夢の世
◆◇
朝の空気がまだ少しひんやりと冷たい時間帯、良太と瀬奈は同じタイミングで目を開いた。
部屋のカーテンの隙間からうっすらと光が差しこんでいる。
薄暗い寝室で、二人はそのまま息を詰めるように互いを見つめ合った。
まるで幽霊でも見るかのような、驚きと安堵が混じった視線。
どちらから口を開くわけでもなく、しばらくのあいだ二人は寝床の中で硬直していた。
微かに聞こえるのは時計の秒針と、遠くの車のエンジン音くらい。
瀬奈はおずおずとと言った風情で良太の体へ手を伸ばす。
──温かい
確かに心臓は動いている。
先に口を開いたのは瀬奈だった。
「……今、何日? えっと……時間は……」
枕元に置きっぱなしのスマートフォンに手を伸ばそうとするが、まだ目の焦点が合わないのか、瀬奈は少し探るような手つきになる。
良太が自分のほうのスマートフォンを取って、点いた画面を覗き込んだ。
「6月2日……時間は、7時半前かな」
良太の声は寝起きで掠れている。
瀬奈はそれを聞いてかすかにうなずき、再び枕に顔を埋めた。
頭がぼうっとする。
夢から抜け出し切れないような、身体の芯がぐにゃりとした感覚が続いていた。
良太もまた、頭がすっきりしない。
しばらく黙り込んだまま天井を見上げ、何やら考え込んでいる。
ほんの数秒、あるいは数分の沈黙が過ぎて、ようやく良太は横向きになり瀬奈を見て言った。
「なんだか、凄く嫌な夢を見たよ」
すると瀬奈も「私も」と答える。
二人はベッドの中でしばらく動かなかった。
そうしているうちに、瀬奈がようやくむくりと身体を起こす。
寝癖があちこちに跳ねているのが、朝の日差しで照らし出されていた。
それを見て良太はデジャヴに襲われる。
瀬奈は小さく伸びをすると、卓上に置いたスマートフォンをちらっと見やった。
チカチカと点灯し、なにかしらの着信なりがあったことが分かる。
瀬奈が画面を確認すると、その顔が微妙に歪められた。
良太はわずかに眉をひそめる。「どうした?」と尋ねれば、瀬奈は画面を閉じるように手で隠してから、ほんの短いため息をついて言う。
「この前会社の飲み会があってね、プロジェクトの皆で連絡先を交換したんだけど……そのうちの一人が、ちょっとしつこいんだよね」
「しつこいって……どういう?」
「しょっちゅうメッセージを送ってくるの。『食事しない?』とか『休みの日会えない?』とか……最初は社交辞令かなと思って返信してたんだけど、あまりにしつこいからちょっと気味悪いんだ」
瀬奈が手元のスマホを良太のほうへ向ける。
ロックを解除すると、そこには名前が「佐伯 信二」と記されたトーク画面が表示されていた。
内容を見ると、明らかに個人的な好意を前提としたアプローチが連投されている。
優しい文面を装っているが、しきりにデートを勧めてくるニュアンスがありありと伝わった。
良太は思わず口をへの字に曲げる。
「うわ……こいつ──瀬奈のこと、がっつり狙ってる感じだな」
嫌悪が混ざった口調に、瀬奈はほんの少しだけ驚いた様子で顔を見返す。
瀬奈の知る良太という男は、余り負の感情を露わにしない。
だから少し意外だった。
良太はなおも言う。
「あんまりしつこいなら、ブロックしちゃいなよ。というか、ブロックしてほしい。……でも会社の人だと、いきなりはまずいのかな?」
良太は苛立ち混じりにそう言いながら画面をスクロールする。
途切れることなく続く文面に、表情がさらに険しくなる。
「……人の恋人にモーションかけるやつって最悪だよな」
瀬奈は「うん……」とため息まじりに頷いた。
会社の同僚というだけでも鬱陶しいのに、何度も断っているのに通じないのが余計に厄介だ。
画面を下まで見た良太が、さらに不機嫌そうに唸る。
「ほんと気分悪い。コンプライアンス違反じゃないの、こういうのは。普通に上司に相談してもいいんじゃない?」
「そうだね、明日出社したら相談してみる。っていうか、嫉妬してくれてるんだ? なんか珍しいねそういうの」
瀬奈が言うと良太は腕を組み、何やらウーンと唸って──
「いい人ぶるのは辞めることにしたんだ」
などと言う。
瀬奈は一瞬ぎくりとしたものの、やがて「そっかぁ~」と気の抜けたような相槌を返し、良太に抱きついた。
そうして「私も……」と呟くと、おもむろに件の男に対して返信を打ち込む。
──『私には恋人がいるから、と何度も断っているにも関わらず、こうしてしつこく誘いをかけてきたことについて、トーク画面のスクリーンショットも沿えて私の上司及びあなたの会社のコンプライアンス担当者へ相談させていただきます。またそれでも行動が改まらない場合は、最寄りの警察署へストーカー被害の相談もさせていただきます』
職場の関係に向けてのメッセージとしてはこれは相当に強い文言だ。
良太は一瞬ぎょっとしたが、瀬奈が自分との関係をそれだけ大切に考えてくれているのだと思うと嬉しくなった。
「……大丈夫なの?」
良太が問うと、瀬奈は言う。
「うん、まあなんかちょっとメッセージ来たくらいで過剰な、みたいな感じで言われるかもしれないけど、嫌なものは嫌なんだもん。後はこうしてはっきり言った方が良太も安心できるでしょ? 私がちゃんと良太が好きだって分かって」
瀬奈がにやっとした風に笑うと、良太は苦笑いする。
それに、と瀬奈は続けた。
「まあ、私も……良太の事、す、好きだし。結局私にとってはそれが一番大事なんじゃないかなっておもって。勿論良太が私を好きでいてくれていることは嬉しいけどね」
試したりして、それで安心しようなんてろくな事にならない、と瀬奈は思う。
世の中にははっきりさせた方がいい事と、そうじゃない事があるのだ、と。
真実がどうこうというより、自分がそうと信じる方が良いこともあるのではないか、と。
──あれが夢で良かった
ふと時計を見る。
時刻は7時半だった。