瀬奈
◇
私──相沢 瀬奈は中野 良太と付き合っている。
彼が何気なく掛けてくれる言葉のひとつひとつが、優しくて、柔らかくて大好きだった。
良太は私の些細なしぐさや表情を見逃さず、「かわいい」と言ってくれたり、ふいに「今日も髪型似合ってるね」なんて気軽に褒めてくれる。
正直、私はずっと自分に自信がなくて、だからこそそんな風に言ってもらえるたびに「この人を大事にしたい」って思えた。
お互いに自然体でいられる関係を、これから先もずっと続けていけたらいい。
そう願いながら、ありふれた毎日を重ねていくうちに、私たちは同棲するようになっていた。
ところが同棲を始めてしばらくして、私は良太がどこか頼りなく見えてくるようになった。
同僚の飲み会で会った男がしつこく言い寄ってくるという話を彼に打ち明けたときも、良太は「そっか、大変だね」程度で済ませてしまう。
もちろん「気をつけてね」とは言ってくれるし、私が不安そうにしていれば「ブロックしちゃえば?」と提案はしてくれる。
でも、それはあくまで“こうしてみたら? ”くらいの軽いアドバイスだった。
私が本当に求めていたのは、もっと深い部分での寄り添いや、時には「そんな男、許さない」くらいの強い感情かもしれない。
口に出さなかったけれど、内心、良太の優しいだけの態度に小さな物足りなさを抱いていた。
同僚のしつこい男……佐伯 信二ははっきり言って苦手だったし、気持ち悪いとさえ感じていた。
何度も「連絡してこないでください」と伝えても、まるで通じていないかのようにメッセージが届く。
職場の同僚だからブロックもしづらいというのもあったが、私自身、どこかでその押しの強さに惹かれていったのかもしれない。
もう少し強く言えば相手はあきらめたかもしれないのに。
でも私は、はっきり拒絶しなかった。
理由は良く分からない。
良太が余り嫌そうにしていなかったからというのもあるのかもしれない。
私が他の男にこうしてアプローチされているんだから、少しは嫌そうにしてよという思いがあったのかも。
やがて佐伯にしつこく誘われ続けた結果、「一度だけ会って、きっぱり断ろう」という結論に至ったのは、今思えば愚かな考えだったと思う。
私はその夜の出来事を思い返すたび、どうしてもっと早くすべてを断ち切らなかったのかと自分を責めずにはいられない。
一度だけ、たった一度だけ食事をする──それだけのつもりだった。
そこで「私はあなたを受け入れる気はない」ということを明確に伝えて、もう連絡しないようにきっぱり言おうと心に決めていた。
だから帰りが少し遅くなることも良太に言えなくて、嘘をついて家を出てしまった。
「女友達と飲む約束があるから遅くなる」と。
なぜ、そのとき良太に本当のことを言えなかったのか。
駆け引きのつもりだったのか──考えれば考えるほど、私は自分の心の醜さに息が詰まる。
佐伯との食事は最初こそ私が強い態度で断りを入れようとしたが、向こうは酒をしつこく勧めてきた。
断れば面倒だという思いもあった。
でも、飲まされるうちに頭がぼんやりしていって──お酒の勢いもあってか段々と口も軽くなってしまって、言いたくない事もいってしまった。
そして店を出る頃にはしっかり酔いが回っていて、タクシーに乗せられ、そのままホテルへと連れていかれた。
そんな事をするつもりはない──呂律の回らない口でそんな事を言ったけれど、佐伯は聞き入れてくれなかった。
佐伯はこんな事を私に言った。
──「俺が何度も連絡しても彼氏さんは直接俺に連絡してこようともしなかった。あんた、本当に大切にされているのか? 俺だったら付き合っている女に粉をかけられたら絶対に許さないぜ」
そうかも、と思ってしまったのはお酒のせいだろうか?
いや、私の本心だったのかもしれない。
結局、私は押し切られる様に体を許してしまった。
自宅に戻ったのは深夜を回った頃だった。
季節外れの冷たい雨の中を、私は傘もささずに歩いていた。
やがて家につき、ドアを開けると、リビングのソファに座り込んでいた良太の姿が目に飛び込んできた。
心配してくれていたのだろう、良太の様子は明らかに憔悴している。
それを見て私は 「ごめんなさい」としか言えなかった。
良太の胸に顔を埋めて、何度も何度も繰り返した。
そして、あの夜が来る。
良太が「少し出かけてくる」とだけ言い残して、夜の街へ消えたまま戻ってこなかったあの夜。
翌日になっても彼の姿はなく、連絡は一切繋がらない。
焦燥感が胸を締めつけ、警察に連絡しようかとも思った。
だが結局──警察に連絡するまでもなく、当の警察から連絡がきた。
考え得る最悪の知らせだった。
◇
それから私はしばらく何も手につかなくなった。
職場にも行けず、食事も喉を通らない。
ベッドに横たわっては、「もう一度だけ彼に会いたい」「ちゃんと謝りたい」と願うばかり。
どんな言葉でもいいから、直接伝えたい。
だけど死んだ人は帰ってこない。
そんな私の願いを神さまか──悪魔が叶えてくれたのだろう。
私はある晩を境に、夢の中で毎晩良太と逢う事ができた。
でも、良太は私にこんな事を言うのだ。
──「いつかこうなると思っていた。僕は瀬奈をずっと疑っていたよ。いつか裏切るんじゃないかって。結局そうなったね」
──「裏切り者。僕を殺したのは瀬奈だ。でも君はきっと気にも留めないんだろうね。今頃あの男と毎晩楽しんでいるのかな?」
──「どうして泣いているの? 許して欲しいから? 僕は決して君を許さないよ。君は僕を殺したんだ」
嗚呼、良太がとても怒っている。
私は何度も許しを乞うたけれど、良太は許してくれない。
でも、辛く苦しい反面、どこか安堵する気持ちもあった。
私がしたことに対し、言葉一つで許して欲しくないからだ。
夢の中の良太は私がしたこと、その事が良太をどれだけ傷つけたかを伝えてくる。
それを聞く度、私は頭が狂いそうになる。
頭がおかしくなる、おかしくなる、おかしくなる──でも良太が私に怒ってくれているという事が、どこか嬉しいと思う気持ちもあった。
そんな日々が続いて──
──「どうしても許して欲しいなら、死ね。僕みたいに、飛び降りて死ね」
と、夢の中の良太がそう言ってくれた。
とても、とても嬉しい。
時刻は午前7時半。
ああ、でもそう言えば少し前から時計が壊れていたっけ。
じゃあ時間は何時なんだろう。
まあいいか。
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その日の朝はよく晴れていた。
雲ひとつない青空が広がっていて、あの青の向こうで良太が待っていてくれるのだと思うと逸る心が抑えきれない。
ビル風がごう、と髪を巻き上げる。
見下ろす街並みは小さく、遠くに感じる。
良太もこの光景を見たのだろうか?
私は柵を乗り越え、身を投げた。
浮遊感の後、何かに体が強く打ち付けられて。
私は霞む視界の中、私を見下ろす良太の姿を見た。
嗚呼、良太、そこに居たんだね。
じゃあ、死ななくても、よかったの、かも。