雲が好きな人
あんまこの話好きじゃないかもー
僕はとんでもなく雲が好きだ。もはや彼女らを性的に愛し、欲求を解消するモチベーションとしても活用している。雲は不滅だからいい。この地上を循環しまくって、いつも僕のそばにいてくれるような包容感がある。あ、あの雲は巨乳だな。水分量が多くて黒が濃い。きっとこれから雨が降らすだろう。雨とは雲の状態変化した形である。事実上彼女らの成分を浴びることになる。きっとこれは低俗な情交とは常軌を逸する天幸。
ーねえ、私を追いかけてみてー
捕まえられるなら、僕が空を飛べたなら…
「おい切島、ぼーっとすんな」
不意に声をかけられて動揺しながら声をかけられた方に目を向けた。
振り返ると、いつものように前の席から振り返っているのは、安藤だった。
短く切り揃えた前髪の向こうから、目元だけがじっとこちらを射抜いてくる。
「いや、ちょっと…雲がさ」
「またそれ?あんた、雲ばっか見てるよね」
肩をすくめながら彼女は言う。
どこか呆れたようで、でも毎度のことに少し安心しているようでもある。
教室はまばらだった。出席しているのは十人に満たない。
それでも、誰も特別に気にしていないような、だらけた空気が漂っていた。
午後の光が傾きかけ、窓の外に浮かぶ雲が、またゆっくりと形を変える。
「……なあ、安藤」
「なに?」
「今、あの雲がさ。すげえ良くて」
「また巨乳とか言うんでしょ?」
先回りされた僕は、一瞬で言葉を詰まらせた。
安藤は笑ってる。悪意のない、まっすぐな笑いだ。
「……ちがうよ。今日はもっと…神々しいんだよ」
そう言って、窓の外を見上げる。
雲は、またすこしかたちを変えていた。
まるで何かを語りかけるように、ゆっくりと。
「ついにおかしくなったか…」
嘲笑を含めた声でそうからかってきた。こいつは何もわかっちゃいない。俺の好きなものはいつだって弱点のように暴露される。流動する摂理を享受する愉しみを知れないとは、救ってやりなさい、そんなお告げが神々しく僕のもとに送られる。だがしかし小心者な僕はいつだって勇んだ言葉を発することができないんだ。鉤につままれた喉を鞭撻する根気もわかないまま、僕はうなだれてしまった。
「え、いやw冗談だよ…」
彼女はかすかに私だって…とすぼみながら口にして、あとは何も言わなかった。人間は相対性の生物である。醜態をさらさなくてはいけない生贄が確実に生まれてしまう。平等はなく、ただ一定の均衡を競争の上で成り立たせているだけだ。
「何もない空へ飛んでゆきたい。」
僕は間を埋めるためか自然とこぼしてしまった。別に共感を求めているわけでない。孤独な相槌。彼女はすでに自身の机へ戻ってしまったみたいだ。気まずい空気は自惚れが生み出した幻想であったか。
雷を落とす巨雲は今もなお季節風に扇がれてこちらへと接近していっている。堆積した雲たちは団塊を作って母体を作り上げる。それは生命の真理を付いているように神秘的でまた、美しい。そんなことを夢想していると僕の机の上に一冊の本が置かれた。見上げると彼女がいた。何もせず見つめていると、背徳的で申し訳なさそうにしながら彼女は僕に語り掛けた
「この本なんだけどねたぶん、あんた好きそうだと思って」
そう言って彼女は視線を逸らした。
表紙はすでに手垢で柔らかくなりかけた文庫本。タイトルは――『空の思想』。
著者名を目で追いながら、手に取ると、なんだか体温が移っているような気がした。
「……読んだことない。けど、気になる」
「ほらやっぱり。雲とか、空とか、そういうのばっか言ってるし」
安藤は照れ隠しなのか、言葉を早口にしていた。
教室の片隅で、まるで誰にも気づかれない小さな贈り物が交わされたようだった。
僕の胸に、奇妙な不協和音が鳴る。戸惑いと、期待と、羞恥と、安堵――それらの成分が曇りなく混ざり合っていた。
「ありがとう。……ていうか、さっきのも、冗談に聞こえなかったけど」
僕は冗談めかして言ったが、それはまるで誰かの言葉をなぞるようにぎこちなかった。
「……私だって、空くらい見上げることあるよ。そういう気分のとき、あるから」
ぽつりと、安藤が言った。
その声は風のように軽く、しかし深く僕の中に落ちていった。
外では、雷雲がついに形をはっきりとさせ、ゴロゴロと低く鳴っていた。
教室にいたのは、僕と、彼女と、そして遠くで轟く空の音だけだった。
「あのさ!」
彼女は臍を固めたように言った。同時に僕は理解する。それはドラマの次の展開を読むような客観的考察ーやや、これは無駄な営みだ。だがしかし、何かー霧が晴れ晴れとしてしまうようなー絶望的な喪失感を待ち望んでいるのだと僕の心臓は高鳴っている。何か無秩序である…逃げねば。途端に僕は机から出走した。彼女から距離を置かないと…理念が瓦解する。だが確固たる倫理観の喧噪とは裏腹に、僕は保健体育のある授業のことを思い出していた。
男女の意識が芽生えてくるのは思春期からです。だからアニメのカップルは中高生が多くてー
嗚呼、これではドラマティックな関係への昇華を期待しているみたいじゃないか!
自分が人間になっていたいと願っているみたいではないか!
教室に出る寸前の彼女の呼び止めを僕は耳に入れず廊下へと駆けて行った。上履きも傘もろくに準備せず、雷雨に打たれるまま外に飛びだした。僕は雨を抱擁した。雨に打たれるアスファルト、嚥下する排水溝。ここは安心する。世界全てを受容する母性。僕は今、胎盤の中にいる。制服はあなたによって質量が増されている。存在の重み。溜息をついてやっと落ち着いてきたとき、傘を差した彼女が玄関から出て来るのを見た。
黒い雲から猛然たる神の炎が地上を貫いている。遠くからは地に強く響く雷鳴。
あらゆる天動を無視しながら彼女は僕を憐憫の目で見ている。何をしでかすかわからない。…慎重に見てなければならぬ…
「あのさ、なんで逃げるの?」
雨音に紛れて、でもはっきりと聞こえた。
傘の中で濡れていないのは彼女だけ。僕は滴る前髪の下から彼女を睨むように見たが、その視線はすぐに萎えてしまった。
声を荒げたわけじゃない。問い詰めるでもない。ただ、真っ直ぐだった。
「怖いよ、そんなの……」
僕は息を吐くように答えた。雨が僕の声を小さくして、聞こえたかどうかもわからない。でも、彼女は一歩、また一歩、足を進めてきた。
「別に、責めてるわけじゃない。ただ……私、あんたと、ちゃんと話がしたいだけなんだよ」
「ちゃんと話すって、何を?」
彼女は一瞬口を閉ざした。
雷鳴がまた遠くで鳴り、空が明滅する。彼女の顔が、その光で瞬間だけ鮮明になった。
「私ね、たぶん、あんたのこと、ちょっと好きなんだと思う」
その言葉を聞いて、僕の脳内に雲が爆発した。
混乱とか、驚きとか、嬉しさとか、罪悪感とか、いろんな感情がいっぺんに湧き出して、足元がふらついた。
彼女は、傘を僕に差し出してきた。自分はそのまま濡れながら。
「だから、逃げないでよ。せめてさ……、私の気持ちも、ちょっとだけ見てよ」
彼女の前髪が額に張り付き、雨に濡れた頬がかすかに紅潮していた。
僕は、雨に包まれたまま、その傘の柄を握った。小さな宇宙が、そこにできた。
雷は去っていくように遠のき、代わりに空に新しい青が生まれはじめていた。
あなたが僕に語り掛けたかったのは、達成可能な願望を、己の限界に納得しろ。という事だったのかもしれない。人間は人間としか付き合うことはできない。人間はあなたと付き合うことは一生できない。僕は今でもあなたを愛している。なによりあなたと付き合いたい、と高飛車なことを望んでいつまでも挫折と絶望を繰り返していることも諦観で受け止めていた。望んだことは淘汰されて、運命の道程は徐々に平たんになっていく。あなたは万物の象徴だーつまり、何事も揮発してしまう。喪失感が僕の胸を確かに蝕んでいる。僕だった僕が揮発していく。魂は、情熱は、希望は、個性は、…あなたなのだ。
「泣いてるの…?」
問いかける彼女に一言、僕は言った。
「なんでもない」
喉が乾いて声にならなかった。でも、かすれたその一言が僕の全部だった。
あなたが好きだった。けれど、愛せば愛するほど、それは掴めなくなるものだった。手を伸ばせば伸ばすほど、ただ空っぽになるだけだった。
――でも、彼女は違った。そこに、いた。ちゃんと、届く場所にいた。
「泣いてたくせに、なんでもないはずないじゃん」
彼女はそう言いながら、傘の中にもっと僕を引き寄せた。体温が触れるほどの距離。
その優しさに、また少し涙が溢れそうになった。
「俺……ずっと、間違ってたのかも。ずっと、雲にばっか手を伸ばしてて、人のこと、ちゃんと見れてなかった」
「うん。雲ってさ、見上げるものでしょ? でも私は、同じ高さで隣にいてほしいだけなんだよ」
その言葉は、雨の匂いと一緒に心に染みた。
もしかすると、僕が追いかけていたあなたの本当の姿は、彼女の中にあったのかもしれない。
揺らいで、移ろって、でも確かにそこにいて、時には光を遮りながらも、大地を潤す存在。
そして今、僕の隣に傘を差しているこの人こそが、僕の空だった。
僕はようやく、彼女の目をまっすぐに見て言った。
「ありがとう。…俺、君のこと、もうちょっとちゃんと知りたい」
空はいつのまにか晴れ間を見せ始めていた。
あなたは遠くへ流れていく。
けれど、それはもう喪失じゃない。新しい始まりの予感だった。
次回もこうご期待!