しゃば
煙管から舞う流煙が海面に幻影を作り出す。そんな噂話を、一緒に検証しようかと悪友と交して既に十年は経っただろうか、今も昨日のように思い出す。嘘の噂で燥ぐ日々も愛おしい。大人のリアリズムはつまんないもので、今となっては。噂話の煙管は幻覚作用のある粉なんかを使って、勘違いした奴らの吹聴だとしか考えられない。俺は親友に幻覚は見れなかったぞと嗤い合う為、煙管を持って夜のビーチやってきたのだ。
波打ち際に腰を下ろし、煙管に火を点ける。
風はぬるく、塩と藻の匂いが鼻をついた。
細く吐き出した煙が、夜の空気に溶けていく。
月は高く、雲がひとつもない。
何も起きやしない。
やっぱり——と思っているくせに、どこかで期待してる自分がいる。
昔のように、バカみたいに目を見開いて、
「見たか今の!あれ!」
なんて叫ぶような、あの時間を。
火は三度目の吸い殻で消えた。
波が砂をさらう音だけが、耳に張りつく。
背後の防風林で、鳥でもない小動物でもない、何かが枝を揺らした気がして、
俺は思わずそっちを振り向いた。
——そこには、海があった。
いや、海じゃない。
もっと深く、もっと見慣れない、
濃い青が、立ち上がっていた。
「おい、マジかよ……」
思わず呟いたその声が、波に吸われるように消えた。
煙はもう、出ていない。
なのに、目の前には……幻か、現か。
そして俺は濃霧の内をより鮮明に見てやろうと幻影の奥を凝視した。この先に、俺の欲しいものが映っている。
「はは」
見た瞬間に乾いた笑いが飛んで出た。仕方ない、流煙越しに水面に火が映ったんだから。旧知との再会に溺れてここ迄やってきたのに、俺は今にしか興味を持てないのか。もしも現れたときのためにデジカメも持ってきたのに、適当な幻影を映しとっただけじゃ、噂の証左にしかなんないじゃねえか。
「はは」
俺はただ嗤って海の底に身での投げ出してやろうかと自分の姿を水面で確認しに行った。
水面には、俺がいた。
けれど、少し違う。
笑ってるはずの顔が、笑ってない。
いや、笑っているかどうかすら、曖昧だった。
波が揺れて、俺の輪郭は崩れた。
もう一度覗き込もうとして膝をついたとき、
——それは、確かにいた。
水面の奥、俺の足元のさらに下。
誰かが、手を伸ばしていた。
白く細い指。波に揺れもせず、まっすぐこちらに向かっている。
「……」
心臓が、ひとつ跳ねた。
幻だと笑い飛ばせなかった。
俺は、煙管をそっと砂に刺し、
波間に差し出されたその手を、なぜか握ろうとしていた。
ほんの悪ふざけのつもりだった。
それとも、やっと何かに会えた気がしたのかもしれない。
肌に触れる冷たさより先に、
重さだけが、ぐん、と身体を引いた。
——俺は、落ちた。
水じゃない、夜の底に。
ねんねに小癪、起きれば夕日、いつかはサヨナラ、いまわぎわ。
童子たちの歌い声が俺の鼓膜に張り付きながら沈んでいく。白い手は深淵の底から伸びていて今は姿を確認できない。俺が最後まで夜に落ちてしまえばいいだけだ。そして沈んでいった先に全身鏡が岩に掛けられていた。そこには、先ほど海面に浮上した俺の姿が、鮮明に映っていた。そこには、白い影法師が映し出されていた。俺が黙ってそいつを眺めていると、やがて白い影法師が口を開き、こちらに話しかけて来た。
「ぼこぼこ ぐちゃぐちゃ ぺちゃっ」
水の中では言葉も意味も泡のように砕け、
それでも確かに俺の脳裏にこびりついた。
その音は、何かを喰らう音にも、
あるいは言葉の死骸にも聞こえた。
俺は鏡を見つめながら、
思わず問いかけていた。
「……お前は、誰だ?」
白い影法師はにやりと口角を持ち上げ、
まるで俺の真似でもするように、また口を開いた。
「おまえ、だったもの」
背筋が粟立つのを、もう止めようとは思わなかった。
呼吸が苦しいはずなのに、なぜか意識はやけに冴えている。
水底のくせに視界はやけに明るく、
鏡の向こうの影法師は、俺の動きを完璧に後追いしていた。
いや――違う。
ほんのわずか、影のほうが先に動いている。
あれは鏡じゃない。
俺の写し身じゃない。
「おまえは、ここで終わる」
「わたしが、おまえになる」
その声がしたとき、鏡の中の“俺”が、にやりと笑った。
ちょうどさっき、自分が水面に浮かんだときのような、あの乾いた笑いだ。
俺は気づいてしまった。
俺は、最初からここにいたのだ。
あの日、煙管を交わす約束をしたときから、
俺はもう、“こちら側”に片足を踏み入れていたのだ。
そして今、ようやく両足そろって沈んだ。
あとは、入れ替わるだけだ。
白い影法師の姿が忽ち発光し、ついに融合するかと思ったその時、俺を夜の底まで引きずり込んだ白い手が白い影法師の足首を掴んだ。
「ご、がご」
泡にも声にもなりきれない呻きが、水中に震えを走らせた。
白い影法師が驚いたように鏡の向こうで動きを止める。
その足首を、さっきまで俺を引きずり込んでいたあの白い手が、
今度は逆に、影法師を引きずり込もうとしている。
「おい、待て、そっちは……」
俺が叫んでも、声は届かない。
泡だけが鏡の向こうに上がり、
白い影法師はみるみるうちに崩れはじめた。
顔が溶け、輪郭が歪み、
まるで夜そのものに引きちぎられていくようだった。
抵抗するそぶりもなく、
ただ、鏡の内側で笑い続けていた。
「ごが、ご……ぺちゃ」
音が濁った最後の瞬間、
影法師の目だけが俺を真っすぐ見つめていた。
哀れみか、怒りか、未練か、それとも——羨望か。
次の瞬間、全てが静まった。
鏡はただの岩にかかった水鏡となり、
白い手も、影法師も、
跡形もなく、夜の底に消えていた。
俺は一人、深淵の中で浮かんでいた。
吸っても吸っても苦しくない水。
冷たいはずなのに温かい皮膚の感触。
そして、心の底に確かに残る、
“誰かの記憶”の断片。
あれは、俺じゃなかったのか。
それとも、これからの俺だったのか。
俺はゆっくりと身を起こした。
水面を割って顔を出したとき、
世界はほんの少しだけ色が違って見えた。
夜空はより深く沈み、月は赤く滲み、
砂の粒子一つ一つが、異様なほど輪郭を持って煌めいている。
俺は、静かに浜へと這い上がった。
手足は軽い。むしろ、この重力を不思議に感じるほどだ。
水に濡れた衣服が肌に貼りついていたが、
その冷たさも、どこか遠くで起こっていることのように思えた。
「……ここは、どこだ?」
声を出して、驚いた。
響きが違う。
喉の奥から出ている感覚はあるのに、
まるで別の誰かの声が、俺の口を使って喋っているようだった。
デジカメが砂に半分埋まっている。
拾い上げて、レンズをこちらに向ける。
液晶に映った俺は、俺ではなかった。
面影こそあるが、目の奥が違う。
何か別のものが奥に座って、
俺の表情を借りて世界を見ている。
口角が、勝手に上がる。
——にやり。
「ふふ……ははは」
乾いた笑いが、口から漏れる。
感情が伴わない。
ただ、笑いだけが喉からこぼれる。
鏡の中で嗤っていた、あいつの笑いだ。
気づけば、俺の手には煙管が握られていた。
もう火は消えているはずなのに、
その先端から、微かに青い煙が立ちのぼっていた。
「……次は、どこへ行こうか」
風が吹いた。
白い砂が渦を巻き、夜の空に溶けていく。
俺は立ち上がり、
知らない誰かの思考で歩き出す。
かつて俺がいた世界は、
もう遠い幻の向こう側に沈んでいた。