良太
◆
僕──中野 良太は、相沢 瀬奈という子と付き合っている。
彼女の全てが好きなのだ。
彼女が少しだけ恥ずかしそうに目を伏せるしぐさも、僕の冗談にくすりと笑って「変なの」と肩をすくめるところも、本当に愛おしくて仕方がなかった。
逆に僕は昔からどこか打たれ弱くて、自分に自信が持てない人間だった。
瀬奈はいつも笑い飛ばして「良太には良い所が沢山あるんだよ」なんて言ってくれたけれど、時々、「自分なんかで本当に大丈夫なのかな」と不安になることがあった。
瀬奈ほど魅力的な人が、どうして僕みたいなどんくさい男を好きでいてくれるんだろうか、と。
でも付き合って1年経ち、2年経ち、同棲をする頃には瀬奈が僕を好いてくれているのは当然だと思うようになった。
物事に絶対なんてものはないのに。
ある日の朝、瀬奈はある男から執拗に誘いを受けている、といい出した。
起きたばかりで頭のそこかしこに寝癖が跳ねている瀬奈を見ながら、僕はぼんやりと話を聞いていた。
彼女の職場関係の飲み会で知り合った男らしい。
僕は「そうなんだ、大変だね」くらいしか言わなかったのだけれど、瀬奈は不快そうだ。
「連絡するな」と伝えても、相手はまるで通じていないかのようにメッセージを送り続けてくるという。
僕は「ブロックしちゃえば?」と言ったけれど、瀬奈は「職場関係の人だとなかなかね……」と困ったように笑う。
たしかに相手が逆上でもしたらトラブルになるかもしれない。
僕はそのとき、曖昧に「気をつけて」としか言えず、最後は瀬奈が「大丈夫だから」と僕の手を握り返して終わっていた。
あのとき、もっと踏み込んでいればよかったのかもしれない。
だけど僕は何もできなかった。
瀬奈が困っていると口では言っても、結局どこか他人事のように捉えていた。
その男——ここでは「間男」と呼ぶしかない。そいつはしつこく瀬奈を誘い続けて、ついに「一回だけデートしてあげるから、これで諦めてください」と言質を引き出したらしい。
瀬奈は後になって僕に告白してくれた。
「ほんとは最初から行きたくなんかなかったけど、一度だけ顔を出してきっぱり断ろうと思った」と。
だがそのデートの結果は、瀬奈にとっても僕にとっても最悪の形となった。
瀬奈はその日、「女友達と飲む約束がある」と言って深夜まで帰ってこなかった。
携帯に連絡しても繋がらない。
僕は胸騒ぎを覚えながら、自宅のソファでただひたすら瀬奈を待った。
外では季節外れの冷たい雨が降っている。
もしかしたら飲み会の二次会かもしれないし、単に電車を逃しただけかもしれない。
自分にそう言い聞かせて、僕はただ動悸のする胸を抱え込んでいた。
午前2時を回った頃、瀬奈は帰ってきた。
びしょ濡れで、目は赤く腫れている。
決して僕とは視線を合わせようとしない。
それだけでもただ事じゃないとわかった。
僕は何が起きたのか問いただそうとしたけれど、瀬奈はそれを制するかのように僕の胸に顔を埋めて、細い声で「ごめんなさい、ごめんなさい……」と何度も繰り返した。
その様子を見て、僕は嫌な予感が現実化したことを悟る。
「……抱かれたの? 女友達じゃなくて、あの、その……しつこかったっていう男と会っていたの?」
自分で口にして、あまりの生々しさに吐き気がした。
瀬奈は俯いたまま、項垂れるように小さく頷く。
背中が震えていた。
さっきまで寒い雨の中を歩いてきたせいだと思うようにしても、そんなわけはない。
瀬奈が自分を責めていることは一目でわかった。
「違うの……私は……私は良太が好きなのに……」
何度も聞いたはずの瀬奈の愛の言葉が、今は耳に突き刺さる。
胸に拭いきれない嫌悪感と自己嫌悪とが混じり合って、どうしようもない感情が渦を巻く。
僕は言葉を出そうにも声が上手く出てこない。
喉がひゅうひゅうとなり、まるで呼吸さえ忘れてしまったようだった。
「なにか、無理やり……やられたのか?」
それならまだ救いがあると思った。
彼女は悪くないと自分に言い聞かせられる。
その考え自体も吐き気がする者だったが、この時の僕にはまだマシな結末に思えた。
なぜなら無理やりならば、僕は悪くないからだ。
だけど瀬奈はまた弱々しく首を横に振る。
どうやら合意しての事らしい。
「本当は嫌だった」と言い訳する彼女の姿は、僕にとって信じたくない現実を突きつけてくるだけだった。
◆
瀬奈が好きだという気持ちは変わらなかったが、彼女と目を合わせるだけで心の中に鋭い痛みが走る。
最初のうちこそ何とか二人の関係を元に戻そうと必死で笑顔を作ったり、瀬奈に「僕は気にしてない、大丈夫だよ」と声をかけたりもした。
瀬奈も「もうあんな事は絶対にしない」と誓ってくれたし、繰り返し「ごめんなさい」と謝ってくれた。
だけど僕の心には瀬奈を傷つけたくないという気持ちと同じくらい、裏切られた事実が根を張っていた。
僕は弱い人間だ。
瀬奈を見るたびに、あの間男と身体を重ねた事実が暗い残像となって蘇った。
抱かれた、抱かれた、抱かれた!
瀬奈は、僕の知らない男に抱かれた!!
僕を裏切った!
何度か瀬奈を責め立てる衝動が湧いたが、同時に「そんなことをすれば瀬奈はさらに傷つく」という思いも働き、言葉に詰まる。
苦しい。
どうしてこんなにも苦しいのか。
僕は何事もなかったかのように振る舞おうとした。
でもダメだった。
ある日帰宅途中に、あの間男と瀬奈が言い争うように立ち話しているのを目撃してしまった。
瀬奈は彼にもう近づくなと繰り返していた。
男はゆるい笑みを浮かべて「じゃあ、もう会わなきゃいいのか?」なんて気だるそうに返している。
最初は胸を撫で下ろした。
瀬奈は間男を拒絶してくれているんだと安堵した。
けれど男の言葉を聞いたとき、僕は全身が凍りつくような感覚に襲われた。
「でもさあ、あんな風に甘えてきたのはお前だろ? あのときも『彼氏と別れようかな……』って言ってたじゃん」
瀬奈が「そんなわけないでしょ!」と激しく否定する声が聞こえた。
「甘えてなんかいないわよ! ただ……ただ、良太は、私が何をしても『いいよ』って言って、それは嬉しいけど……でも、それって優しいんじゃなくて、実はどうでもいいって思ってるから、なのかなって……」
「それで嫉妬させようとして飲み会だけいったら、まんまと潰れて俺にお持ち帰りされちまったわけだ! でも俺に抱かれてる時のお前は随分と……」
「言わないで!!」
胸が締め付けられ、僕の内側で何かが大きく崩れた。
ああ、僕は、やっぱり彼女を満たせるほどの存在じゃなかったのだ。
結局、瀬奈に声をかけられず、僕はそっと物陰から逃げるように帰宅した。
家に帰って瀬奈を待って──それから怒鳴り散らしてやるべきか、問い詰めるべきか、いろいろ考えた。
でも僕は臆病者だ。
瀬奈に嫌われたくないという思いがある。
結局その日は、瀬奈に何も言えなかった。
そして僕らは初めて別々に寝た。
◆
あの光景を見てしまってから、もう僕は瀬奈の顔をまともに見れなかった。
一緒にいると息苦しいのだ。
でも瀬奈は「ご飯作るね」とか、「週末はどこ行こうか」なんて無理に明るくしてくれている。
僕はそんな瀬奈を嫌いになれない。
じゃあこれまでと同じ様に好きで居られるかといわれれば──NOだった。
自分の弱さが呪わしい。
そのまま数日が過ぎ、瀬奈もどこか気を遣っているのか互いに腫れ物を触るような空気になった。
何か一言でも言ったら、あるいは言われたら。
それまで保っていた何かが崩れてしまいそうで、どちらからも決定的な言葉が出ない。
煮え切らない苛立ちと、形容しがたい喪失感が入り混じり、僕は夜もほとんど眠れなかった。
仕事も集中できず、上司に叱責され、休日も部屋に引きこもって塞ぎこんでいた。
瀬奈といずれ元通りになる日が来ると信じる気持ちと、この苦痛から逃れたいという願望で気が狂いそうになる日々が続く。
もし、すべてをリセットできるなら……そんな考えが頭をよぎる。
心が壊れ始めていた。
そしてある日の夜、僕はそっと家を出た。
何となくコンビニに寄って、缶コーヒーを飲みながらコンビニの軒先に立ち尽くしていたら、どこへともなく消えてしまいたいという思いに駆られる。
僕は情けなかった。
まともに話し合うことすらできずに逃げ出した自分がいやでいやで堪らなくて、死にたくてどうしようもなかった。
そのまま足を運ぶように線路沿いを歩いた僕は、いつしか高架下のフェンスを乗り越え、緩やかな土手を下りて橋脚の下へと向かった。
冷たい風に晒されながら、気づけば両手が真っ青にかじかんでいる。
色んなモノから逃げてきた僕は、ついに人生からも逃げる事になったのだ。
そうして僕は橋から身を投げた。
足元に感じる空虚な浮遊感と、頭上で風に煽られた服がばたつく音。
それきり、僕の記憶は断ち切られた──はずだった。
◆
だが、僕の意識は完全に消えることはなかった。
死んだのに、死んでいない。
そんな奇妙な感覚の中で、僕は自分がどこにいるのか、どうなっているのか、最初はさっぱりわからなかった。
ただ、暗い闇の中に浮かんでいるような状態で、「瀬奈に会いたい」という思いだけがどうしようもなく強く渦巻いていた。
気づいたときには、ぼんやりと霧がかかったような空間に居た。
向かいには瀬奈の姿がある。
瀬奈は僕の姿を見て一瞬息を呑み、「良太……」と呟いた。
震える手を伸ばし、けれど触れることはできない。
お互いの輪郭が淡く揺らめいている。
なんとなく、これは夢なんだと直感した。
ここでなら瀬奈に言葉を伝えられる──そう確信した。
不思議なものだ。
それまで言いたくても言えなかった事が、ここでなら、今なら言える。
「ごめんよ、瀬奈」
それが最初の言葉だった。
瀬奈を責める気持ちはなかった。
「僕さ、ずっと自分に自信がなくて、どうしても瀬奈を繋ぎ止められると思えなかった。瀬奈が好き、って言ってくれても、『そんなの嘘かもしれない』『いつか離れてしまうかもしれない』って、勝手に疑ったりしてた。……ほんとは、不安でたまらなかったんだ」
瀬奈の顔がほんの少し強張ったように見えた。
でも、僕は続ける。
「だから、瀬奈が男に誘われているって聞いたときも、本気でどうにかしようとしなかった。自分には守る力なんかないと思い込んで、最初から諦めてたんだよ。言い訳としては、『瀬奈が危険になるよりはマシ』とか、『波風を立てたくない』とか、いろいろあったけど……本当は責任を負うのが怖かっただけだ」
瀬奈の顔は曇ったままだ。
僕は彼女に「もう自分のことは気にしないで生きてほしい」と繰り返し伝えた。
僕が死んだのは、決して瀬奈のせいじゃない。
弱い自分が招いた結末だ、と。
瀬奈は僕の言葉が聞こえているのか、それともいないのか。
ただ僕を見つめているだけだった。
そんな日々が続いていった。
◆
翌日以降も僕は不思議と1日に一度だけ、瀬奈の夢に入り込むことができるようになった。
瀬奈は日に日に憔悴していくようで、夢の中での姿も暗く沈んで見えた。
僕が「大丈夫か」と声をかけても返事はない。
僕は焦った。
少しでも瀬奈の心を軽くしてやらなければいけないのに、なぜうまく伝わらないのか。
僕が何を言っても瀬奈は自分を責めて、僕の死を受け入れられず苦しんでいる。
僕は恨んでなんかいないのに……。
どう伝えればいいのだろうか。
ある夜、僕はいつものように瀬奈の夢へ向かう。
霧の中で、瀬奈は僕を見つめている。
「瀬奈……僕は君を恨んでない。本当だ。信じてくれ」
瀬奈は答えない。
手を伸ばし、僕に触れようとするが──すり抜けてしまう。
「私には、良太に触れる資格なんてないよね」
そう言って瀬奈は霧の向こうへと歩き去って行ってしまった。
瀬奈は、それから間もなくして自ら命を断った。
ある天気の良い朝、ふらりとマンションの屋上へ行って、そのまま飛び降りて死んだ。
マンションは15階建てで、瀬奈は頭から落ちた。
アスファルトに飛び散った肉片は瀬奈の脳漿か何かだろうか、良く分からない。
僕は瀬奈の死体の傍らに立ち、ずっと彼女を見ていた。
マンション住民の悲鳴。
遠くから聞こえてくるサイレンの音。
昼が過ぎ、夜になり。
瀬奈の死体がどこかへ運び込まれていってしまっても、僕もそこへついていき、ずっと彼女の死体を眺めていた。