心地よい光が漏れ、床にそれを落としている。眠りが深く心地いい気分になっていた俺は、カーテンを開いて空の瞬きをめいっぱい浴びることにした。遮断された外界とのつながりを再接続する空。
「え」
その空に、虹がかかっていた。
七色の弧は空を裂くようにして、都市の煤けた空気に溶けず鮮烈に浮かんでいた。何かが始まる時の匂いがした。硝煙と金属の、それでいて少し甘い、星屑の匂いだ。
「嘘だろ……」
虹がかかる島は、地図の上の物語でしかなかったはずだ。海賊どもが血眼になって探し続けた幻想。奪われ、守られ、血の雨の中で光るというその星屑。俺はそんなものに縁のない、ただの地上の民だと思っていた。
だが目の前の空は明確に虹を掲げ、その下で確かに“それ”を待っている。
トントン、と背後で小さな足音がした。
「起きたの? 兄ちゃん」
妹の声だ。まだ幼いその瞳にも虹は映っているだろうかと思いながら振り返ると、彼女は窓の外を見て、無垢な笑顔で言った。
「ねえ、あれ、星屑が降ってくる前の虹なんでしょ?」
「……誰に聞いたんだ、それ」
「昨日、おばあちゃんが言ってたよ。虹の下で星屑が光るとき、神様が一人選ぶんだって」
選ばれる。そんな馬鹿な話が、今はやけに真実味を帯びていた。
虹の向こう側。そこに星屑が集まっているのなら、誰かがまた奪いに来るだろう。そして、誰かが守ろうとするだろう。
俺は窓を閉めて、部屋の奥に置いてある古びたバックパックを掴んだ。海賊でも、神様でもない。ただ一人の地上の民として、あの虹の下へ行かなくてはならない気がしていた。
「兄ちゃん、行くの?」
妹が不安げに俺を見上げる。頭を撫でて笑う。
「ああ、ちょっと星屑を見に行ってくるよ」
扉を開くとより一層高尚で芳醇な香りが鼻腔を貫いてきた。何て馨しいんだ。不意に空のバックパックの内に星屑を大量に詰める妄想を惹起された。
「兄ちゃん、忘れ物」
「へ?」
日常を再起させる妹の声が俺の魂を取り戻した。何故おれはあんな妄想を…。
ーーー星屑
真っ赤な混沌を愉悦する邪神。魔性の魅力がある、紛れもない呪物。
そして気が付いた。妹がこの空気を吸い込むと危ないのではないかと。しかし現実は奇怪。妹の瞳はいまだ瑕のない水晶玉のように明明としていて、瘴気を取り込まない頑なな自我が輝いている。
「これ」
そうだ、忘れ物と言っていた。なんだろうと内を覗いてみると、彼女の掌には小さな隕石があった。
掌の上で黒鉄のような隕石は小さく脈打っていた。鉛のように重い存在感を放ち、それでいて呼吸を合わせるように微細に震えている。
「どこで拾ったんだ、それ」
「昨日、庭に落ちてきたの」
妹は笑顔のまま隕石を差し出してくる。その瞳はやはり澄んでいて、星屑の呪いも邪神の瘴気も彼女を汚すことはできないように見えた。
「兄ちゃんに渡すって、決めてたんだよ」
触れた瞬間、頭の奥で音が弾けた。光の奔流が視界を裂き、七色の輝きが俺を呑み込む。虹の光、その奥にある黒い星屑の揺らぎ、遠くで無数の声が笑っていた。
(ーーー来るぞ)
誰の声かわからない。しかしその声は確実だった。虹の下で始まる血の儀式、奪い合い、守り合い、その中心に俺が立つことを告げていた。
(星屑が集まる時、奪う者と守る者が出会う)
手の中で隕石が脈打つたび、どこかの星屑が呼応するのがわかった。地平線の向こうで赤い光が瞬く。空は虹を掲げ、街は静かに息を潜めている。
「兄ちゃん?」
妹の声に我へ返る。彼女の小さな掌は暖かく、その上の隕石はただの石のように無言で沈黙していた。
「……ありがとう。これは、大事にする」
「うん」
妹は笑って頷くと、窓の外の虹を見つめた。その虹は、もう逃げ場のない運命のように俺たちの上にあった。
この隕石が星屑を呼び込む鍵なのかもしれない。ならばーー
奪う者になるのか、守る者になるのか。
バックパックを背負い直し、俺は虹の下へ歩き出す準備を始めた。
スマホに包丁に食料、サバイバルに必要最低限の物資を詰め込んで、靴ひもを結ぶ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
待ち構えていたかのように星屑の瘴気が立ち込めて来た。俺はポッケに突っ込んでいた隕石をお守りのように固く握りしめ、超克として無秩序のタナトスの風を掻き分けながら進む。青色の空と懸命に戦う戦士たちが、今宵星屑の幻影に翻弄されて決戦場に寄り集ってくる。大丈夫だ、皆冷静になれば、冷酷さも取り払われる。俺は決意を固める様再び隕石を強く握りしめた。と、その時地面が揺れた気がした。地震か?と思ったが揺れたのは一度きりでS波がなく、何何だ一体と不可思議な震動の原因を突き止めようとマンションの屋上まで登り、地上を一瞥した。
虹の光が割れたように、地平線の一点から光の柱が突き立っていた。七色の光が剣のように空を切り裂き、周囲の空気がひずんで渦巻く。あの光の中心に、星屑が呼び寄せられているのがわかる。瘴気が、狂気が、欲望が、すべてあの光に吸い寄せられていた。
遠くの道路で、誰かが走っていた。銃を構えた軍装の男。車に乗って突っ込む若者たち。小さなドローンを飛ばす集団。あらゆる人間が虹の柱へ向かって走っていく。笑いながら。泣きながら。怒鳴りながら。
(戦場だ……)
かつてニュースの中で見ていた戦場とは違う。あれは人間同士の殺し合い。だがこれは違う。もっと根源的な、星屑に取り憑かれた人間たちの、血の匂いのする狂気の舞踏だ。
ポケットの隕石が脈打つたびに、心臓の奥で何かが疼く。呼ばれている。行け、と声がする。
「うるせえよ……」
吐き捨てて屋上の柵を飛び越えた。非常階段を駆け下りる風景が一瞬で流れ去る。呼吸が乱れる。だが歩みは止められない。
マンションの出口を抜けると、街全体に虹の光の残響が広がっていた。壊れた信号機が赤青黄色を繰り返し、車は放置され、空には虹の破片のような光の断片が漂う。
俺は虹の柱の方向へ歩き出す。
行かなければならない。奪うためじゃない。守るためでもない。
虹の下で何が起きているのか、この目で確かめるために。
ポケットの隕石を取り出し、空に掲げる。
すると一瞬だけ、虹の柱がこちらを見た気がした。
(おいで)
声がした。
走り出した。
「兄ちゃん、頑張ってね」
藤崎奏は一つの星屑を眺めながらぽつりと呟いた。
「がぁがぁ」
心臓が胸筋を張り割かんばかりの拍動が精神を追い込んでいく。息も上がっていって器官が詰まる、生理現象なのか無為に涙腺が決壊していた。
「うぅふぅふっ」
走れメロスは親友の処刑から救うために奔走していた。だが俺は違うのだ、これから救うのは人間の深い深い業。
偶像である。
人間は、救われたいと願いながら、自ら望んで偶像に血を捧げる
虹の柱はますます強く輝き、空気が裂ける音が耳鳴りのように響いていた。七色の閃光の中で、街の輪郭が揺らぐ。壊れたガードレール、割れたアスファルト、停車した車の窓に映る俺の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
でも、止まれなかった。
「うぁ……っ、はっ……!」
呼吸が肺を切り裂く。心臓が脈打つたび、隕石が同じリズムで震える。虹の柱の中心から、星屑の瘴気が渦を巻いて吹き荒れ、道端に転がる人間たちの瞳が虚ろに光る。
笑いながら歩いている者もいた。
泣きながら這っている者もいた。
みんな虹に惹かれ、星屑に魅せられ、奪い、奪われ、最後に何も残らず光に溶けていく。
「ふざけるな……」
偶像なんかじゃない。星屑なんかに人間の全てを奪わせてたまるか。
虹の柱が近づく。耳が裂けそうな光の咆哮が響き渡る。街が星屑の瘴気に飲まれていくのがわかる。
俺はポケットの隕石を握りしめ、叫んだ。
「星屑ごときがッ!!」
隕石が光を放った。黒鉄の表面が割れ、眩い閃光が虹の色を切り裂く。周囲の瘴気が裂け、渦が生まれ、星屑の匂いが弾け飛ぶ。
(ああ、これが……)
星屑を纏った瞬間、意識が深い水底に引きずり込まれる感覚があった。無数の声が耳元で囁き、嗤い、嘆き、血を欲する声が脳髄を揺らす。
(これが、“星屑の力”だというのか)
周囲で倒れていた人々の目が、虹の輝きに塗り潰される。血の匂い。星屑の匂い。虹の下で、これからこの街が戦場になる。
その中心に立つのは、他でもない俺だ。
(偶像でいいさ。人間の業ごと引き受けてやる)
虹の柱が俺に牙を剥いた。
握りしめた隕石が、熱を帯びる。
走れ。虹の中へ。
走れ、奪う者でも守る者でもなく。
ーー人間として、この業を超えるために。
虹の中心で輝いていた星屑。彼の視界いっぱいには太陽を直視してるような灼熱の白が埋め尽くしていた。ホワイトノイズが微弱ながらに光の中から漏れている、民衆の祭儀である。天空か地中か地上か、それとも地球なのか、光の中は足を付けているようにも浮いてるようにも思える、不確定な領域だった。
熱い。皮膚が焼けるような痛みと、心臓を直接掴まれるような脈動が重なり合う。
視界いっぱいに広がる灼熱の白。その中に、無数の影が蠢いているのが見えた。老若男女、武器を持つ者、祈る者、泣く者、笑う者。そのすべてが白光の中で溶け合い、滲み、微弱なホワイトノイズとなって空気を震わせている。
(……これが、民衆の祭儀……か)
星屑に魅せられた者たちの欲望と恐怖が混じり合い、虹の中心で一つの巨大な祭壇を作り上げていた。誰もが星屑を欲し、奪い合い、奪われ、血を流し、その血がまた星屑の光を呼び込む。
(気持ち悪い……)
吐き気が込み上げる。だが足は止まらなかった。
光の中は重力さえあいまいで、歩いているのか漂っているのか分からない。それでも一歩踏み出すたび、白光の中に黒い影が瞬き、星屑の匂いが濃くなる。
「兄ちゃん」
声がした。
全身の神経が硬直する。聞き間違えるはずがない。光の中に小さな影が立っていた。小さな手、小さな足、透き通った水晶のような瞳。
「……奏?」
妹が、そこにいた。
彼女の手には小さな隕石が握られている。それは俺が持ってきたものと同じ、いや、それ以上に輝きを放ち、虹の光さえ押し返すほどだった。
「兄ちゃん、これが“星屑”なんだって」
笑顔で言う奏の声が、光のノイズにかき消されずはっきりと届く。
「兄ちゃんは、奪うの? 守るの?」
問われた瞬間、周囲の白光が赤黒く染まり始めた。
血の匂い。悲鳴。星屑の呪詛。虹の中心で祭儀が最高潮を迎えていた。
妹の目が、俺をまっすぐに射抜く。
「兄ちゃんは、何になるの?」
俺は、答えなければならなかった。
この星屑の祭壇の中心で。
この光の中で。
虹が割れる音がした。
ーーー俺は、虹になる。
言葉が口から零れ落ちた瞬間、世界が反転した。
視界を覆っていた灼熱の白が一度だけ瞬きを打ち、その内側で虹が爆ぜた。七色の閃光が血管を駆け巡り、骨の奥で鈍い震動が脈打つ。光と影、熱と冷気、歓喜と絶望、あらゆる感覚が体内で溶け合い、限界を超えた知覚となって脳を灼く。
(ああ、これがーーー星屑の力か)
星屑は奪う者に力を与え、守る者に祈りを授けるという。
だが俺は、そのどちらにもならない。
奪うことも、守ることも、誰かに委ねるものではない。
ならば俺自身が、虹となる。
血塗られた虹が、欲望の雨を降らせるのならーーー
俺が虹になって、それを止める。
「兄ちゃん……」
奏の瞳に映る俺の姿が、七色の光に包まれていた。
その小さな掌の星屑が共鳴するように淡く脈打つ。虹の柱が悲鳴を上げるように震え、周囲に集っていた奪う者たち、祈る者たちの姿が霧散していく。血も、恐怖も、欲望も、光の奔流に溶けて消える。
「兄ちゃんは……虹、なんだね」
妹の声が震えていた。
俺は笑った。虹色の光が涙に反射し、視界が七色に歪む。
「奏、見てろ。俺が、この街の虹になる」
星屑を奪う者でもなく、星屑を守る者でもなく、
人間の業と祈りをすべて背負って、虹となる。
虹の中心で星屑の渦が生まれ、俺の中で七色の光が爆ぜる。
地上では血と欲望の雨が降る。
天空では神々の視線が交わる。
地中では、邪神が蠢く。
そのすべてを繋ぐ虹となる。
ーーー今、俺が虹だ。
虹となった俺は、街を見下ろしていた。
七色の光が瓦礫と硝煙と血の雨を照らし出し、無数の声が最後の祈りを吐き出していた。
「愛してる」
「助けてくれ」
「奪わせろ」
「救わせろ」
「生きたい」
「死にたくない」
声はすべて、俺の光の中で溶け合い、やがて静寂へと還っていく。
その静寂の中で、俺はゆっくりと問いかけた。
ーーー人間よ、お前たちは何を望む?
奪うことか?
守ることか?
救うことか?
滅びることか?
血と涙で汚れた手を重ね合い、笑い合うその瞬間にすら、欲望が染みついていると知っているのか?
憎しみに瞳を焦がしながら、なお生きようと足掻く意味を理解しているのか?
星屑のように輝くものを求めながら、その光がどれほどの血で作られているか知っているのか?
ーーー人間よ、それでもお前たちは、生きたいか?
風が止まり、虹の光が世界を覆った。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
奪う者も、守る者も、笑う者も、泣く者も、みな等しく虹の光に包まれ、その問いかけを聞いていた。
答える声はなかった。
それでいい、と俺は思った。
生きたいなら、生きろ。
奪いたいなら、奪え。
守りたいなら、守れ。
死にたいなら、死ねばいい。
ただ、そのすべてを虹の中で見届けてやる。
それが、俺の選んだ道だ。
虹となった俺は、夜明けの空を越えて昇っていく太陽を見つめていた。
その光の先で、小さな影が手を振っていた。
奏だった。
彼女は笑っていた。
虹の下で、彼女は変わらず笑っていた。
(そうか、これでいいんだ)
世界が七色の雨を降らせながら、新しい朝を迎えていた。
星屑の雨が止むその時まで、俺は虹として、空にかかり続ける。
ーーーお前たちは何を望む?
問いは消えず、空に漂った。
その問いを抱えたまま、人間たちはまた、新しい日を生きていく。
虹の下で、星屑の光に導かれながら。
ーーー了。